印刷

擬日常論と批評再生塾1期総括について

1.擬日常論についての批評

擬日常論の批評に関し、述べていきたい。
論者の「花と奥たん」での導入、料理と鉄道漫画としての内容紹介には、日常生活から卑近な「料理」と「鉄道」という固有名詞がある事で、その論理展開について想像をさせる掴みがあり、惹きつけられるところであるが、「デットデットデーモンズ」で取り上げている決定の遅延は2作品の世界観を現した論点ではないだろうか。その中でも論者が述べている「デットデットデーモンズ」の下記の引用箇所について別の解釈が成り立つ余地について考察する。

母艦の来襲は国際的な出来事のはずだが、現代の東京を舞台にしているにもかかわらず『デッドデッドデーモンズ』にはおどろくほど外国人の姿がない。テレビに映るのは「朝まで生テレビ」を模したような日本人出演者だけの討論番組。門出たちの生活圏は概ね武蔵野市周辺にかぎられ、アメリカや中国といった諸外国がこの「非日常」をどう見ているかは隠されている。それが結果的に門出たちの「日常」を強固なものとしているのではないか。『花と奥たん』で外からやってきた「学者」の忠告は、奥たんの「優しい微笑み」によって包み込まれ無化されていた。それと同様に『デッドデッドデーモンズ』の「外国人」の忠告は、今度は門出たちの「英語力のなさ」によって排除された。ここに同型の構図を見ることもできよう。

ここでは、「テレビに映るのは「朝まで生テレビ」を模したような日本人出演者だけの討論番組。」門出たちの生活圏は概ね武蔵野市周辺にかぎられ、アメリカや中国といった諸外国がこの「非日常」をどう見ているかは隠されている。という文章では、ガラパゴス化した日本及び情報操作されている状況に対するメタファーとも考えられる。

他方、『デッドデッドデーモンズ』の「外国人」の忠告は、今度は門出たちの「英語力のなさ」によって排除された。という文章では、情報弱者となってしまっている点について門出たちの無自覚について考えられる。

結論部にある、日常と非日常という枠組みではなく、この日常が非日常とつねにともにあるということ、すべてが擬似的な日常でしかないという感覚を取り戻すところから考える。そんなことができないだろうかと感じた。擬日常性を支えている最大のアイテムはスマートフォンという認識、つまり、対人、対社会を含めたコミュニケーションに関する認識、いつでも起こり得るような「確率(probability)」の出来事という認識を持つことが出来れば変わりうるのではないだろうか。

2.批評再生塾一期の総括及び二期について

批評再生塾一期の募集では、批評について、以下のように述べられている。
批評とは本来、外の言葉である。たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。

つまり、常に登壇競争に代表されるような緊張感が必要であると同時に、外の言葉である以上、他者を意識した.批評でなければならない。その点で、二期生も一期生同様の入塾者を迎えている。その上で、客観的に実証的に批評をしていく事が求められると考える。

その上で、批評再生塾二期生は批評再生塾の可能性を模索し、それを発展させる必要があると考える。なぜなら、一期生の試行錯誤の上に、二期生があり、その成果を享受出来る点にあると考える。また、パイオニアである一期生に対し、ゼロからの試行錯誤での成功で得られた経験値という点では劣るからである。また、注目される機会も同様である。

私は批評再生塾の一期及び二期を比較し、二期のテーマを参照すると、一期のテーマから「映像」、「身体」、「運動」が無くなり、「趣味」、「漫画」、「演劇」に変更となっている。この開講テーマから何が読み取れるだろうか。

ジャンルに焦点を当てることを意図したのではないだろうか。
何故なら、「映像」、「身体」、「運動」とはやや抽象的な固有名詞である。それに対し、「趣味」は抽象的だが、「漫画」、「演劇」は表象的でかつ具体性が感じられる。

「身体」、「運動」は身体に関連するテーマだが、抽象的なものを如何に具体的に批評するかという点では一期のテーマ「身体」の「図で批評する」という課題は、批評の求められる表現力を図で求め、「運動」では、歌い手の声と身体の用い方についてをテーマとして求め、表現力を磨きあげる上で、重要な糧になったに違いない。

それに対し、二期では前回では、最終に近かった「媒体」が二回目のテーマになっており、一期に比し、「趣味」というテーマがある。
趣味判断が関わると思われるが、私見では、「媒体」、「趣味」で概説的に批評感をつかんだ上での具体的なジャンルに取り組んでいくように企図されていると考える。

いずれにせよ、二期生も一期生に負けず劣らず、塾という他者がいる環境で、十か月間という制限された時限の中で互いに切磋琢磨し、常にたゆまぬ努力で新たな批評を展開していく。それこそが、批評を再生し、批評家養成塾に入塾した意義となると私は考える。

文字数:2096

課題提出者一覧