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昭和から遠く離れて

「昭和から遠く離れて」

当たり前の事実であるが、今年で昭和が終わって28年である。この間には、それまでと違う大きな地震や新たな革命集団による戦争、また世紀をまたいで新世紀最初のディケイドであるゼロ年代もコンピュータの普及とともに足速に過ぎ去り、そして大震災からは5年の月日が過ぎている。必ずしも身の回りで起きたことではないこれらの出来事に加え、もっと些細で取るに足らない数多くの出来事が、パソコンやスマホと私たちの間を流れながら目の前を埋め尽くしてきた。しかしながら、このように四半世紀の年月が流れても、それでも過ぎ去った昭和からは一向に逃れていないどころか、また繰り返すのではないかという感覚は何度となく脳裏をよぎりつつ、日に日に多くの日本人に共有されつつある。懐かしさとも違う、未だに私たちに寄り添う昭和とは、イギリス人にとってのヴィクトリア時代の栄華のような、またアメリカ人のにとっての絶頂としての60年代のようなものなのか、もしくは「白けつつのる」に代表されるようなニヒリズムに近い対象なのだろうかと逡巡してみたくなる。理由は何であっても、私たちが自身の現在位置を定めるために昭和の想像力を必要としているという事実は、東浩紀氏、佐々木敦氏による「昭和90年代」という名付けが示すように、私たちがこの数世代を精神的な捻れをかかえたまま現在に至ってしまった共通の無意識があるからに他ならない。

「昭和90年代の批評」

そして批評再生塾第一期において、最終課題として設定された「昭和90年代の批評」とは、元号も当に変わった平成の現在でさえ「戦後レジームの克服がいまだ政策課題になり続けていることが、いかにぼくたちが深く昭和に囚われ続けているかを証明している」という東浩紀氏の実感にあるように戦後70年という月日を費やしても逃れられない現実を前提としつつも、1920年代(1925年は昭和元年である)以降の真性モダンな前衛芸術を端緒とするこの社会の帰結する地点をこの架空の昭和90年代が担っており、批評という言葉の強度に執拗に拘りを見せる東浩紀氏、佐々木敦氏は逃れられないながらも、新しい批評に掛けてみたいという意思の表れである。

「擬日常論について」

この問いかけへの応答である批評再生塾一期最終提出論文「擬日常論」において上北千明氏は、スマホやネットニュースに囲まれた、私たちの普段と何ら変わらない日常を描きつつ、そこに破局的(カタストロフ)な事象が段階的に起こっていく二つ漫画作品について論じている。論考では、そのシニカルな日常性を 3.11 後の私たちの日常と並行(パラレル)な「擬日常」であると定義付けすることで、漫画やアニメの次世代が担うべきキータームとしてその可能性を示しつつ、これまでの孤独に戦う少年から運命共同体的な同性集団が物語を牽引するストーリー展開に、エヴァンゲリオン以降の漫画アニメのジャンルが背負ってきた所謂「ポスト・セカイ系」の発芽を見ている。

二つの漫画作品である漫画雑誌スピリッツに連載された「花と奥たん」と「デデデデーモンズ」の例では、前者では、昭和初期に誕生した郊外鉄道と東京のスプロール(渦巻)化する都市膨張と並走しながら(ある意味で先導したとも言えるが)成立した都市の風景に、突如登場した巨大植物が重ね合わせ(スーパーインポーズ)られる黙示録的な光景を背景としつつ、時に主人公がそれを食べるといったような行為によって、普段の日常が異様さを帯びていく過程を露にし、徐々に不気味に世界が変質していく様子を説明してみせた。後者の物語世界では、人間以外の生命体との戦争が日常とともに描かれつつも、そのような状況下でも、家族や友人との生活といった日常が続く様に、前者の日常の不気味さはより差し迫った危機と同居する日常性として説明されている。

このような日常性を擬態する物語を例としながら、上北氏が「ポスト・セカイ系」の模範として作品から取り出して見せた運命共同体的な同性集団とは、「デデデ」を例とすれば、物語世界での最重要でありながらも最小の存在である主人公と、その河岸に位置するカタストロフという出来事に対しての緩衝材として十分に機能しているように見える。同時に共同体そのものの緩い連帯感が、主人公を含め、集団内の個々人の脆弱さをも演出しているように思える。更に感情表現をあまりダイレクトにしないこの作品の表現世界は、物語の展開の先にある人類滅亡という不安感情を掻き立てる仕掛けである。

文芸評論家の蓮實重彦氏は、かつて「小説から遠く離れて」において、村上春樹、村上龍らの作品世界に、共通して双子が物語を牽引していることを指摘することで、私小説が個人の傷に執着し、時代的な意味性から遠ざかり、メタ性を失っていく90年代の状況においても、作家の集団的な無意識の存在を示してみせたように、ここで上北氏の言う「ポスト・セカイ系」では、同性集団がその無意識を背負っているのだろうか。

本来、「セカイ系」と呼ばれる物語世界では、主人公と外部世界のつながりは、簡単に言えばモビルスーツやロボットによって媒介されていた。哲学者の上野俊哉氏は、1997年に書かれた論考「ジャパノイド・オートマトン」において、日本人が作品世界で敵から身を守るために擬態するモビルスーツについて、そこにある戦後日本人の政治的身体性を指摘してみせた。上野氏の指摘である戦後的身体とは、擬態する私たちが、外部には、攻撃的でありながら、スーツ内部では、心理的に不安定な戦いを強いられている分裂状態に表現されている通り、少年期の内的葛藤と機械に補完されなければ生きられない精神的な弱さをアイデンティティとすることに対して、補完するモビルスーツは兵器として強力に武力を行使する捻れた世界を描き出していた。

「擬日常論」への問いは、少年少女ら、または取るに足らない力しか持ち得ない人間にとって、破局的な出来事に無関心な姿勢自体は、それが強者たちの世界の出来事であり、そのような社会の因果であると理解できる。しかし力を持ち得ない人間が、上北氏の言う「ポスト・セカイ系」の運命をともにする共同体の集団性によってニヒリズムから脱却する力となりえたとき、それが昭和を通じて捩れを蓄積してしまった私たちを近代最終章としての昭和90年代に導くのではないか。そして、そのような種類の力こそが更に昭和90年代から遠く離れた未来に届くのだろう。

 

 

 

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