印刷

名もなき少女の肖像

―鶴田謙二または『おもいでエマノン』

m o m e n t

 たとえば名前のない者同士のゆきずりの恋――しかし、そのほんのわずかな時間のふれあいが永遠に記憶のなかに残り続けるとしたら、どうだろうか。
 一九六七年の船上、あるいは一九七九年の駅のプラットホーム。いずれにせよ、その一三年の歳月など、彼女にとっては刹那の出来事にすぎない。「数時間一緒にいても、数十年間一緒にいても同じことなのよ」と彼女は言った。
 小説家、梶尾真治の短編小説『おもいでエマノン』。そのヒロインである少女は、若き日の作家が退屈な船旅の途中で、もし「自分の目の前に信じられないほどの美少女が現れて、一緒に馬鹿話しながら船旅ができたらいいなあ」と思い描いた妄想と「ゆきずり」「一期一会」というイメージが重なり、その後八年ほど温められたのちに小説の中に登場することとなった。彼女の名前はエマノン。
 「髪が長くて、ジーンズをはいてて、タバコを咥えて、そばかすがあって」と著者のイメージする彼女の容姿は、単行本の刊行や文庫化のたびにイラストレーターや漫画家の手によって本の表紙にそのように描かれることとなる。しかし、著者をして「かなりぴったりでした。驚きました」「はまりすぎている」と言われるほどの、明確な姿を手に入れるためには、長い年月を経てもう一つの想像力と出会う必要があった。

1―――――――――――――――――――――――――――
  未完のイマジネーション

 鶴田謙二は寡作な漫画家である。その寡作ぶりは漫画家活動の初期一五年の間に描いた作品が二冊の短編集『Spirit of Wonder』『SF名物』と一冊の画集『水素』にほぼすべて収まってしまうという事実からもうかがい知れる。さらに鶴田の作品には未完のままであるものが多い。一冊目の単行本である『the SPIRIT of WONDER 1』は第一巻として刊行されながら、けっきょく二巻目はなく、その後、未収録作品を加えた完全版『Spirit of Wonder』として再刊行されることとなり、その末尾には「THE SPIRIT OF WONDER/完」と記されている。また『水素』にまとめられたSF漫画の佳作「Ring The World」の末にははっきりと「未完★」とあり、その後、現在までに単行本化された作品にも続刊を示唆されながら続きの描かれていないものが多い。
 たとえば、アニメ作品を原作とし、そのコミカライズとして描かれた『アベノ橋魔法☆商店街』の単行本では、商店街が突然温泉に変わった謎を解こうとする場面で「ひとまず、おしまい。」とされ、雑誌上で連載されていたらしい「続き」を単行本としては読むことができない。
 長編として雑誌掲載されて単行本化した『Forget-me-not〈1〉』は遺産相続の条件としてヒロインが探している盗まれた絵を見つけることなく、また『冒険エレキテ島 1』ではヒロインが探し求めていた幻の島の回遊ルートを特定し島へ向けて飛び立っていく場面で、第一巻が終わり、その続きは途絶えてしまっている。ほかには『ポム・プリゾニエール』のように連作短編をまとめたものがあるくらいだ。
 鶴田のイラスト集『ひたひた』に掲載された「あとがきにかえて」と題するインタビューの中から、遅滞と未完にかかわると思しき発言を探ってみると、作業の進め方について「ウィンドウズ3.1のマルチタスクみたいで。二つのことをいっぺんにやると処理能力が両方とも五倍くらい遅くなる」という発言が見られ、これは漫画家と並行してイラストレーターとしても活躍する鶴田にとって、遅滞の大きな原因の一つになっていると考えられる。
 また連載時には「同じ絵を二枚描くというのはストレスになるので結構時間がかかる」ため、時間の要求に応えるやり方として、ネームでは全部決めずラフとしておき、バックをしっかり固めず「結果オーライ」の後付けで描いており、この描き方では、物語が進んでいくと辻褄を合わせるために「段々道が狭まって」いき「やる事がなくなって」しまうのだが、連載をすすめるうえでは前半をスムーズに進められるという点で「アドバンテージを稼いでいる」。しかし「結局いつも時間に負けてしまう」のだという。

2―――――――――――――――――――――――――――
  名づけあるいは忘却的リインカーネーション

 そんな中、唯一シリーズとして復数巻刊行されているのが『おもいでエマノン』『さすらいエマノン』『續 さすらいエマノン』である。鶴田がエマノンを描いたのはこのコミカライズがはじめてではなく、その出会いは二〇〇〇年、「SF Japan」誌に掲載されたエマノン・シリーズの短編小説『あしびきデイドリーム』の扉イラストを手掛けたことがはじまりだった。
 エマノンの姿は、はじめ一九八三年に単行本のイラストとして新井苑子によって、その後、一九八七年の文庫化の際には、高野文子によって描かれている。そして、その「一三年後」となる二〇〇〇年、前述の雑誌掲載を皮切りに徳間デュアル文庫に再録・続刊刊行されるにあたって、エマノンは鶴田謙二によって描かれる機会を得る(その後、徳間文庫に収録されるにあたっては『おもいでエマノン〈新装版〉』以下、すべて鶴田がイラストを担当している)。
 『おもいでエマノン』のあらすじを簡単にまとめてみよう。主人公の「ぼく」は船旅のゆきずり共同体の中で、偶然、不思議な少女と出会う。ぼくが名前をたずねると、彼女は「名前なんて記号よ」と答え、ノー・ネームの逆さ綴りとして「エマノン」と名乗る。エマノンは、自分は地球に生命が発生してから現在までの三十億年分の記憶をもった存在であると語り、これまでに体験した記憶についての「物語」をぼくに話して聞かせる。彼女の記憶は出産によって子に総て引き継がれていき、母となった側からは記憶が失われるという。翌日、話の真偽の判断をぼくに委ねたままエマノンは姿を消してしまう。そして十三年後に再会を果たすことで、ぼくはエマノンの話が真実だったということを知る……といったところだろうか。
 エマノンが語った記憶は、全人類史的なものではなく、あくまでエマノンの個人史的な記憶であるが、彼女は永遠に記憶を保持し続けることで時間の流れ(歴史)の中に縛られていると同時に、記憶の継承により個体としての時間の縛りから切り離された存在であるともいえる。記憶が出産によって引き継がれていく以上、少なくとも「人間」として生きるようになって以降、彼女には生まれ直すたびに固有の名前が与えられてきたはずであるが、すでに彼女にとって、それらの固有名は意味をなさない記号となっており、自分の存在を統一的に表す名前として「エマノン」を用いている。
 固有名詞はたしかに記号的である。しかし田中克彦『名前と人間』によると「名前は、ある特定の言語に属す」ことから「人間の名前がその所属を示」しており、固有名詞は所属する言語のパターンや社会的パターンをもつことになるという。
 エマノンの物語からは、彼女がここしばらく、少なくとも千年近くの間は、日本で生きてきたことが類推できる。おそらく、作中のエマノンにもぼくが想像したようにイニシャル「E」ではじまる、悦子、栄子、絵美、江奈などといった日本的な名前があったのだろう。しかし、彼女はそうした名前を「なんでもいいわ」と切り捨てて日本社会における名前のパターンから自らを切り離してしまう。「No Name」という単語自体は英語であるが、それを逆さにして音だけを取り出し「エマノン」と読むことによって、それはまた英語のパターンからも離れる。こうして彼女は「エマノン」と名乗ることで社会から距離を取ろうとしているかのように見える。
 また実名について、田中は、モンゴルにおいてわざと「名無し」と名づけることで「病気や災厄をもたらす魔物」から「死亡率の高かった乳幼児」を守る=この子は名無し(不在)であると魔物に語りかけるといった事例を挙げている。このことは、記憶を継承するため永遠に子孫を残し続けていかなければならないエマノンが、自らを災厄から守るために「NO NAME」と名乗っているという考えにもつながるだろう。それが逆綴りとなっているところからは、無意識に自らの生命を守ろうとしつつも、未だに彼女が自分の存在意義を見いだせずにいるという迷いも読み取れる。
 しかし、ぼくとの対話を経て十三年後に再会したエマノンは、自身の存在を「歴史そのものの具象化」であるとし、歴史とは「人類や生命全体の“おもいで”に違いない」と語り、歴史=「おもいで」として存在していくことを受け入れている。
 市村弘正『「名づけ」の精神史』は、名づけのもつ「物事を生成させ変貌させる」作用について語りながら、いまや名前がそうした力を失い、経験の痕跡をほとんど含まない新しい名前の連続的な交替として世界が形づくられている「現在」において、その網目を通してしか事実と向き合えなくなった状態を「歴史の瀕死状態」と呼んでいる。
 次々に現れる新しい物に「仮の名」をばらまいているうちに、人間は事物の「真の名」を忘却していく。そんな仮の名の包囲状態の中で、窒息しつつある歴史的想像力を再結晶させるためには、忘却を活用する必要がある。つまり、いったん忘れ去ったうえで、忘れられた真の名前を思い出そうとする意志によって、時間の経過の中で蓄積され断片化された記憶の再結合が起こり、事物のもつ根本的な意味が想起されるということである。
 もちろん「思い出す」作業のためには「おもいで」が必要である。こうして人間が歴史を延命させ、事物のもつ価値を回想しようとし続けるかぎり「おもいで」=エマノンは肯定的な存在意義をもち続けることになる。私たちが、不意に彼女のことを思い出したとき、彼女は微笑みながら言うだろう。「私、あなたのこと好きよ。多分、永遠に忘れないわ」と。そのとき脳裏に浮かぶのは鶴田がコミックに描いた少女の微笑ではないだろうか。

3―――――――――――――――――――――――――――
  幸福な一期一会

 たとえば、名づけの場面が印象的な小説の一つに高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』がある。この作品では、恋人たちには名前が必要であるとされ、そのふさわしいつけ方は次のようなものとされる。

 わたしたちは自分の名前をつけてもらいたいと思う相手に「わたしに名前をつけて下さい」と言う。
 それがわたしたちの求愛の方法だ。

 ここでは互いに名前をつけ合うことで、特別な関係性が生まれている。しかし『おもいでエマノン』において、ぼくとエマノンは名づけあうことも、名乗りあうこともなく、最後まで互いに「ノー・ネーム」のままであり、名前に関して交わされるやり取りも実に素っ気ないものである。二人の触れ合いは、たった一晩のことで、それは一見して求愛と呼べるような深いつながりではなかったかもしれないが、永遠の記憶を持つエマノンにとっては、一瞬はすなわち永遠でもあり、彼女は特別な出会いを幾度となく繰り返さなければならないのだ。通過してきたすべての事物を記憶している彼女の特別な「瞬間」には、むしろ固有の名前は必要ないのかもしれない。
 コミック版『おもいでエマノン』の惹句として、しばしば「この作品の絵は、他の人に渡したくなかった」「自分の描く少女にはすべてエマノンの影響がある」といった鶴田のコメントが使われており、実際に梶尾との対談でも鶴田自身「『エマノン』といえば俺」と述べている。
 梶尾によって想像され、永遠に続く記憶の中を生きていくエマノン。エマノンの中に蓄積されていく記憶は、あくまで彼女の個人史であり、それはマルチなものではなく単線的である。その歩みは人類・生命が続くかぎり、未完のものとして、しかし決して、時間に負けることなく続いていく。それは漫画家としての鶴田にとって、一つの理想像といえるだろう。そうであれば、鶴田はエマノンと出会い、その姿を描くことで、永遠の中の刹那に映った最も幸福な「瞬間」を切り取ったのかもしれない。
 鶴田はコミックのあとがきでこうも言っている。「いまだに描いても描いてもイメージが逃げていくような感のあるエマノン」と。

Good morning! Good-Bye!
           EMANON

 彼女との出会いは、常に一期一会である。

(模倣元:巽孝之『現代SFのレトリック』)

文字数:5083

課題提出者一覧