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〈死民批評〉宣言

 

1. あの日のこと

 あの日、私はマニラの貧民窟にいた。廃墟と化したコンクリートの建物の中に、数百世帯が不法に住みついている。黒ずんだコンクリートの高壁に服が擦れるほどに狭くて暗い通路を進んでいく。通路の片側に、4畳ほどに間仕切られた住居スペースが連なる。ドアがないため中は丸見えである。部屋の片隅に、布団代わりに使われているのであろう布類が積んであり、鍋が転がり、あとはこまごまとした日用品が置いてある。日中、住人のほとんどは出払っていていない。大人も子どもも、路上で労働をしている。この廃墟で暮らす者たちのために、日用品や食料品をバラ売りしている店(たとえばクラッカーも一枚から買える)が数世帯おきにあり、そこで店番をしている老女と、狭い通路で、金だらいで洗濯をしている女の子を時々見かけるくらいだ。しかし夜になれば、この廃墟は、あまたの老若男女がうごめく無法地帯になるのだろう。私はその蒸した闇を知らない。ただ想像するだけである。このような貧民窟では、夜にどこかの世帯で火事が起こると、千にのぼる住人がほぼ全滅するという。逃げ道が、狭い通路の一本しかないからだ。フィリピンの首都マニラには、このような貧民窟が無数に存在する。
 あの貧民窟の中で、我々一行(村役場の役人と大学教授と当時大学院生だった私)は、完全なる異物だった。私たちはサリサリストア(貧困層向けに日用品・食料品をバラ売りしている店をこのように呼ぶ)の調査のため、店番をしている彼女たちにインタビューをする目的で廃墟に入った。が、路上で労働している貧民たち、あるいは路上にあるサリサリストアとは違い、廃墟の中はあまりにも異世界だった。路上では、私たちは彼ら貧民の関心の対象となっている。なぜなら、仕事なり金銭なりを与えてくれるかもしれない存在だからだ。しかし、ひとたび廃墟の中に入れば、私たちは、彼らにとって全くの役立たず、用無しの人間であった。彼らにとって本当の生活の場は、路上ではなく、あのコンクリート塀の廃墟の中にあったのだ。そこは、声なき声が渦巻く閉鎖空間だった。インタビューへの応答という生の声が、空々しく響くほどに。そこは、私たちが無闇に立ち入るべき場所ではなかった。生の声を集めるだけではどうにもならないということを、あの日私は思い知ったのだ。それほどに、あのコンクリート塀に染み込んだ「声なき声」の黒々しさは、圧倒的だった。

 東日本大震災は、私がマニラの貧民窟にいたあの日に起こった。移動の車の中でかかっていたタガログ語のラジオの報道を、運転手が英訳して伝えてくれた。「東京の近くで、ものすごく大きな地震があったようだ。詳しいことは分からないけれど」と。私たちは青ざめ、近くの役所に入ってインターネットで事実を確認した。各々身内に連絡を取り、幸い同行の者たちの身内は全員無事だったため、予定通り調査をつづけることにし、十日ほど後に帰国した。しかし、帰り着いた東京はもう、以前と同じ東京ではなかった。成田空港から電車を乗り継ぎ、見慣れた駅のホームに降り立った瞬間、眼前にあったのは私の見知らぬ光景だった。空気の粘度が違う。彩度が違う。靴音の残響が違う。ホームの片隅で私は、マニラの貧民窟にいた時以上に、この東京で異物の存在だった。私は、日本の(東京の)人々が共有すべき決定的な何かを、共有していなかった。

 6年前のあの日、私はいるべきでない貧民窟にいて、いるはずの東京にいなかった。あの日からずっと、私は、現実社会と私の思考とを結びつける蝶番の如きものを見つけられていない。どちらへ足を運び、どちらへ手を伸ばせばよいのか。どちらへ耳を傾け、誰の声を聴けばよいのか。私の思考の触手は、行き場を見失い、戸惑いつづけている。あれから6年も経つというのに、未だに。

 

2. 声なき声を聞くこと

 ある意味で、いまの世界は正義と善意に満ち溢れている(もちろん、不正と悪意がこの世から消えることはないが)。世界中の貧困地域に、開発機関の職員や大学の研究者が入り込み、貧困者の声を聞き、データを集め、経済発展に手を貸している。また東日本大震災のような大規模災害が生じれば、世界中から支援物資や寄付金が集まり、大勢の国内ボランティアが動き出す。貧困や災害を乗り越えるために、多くの人が手を差し伸べてくれる。しかも、資金援助やインフラの整備といった形式的なものだけでなく、もっと「当事者の声」に即した、当事者のニーズに合った支援をしようという風潮が高まっていることも事実だ。しかし、いや、「だからこそ」という方が適切だろう、発せられない声に対する感度が鈍くなっているのではないか。

 東浩紀は、東日本大震災と原発事故を巡る言説を概括して、「いまの日本社会には、経済合理性と『当事者の声』しか公共善について語る基準がなくなっている」と警鐘を鳴らす。

政治家も文学者も研究者も、いまは当事者の「いまここ」の声を「代弁」することしか考えていない。実際に、繰り返しになるが、いまではそれぐらいしか正義や倫理の根拠がない。けれども、それは本当に代弁になっているのか。それはじつは、当事者の声の代弁のようでいて、「当事者が言えること」「当事者が言うべきであること」「相手が自分に言ってほしいと察して当事者が言っていること」を反復しているだけではないのか。人間には、だれでも、思っていても言えないこと、本人でさえ言いたいと気づいていないこと、「心の中で言っていること」がある。「エビデンス」などけっして届かない、その無根拠の闇に降りずして、なにが弱者の代弁だろうか。(東浩紀「観(光)客公共論 #8」『ゲンロン観光通信 #82016115日)

 語られる「当事者の声」を重要視するあまり、闇に埋もれる「声なき声」が存在するという当たり前のことへの想像力が欠如しているのだ。では、語られることのない、「声なき声」とは何か。それをどうやって聞くことができるのか。東が示唆するように、石牟礼道子の『苦海浄土』には、それを探る手がかりが詰まっている。

『苦海浄土』は、水俣病について書かれたルポルタージュ風の小説で、全三部から成る大著である[1]。専門的な医療カルテや訴訟資料などが多数引用されており、また水俣病患者の声も「聞き書」の態をとって書かれているため、一見ルポルタージュの様相を呈するが、渡辺京二が「解説」で明らかにしているように、患者の声はすべて想像で書かれたものだという。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と明かす石牟礼は、『苦海浄土』において、まさに水俣病患者の「声なき声」を書き付けたのである。

みずからはことばをしゃべらぬものたちの物語にわたしは耳を傾ける。[……] わたしの見ているのは、日本資本主義発達史とやらの概要からはこぼれ落ち、辺境の野末に相果てたものたちの影絵である。(石牟礼道子『苦海浄土』p.370[2]

 彼女にとって、水俣病患者の「声なき声」を聞くという営みは、社会的正義感/公的精神の働きによるものではなく、非常に私的な探索行為だったようである。

水俣病を書くということは、自分が生きてゆく上での自己点検をしていくという非常に私的なことであるにもかかわらず、水俣病みたいなことをテーマにして書いてしまうと、否も応もなく社会的な存在みたいなものになってしまう。それを避けることは現代ではできない。そういう社会の仕組みになっている、と思うのです。私は主観的には、社会的な存在として発言をしようと思っていません。しかし、公共の面前で、不特定多数に対して語るということは、そういうことになってしまう。こういう風に生きてゆきたいという願望と何事かを行なった結果は、いつも引き裂かれてしまう。(石牟礼道子「流民の都1」『流民の都』p.36-37[3]

 石牟礼自身が講演会でこのように語っている。だから私たちはやはり、『苦海浄土』が社会的/政治的に非常な影響力をもったのは紛れもない事実だとしても、あくまでこれを私的かつ文学的な書として読まねばならない。そのような読みの中に、石牟礼がどのようにして「声なき声」を聞くことができたのかを探る道も、見えてくるはずである。

 石牟礼は、どのように語られぬ声を聞き、『苦海浄土』を書いたのか。『苦海浄土』の中の次のような一節に、「声なき声」を聞く彼女の覚悟を垣間見ることができる。

潮の回路の中にあらわれるように、わたくしの日常の中に、死につつあるひとびとや死んでしまったひとびとが浮き沈みする。ひとの寝しずまっている夜中に、まるで、きゃあくさったはらわたを吐き出すような溜息を吐くな! と家人たちがいう。自分が深い深いほら穴に閉じこもっていることをわたくしは感じ出す。
とある夏、髪のわけ目の中に一本の白髪をわたくしはみいだす。[……] 人びとの終わらない死が定着しはじめたのだな、とわたくしはおもう。わたくしはその白髪を抜かない。[……] わたくしの死者たちは、終わらない死へむけてどんどん老いてゆく。そして、木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである。(石牟礼道子『苦海浄土』p.219-220

 石牟礼は「深い深いほら穴に閉じこもって」、「死につつあるひとびとや死んでしまったひとびと」の「終わらない死」を、「全部わたくしのもの」として引き受ける。「全部わたくしのもの」として引き受けることができたのは、彼女が水俣病を〈わたくしごと〉として捉えていたからに他ならない。

〈わが水俣病〉は、さなきだに不遇きわまる生涯だった老父の晩年に追いうちかけてさいなみ殺したのではあるいまいか。日本近代下層民の歩く道を父は歩き通し、くずおれ果てたのである。[……] ゆえに、これらのことどもはいっさい〈わたくしごと〉にすぎない。水俣病事件は、わたしにとっては〈わたくしごと〉の一部にすぎない。〈わたくしごと〉の一部をもって、公け事の陰影の中に入るのみである。(石牟礼道子『苦海浄土』p.343

 石牟礼は、水俣病にまつわる「死につつあるひとびとや死んでしまったひとびと」のことを〈死民〉と表現する。〈死民〉とは、死んだ者という意味ではない。死者の如く声を奪われた者という意味である。声を奪われた者たちは、石牟礼の口を通じて声を得る。そして彼らの「終わらない死」を訴える。

死民とは生きていようと死んでいようと、わが愛怨のまわりにたちあらわれる水俣病結縁のものたちである。ゆえにこのものたちとのえにしは、一蓮托生にして絶ちがたい。[……]
「一生かかっても、二生かかっても、この病は病み切れんばい」
わたくしの口を借りて、そのものたちはそう呟くのである。(石牟礼道子「わが死民」『流民の都』p.116

 そして石牟礼は、〈死民〉の声を聞くために「深い深いほら穴に閉じこも」る。

水俣死民と呟いてみて胸にきざすのは、自分に課する孤立だった。いまや存在していることが、ただちに他者に対する罪でありうる現世であってみれば、意識されうるかぎりの生の内部は罪にみちていた。あのひとたちの死にぎわのまぼろしを、ぜんぶ見終えるために生者たちから、孤立しなければ、したい、とわたくしはおもう。(石牟礼道子『苦海浄土』p.675

〈死民〉の「声なき声」を聞くために、石牟礼が自身に課したこと。それは、生者から隔てられた孤独の闇に沈み込み、〈死民〉の存在を〈わたくしごと〉として引き受けること。そして、〈死民〉の中に自分自身を点検していくことであった。

 

3. 〈市民〉の原理、〈死民〉の生成

 それにしても、水俣病患者に限らず、声を奪われた〈死民〉が次から次へと生まれ来るのはなぜなのだろう。近代以降の民主主義というのは、封建制の下で声を上げることのできなかった市民の声を掬い上げようと生まれた制度ではなかったか。声なき声を公平に聞こうと誕生したシステムではなかったのか。
 柄谷行人は、民主主義という政治形態が「広告」と同じ原理から成ると言う[4]。どういうことか。私たちは、広告が私たちを誘導する目的でつくられていることを知りながら、なおその広告に誘導され、商品を購入している。自分を動かすものの手の内を知りつつ、敢えて/主体的にそれに動かされているのだ。このような広告と大衆の関係は、民主主義社会における権力者と市民の関係にもそのまま当て嵌まる。民主主義を標榜する社会では、権力者は市民の支持を得て権力者となる。市民は、自分を動かす権力者の手の内を知りながら、敢えて/主体的にそれに動かされることを選ぶのである。
 権力者が市民の支持を得て権力者となる、民主主義のその心は何か。それは、平等の理念である。近代の民主主義社会は、中世の封建的身分制度の否定の上に誕生した。身分という政治上の差別構造を廃し、法の下に平等たる市民の同意によって権力が発動する政治形態を採択したのだ。だが現実には、民主主義社会の至るところに差別の構造が存在している。人種差別しかり、地域差別しかり。(それらの問題は、経済的不平等と相俟って、より複雑な相を呈している。)民主主義のシステムが、その理念に反して、差別構造を孕んでしまうのはなぜなのか。「広告」の原理は、そのカラクリをも説明してくれる。
 ひとつの広告が、大勢の人々を動かす。なぜそのようなことが可能なのかと言えば、それらの人々の間に、共通の欲望や性向があるからである。共通の欲望や性向をもつ人々の集合を共同体と呼ぶならば、ひとつの広告が通用する範囲は、ひとつの共同体の範囲を規定する。広告は、同時にまた、その共同体に共通する欲望や性向を強化する方向にも作用する。民主主義のシステムも、これと同様である。民主主義社会における権力は、共通の欲望や性向をもつ多数の市民の支持を得て、権力となる。ひとつの権力が支持を得られる範囲が、ひとつの共同体の範囲を規定し、同時にまた、選ばれし権力が、その共同体に共通する欲望や性向を強化してゆくのである。このようにして民主主義社会は、共通項をもつ者たちの結束を固め、一方で、共通項をもたない者たちを共同体の外側へと追い遣る。民主主義は、その原理のうちに、差別構造を孕む政治システムなのである。
 民主主義というシステムは、多数派の声を結束/強化させ、その裏で常に、聞かれぬ声の存在を生み出す。このような民主主義の抱える〈死民〉生成構造を、ここでは〈市民の原理〉と呼ぶことにする。この〈市民の原理〉は、一国内、一県内、一市内、一村内と、大きな集団から小さな集団まで、どこまでも、幾重にも、発動する。水俣病患者は、国から、熊本県から、水俣市から、水俣市民から、幾重にも排斥されている。たとえば、次のような水俣市民の心理が、〈市民の原理〉を発動させ、水俣病患者を最初に共同体の外部へと追いやるのである。

--特急も止まる水俣へ
水俣をイメージアップさせたいという市民運動のスローガンが思い浮かぶ。[……]
--水俣病発生以前から、ここには特急が止まってくれていたのである。チッソという会社があったおかげで。[……] 特急が止まる駅ということは田舎ではないということなのだ。チッソがあるから、東京とわが市は直結しているのだ。特急が止まる駅といえば、大牟田、熊本、八代、水俣だけなのだ。それも会社があるからこそである。県南の雄都水俣市、というのがわが市のプライドであったのだ。水俣病を言い立てすぎると、特急も素通りしてしまう。
それは市民たちの切実な危機意識だった。そう思うことがまたチッソへの心中立てであり、愛郷心の表出だった。(石牟礼道子『苦海浄土』p.482-483

 このような大多数の水俣市民の共通意識が、水俣病患者を共同体外部へと締め出し、次のような差別意識を生むに至る。

「水俣市民はな、魚はよう食うよ。会社の水銀なら市民みんなかかる筈じゃが。とくに魚屋なんかはみんなかかる筈。あの病気にかかったもんは、腐った魚ばっかり食べる漁師の、もともと、当り前になか人間ばっかりちゅうよ。好きで食うたとじゃろうもん。自業自得じゃが。会社ば逆うらみして、きいたこともなか銭ば吹きかけたげなばい。市民の迷惑も考えず、性根の悪か人間よ。あやつどんは、こう、普通の人間じゃなかよ。見せものに売ってよかよな化けもん子を持っとる親じゃもんな。銭の欲しかれば、子ば、売らじゃ」(石牟礼道子『苦海浄土』p.350

 このような市民の差別意識が、水俣病患者がそれと認定されることを恐れ、水俣病の申請を拒否するという事態をも招く。

遠い所に住むある人は断ってきた。それは、胎児性水俣病の疑いがもたれているのを子どもが知り、もし認定でもされて学校や友だちに知れると、子どもが一生苦しみの十字架を背負い、そして差別されるからと、断られた。(石牟礼道子『苦海浄土』p.744)

 つまり、水俣市民の差別意識は、水俣病患者たちを共同体の外部へと排除するだけでなく、彼らが同志として団結する道をも困難にするのだ。
 認定患者たちは、最初に水俣市民から爪弾きにされる。そして行き場を失った彼らは、水俣病発生の原因となった会社(新日本窒素肥料、現チッソ)に窮状訴え、市や県に助けを求め、最終的には厚生省すなわち国に直訴するまでに至り、しかし結局誰にもまともに取り合ってもらえず、落胆し、居場所のない水俣へ帰って来るのだ。

「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。水俣ん者共と、うっつ、がっつじゃった。うんにゃ、また一風ちごうて、まあだひどかった。むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」(石牟礼道子『苦海浄土』p.429

 石牟礼が書き付ける「水俣は、よっぽど国からひっぱなれた、遠かところにあるとじゃろう」[5]という水俣病患者たちの心の声は、共同体から幾重にも排斥され追いやられた無辺の空間の縁から、弱々しく届く。
 認定患者らが水俣市民から、市から、県から、国から締め出されると、〈市民の原理〉の暴力は一周回って、今度は認定患者たちの間に亀裂を生じさせる。たとえば、病の重軽症をめぐって。

いちばん身近な隣近所の娘たちがひどく目についたり、健全そうにみえるだけでもう、おなじ年ごろの胎児性患者の娘を持つ親などにしてみれば、心のどこかがひき裂けるのである。[……] 親の怨念は水俣病を浅くしか病んでいないと思われる、身近かな家の娘たちとその母にとりつくのである。怨敵としてのチッソに対するよりも、相手がおのれと同等ないし、おのれ以下の身分のものであれば、なお許しがたく、チッソが強面であればあるほど、「国」が水俣病に対して強大な敵であればあるほど、おのれより力弱き「敵」への憎悪はより深くなる。(石牟礼道子『苦海浄土』p.367-358

 このようにして、〈市民の原理〉によってひとたび共同体から排除された者たちは、声を奪われ、奪われ、奪われ、奪われた末に、孤立無援の全き〈死民〉として放り出されるのである。

 

4.〈死民批評〉宣言

『苦海浄土』は、水俣病事件という現実の社会問題の裏に潜む〈死民〉の「声なき声」から立ち上がる小説世界である。その世界は、重たい絶望に覆われている。しかし、それと同時に、希望をも見出すことができるのだと、多くの書き手が記している。たとえば見田宗介は、水俣の不知火の海に希望を見出し、その希望はまた、現代社会を生きる我々自身のうちにも見出すことができるのだという。

この二著 [『苦海浄土』(『苦海浄土』第一部)と『天の魚』(『苦海浄土』第三部)の二著(筆者注)] の中で、また石牟礼のすべての作品の中で語られているものは、告発であり絶望であるばかりではない。わたしたちは、これらの書の中に、また、唯一たしかな解放と救済の根拠をもみることができる。そしてこの希望の根拠は、これもまた、水俣にだけあるものではなく、現代社会のどこにいようと、わたしたちが、人間という身体として生きているかぎり、火種のように、わたしたち自身のうちに、ありつづけるものだ。〈水俣病〉が、わたしたち自身の存在の病であり、そのたぶん中枢神経の病であることとおなじに、不知火の海も不知火にだけあるのではない。
わたしたちの存在のどんな細部にも、潮の流れるひとりひとりの海があり、その海は、天の魚たちの住むというあの海とつながっている。ただひとつの海だけがある。石牟礼道子の作品は、このただひとつの海からのことづてである。(見田宗介「孤独の地層学」『見田宗介著作集X』p.157[6]

 あるいは赤坂真理は、『苦海浄土』を「幸福感と光に満ちた本」だという。

それはたしかに重い本だった。やり場なく終わりもない悲しみや怒りや嘆きや怨嗟の響く本だった。
近代化と高度経済成長が、弱者や辺境にさらなる負荷を負わせることである面での繁栄を達成したことは、水俣病に始まったことではなく、少なくとも明治の足尾鉱毒事件にはさかのぼれる。現在の福島や沖縄にもつながる問題である。今なお重い。
しかし同時に、どうしたことか、これほどに不思議な幸福感と光とに満ちた本に、私は今まで出会ったことがない。(赤坂真理「驚くべき本」『苦海浄土』解説よりp.1075-1076

 この「幸福感」の源泉はどこに見出されると、赤坂は言うのか。

[……] よき来世のために今生の苦を耐えているなどと考える患者や関係者は本書には登場しない。あまりの不条理に、神の不在を糾弾したくもなりそうだが、そんな者もいない。
彼は現状を説明するために、いかなる神も理念も発明しない。そして一見、神に見放されたかの生をまっとうする。
そこに、どうしたことか、神が偏在する。(赤坂真理「驚くべき本」『苦海浄土』解説よりp.1078

 赤坂は、「神に見放された」人々の「生をまっとうする」姿のうちに「偏在する」神を見出しているのである。
 あるいはまた、池澤夏樹は、『苦海浄土』は「苦痛」と「幸福」が並び立つ世界だと表現する。

苦痛と均衡をはかるように目立つのは、幸福を語ることばである。『苦海浄土』は「苦海」と「浄土」を対として捕らえる思想に貫かれている。[……] 苦が存在するためにはどうしても浄土がなければならない。浄土なくして苦の概念は成立しない。この世が苦界であちら側が浄土なのではなく、二つは共にこの世の内に並び立っている。(池澤夏樹「解説」『石牟礼道子全集第二巻』p.611[7]

 そして「幸福と受苦はそのまま一枚の布の表裏であって、分けることができない」例として、池澤は『苦海浄土』から次の一節を引用する。

ああ、シャクラの花……。
シャクラの花の、シャイタ……。
なあ、かかしゃん
シャクラの花の、シャイタばい、なぁ、かかしゃぁん
うつくしか、なぁ……
あん子はなあ、餓鬼のごたる体になってから桜の見えて、寝床のさきの縁側に這うて出て、餓鬼のごたる手で、ぱたーん、ぱたーんち這うて出て、死ぬ前の目に桜の見えて……。さくらちいいきれずに、口のもつれてなあ、まわらん舌で、首はこうやって傾けてなあ、かかしゃぁん、シャクラの花の、ああ、シャクラの花のシャイタなあ……。うつくしか、なあ、かかしゃぁん、ちゅうて、八つじゃったばい……。
ああ、シャクラの……シャクラ……の花の……。(石牟礼道子『苦海浄土』p.913

 先天性水俣病の子の、死に際の、利かない指で必死に花びらをつまもうとする、それを見つめる母の、子の、声なき声である。

 見田や赤坂や池澤やその他多くの書き手は、なぜこの書に希望や幸福を見出そうとするのか。そこには、我々〈市民〉の性分が隠されているように思う。
 絶望の最中で希望を口にすることは、社会を前へ前へと推し進める原動力となり、有益なことである。絶望の最中で希望を口にする人は、自分自身を鼓舞するためにそうしているのかもしれない。しかし、絶望の最中で希望を口にする人は、本当には絶望していないということもまた事実だ。そして世の中の〈市民〉の大半は、現状を嘆きながらも、本当には絶望していない。だから希望を口にする。こうして社会には、〈市民〉の希望の声が溢れる。多くの者が希望を唱える中で、絶望を唱えることは難しい。〈市民の原理〉によって、希望の声は結束/強化され、反対に、絶望は排除されてゆく。本当に絶望している人は、希望など口にできず、外へ外へと追いやられる。こうして絶望の「声なき声」は闇の底に沈む。
『苦海浄土』に希望を読み取る言説が溢れる背景には、このような〈市民の原理〉が発動しているのではなかろうか。しかし、安易に希望を口にすることは、無視してはならない絶望に体良く蓋をすることになり兼ねないのだということを、やはり忘れてはならない。

 私は、希望の声が溢れる〈市民〉の批評の言説の中で、絶望を口にしたい。その行為を〈死民批評〉と名付ける。

 

5. 犠牲者を見る二つの視点

 先に引用したように、見田宗介は次のように言う。「希望の根拠」は「火種のように、わたしたち自身の内に、ありつづけるもの」である。それは、わたしたちが「ひとりひとりの海」を自身の内に抱えているということを意味し、その「ひとりひとりの海」は、「ただひとつの海」と繋がっているのだ、と。これは石牟礼が、不知火の海を「あらゆる生命の母なるところ」であり、「女の胎と海とが、おなじ潮であること」を以って「この列島の羊水」と表現した[8]ことにつながる。見田は、そのことが「希望の根拠」となるのだと言う。しかし、石牟礼は、後のページではっきりと言っている。

ここ [不知火の海(筆者注)] からは、出来そこなってしまったらしい二十世紀の成り立ちがよくみえる。なぜならばここは、魚の胎、母の胎にあたるところだから。その血と肉をもって日本近代を生み育て、送り出し、見とどけ、帰って来ないものたちの父祖の墓域を、守って護持し続けたところだから、ここからはそれがよくみえる。(石牟礼道子『苦海浄土』p.489

 出来損ないの二十世紀。母なる海はそれを生み育てた。だとすれば、見田が母なる海とひとりひとりの海のつながりに希望を見出したそれと同じ理由によって、母なる海、それとつながるわれわれ自身の海は、深い絶望を宿していることにはなるまいか。「ひとりひとりの海」が「ただひとつの海」と繋がっていることが、なぜ「希望の根拠」だと言えるのか。彼はその根拠を示していない。彼が無根拠に提示する「希望」は、単なる過去の時代への郷愁、あるいは理想の幻影にすぎず、そこには現代の現実的な「希望」などないように思われる。

 赤坂真理は、「一見、神に見放されたか」に見える水俣病患者が、「現状を説明するために、いかなる神も理念も発明」せず、その「生をまっとうする」姿のうちに「偏在する」神を見出し、そこに「幸福感と光と」が満ちていると言った。しかし、彼らは本当に「生をまっとう」しているのだろうか。私たちが安易にそのように言ってしまってよいのだろうか。苦痛と恥と怒りとに打ち震える患者の最期を目の当たりにしてもなお、「生をまっとう」しているなどと言えるだろうか。

[……] 生まれてこのかた聞いたこともなかった水俣病というものに、なぜ自分がなったのであるか、いや自分が今水俣病というものにかかり、死につつある、などということが、果たして理解されていたのであろうか。
なにかただならぬ、とりかえしのつかぬ状態にとりつかれているということだけは、彼にもわかっていたにちがいない。舟からころげ落ち、運びこまれた病院のベッドの上からもころげ落ち、五月の汗ばむ日もある初夏とはいえ、床の上にじかにころがる形で仰むけになっていることは、舟の上の板じきの上に寝る心地とはまったく異なる不快なことにちがいないのである。あきらかに彼は自分のおかれている状態を恥じ、怒っていた。彼は苦痛を表明するよりも怒りを表明していた。見も知らぬ健康人であり見舞者であるわたくしに、本能的に仮想敵の姿をみようとしたとしても、彼にすればきわめて当然のことである。(石牟礼道子『苦海浄土』p.111-112

 石牟礼は言う。

安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。(石牟礼道子『苦海浄土』p.113

 石牟礼の口を借りて、水俣の〈死民〉たちは言った。「一生かかっても、二生かかっても、この病は病み切れんばい」、と。この言葉こそ、石牟礼が闇の底から掬い上げた声なき声、〈死民〉たちの本音であろう。だとすれば、私たちは彼らに対し、「生をまっとう」しているなどとは到底言えるはずがない。「幸福」などという言葉を、安易に放ってはならないのだ。

 池澤夏樹は『苦海浄土』を、世界文学史に残る最高峰の作品として、非常に高く評価している。それは、彼が編集する『世界文学全集』に、唯一日本人作家の作品として『苦海浄土』を載せていることからも分かる。その彼が言う。『苦海浄土』で描かれる「幸福と受苦はそのまま一枚の布の表裏であって、分けることができない」、と。そしてそれを表す例として、池澤は、「シャクラの花の、シャイタばい、なぁ、かかしゃぁん/うつくしか、なぁ……」という、自由の利かない身体で花びらを拾おうとする死に際の娘の様子を回想する母の、声なき声を引用する。全編を通じて度々登場するこの子の名は、「きよ子」という。

もう大方動けんごとなりましてから、桜の散りはじめまして、きよ子が這うて出て、縁側から、こう、そろりそろり、すべり下りるとでございます。もう口はけきんごとなっとりました。
水俣病の痙攣な、知っとられますか。
顔から先にゆきますとですよ。地の上でも、石の角にでも。
[……] 自分の体は、地面にそうやって、打ちつけますとですよ。顔から先に。痙攣の起きると。鼻やら頬骨やらですねえ……。怪我しよりましたです。いつも。
きよ子が怪我の少なかように、わたしはいつも、地面の尖がっとるところば、ハンマー持って、たたいてされきよりましたです。
それでも、あの娘は転びまして、泥まみれになりよりました。花の中で。
庭に下りるなと言うてきかせても、もう聞きわけのでけん人間になっとるもんですけん。そのような痙攣がおさまると、ほろほろほろほろ、涙ば流しまして、地面に、ゆらりゆらりして片膝立てて坐りよりました。
花びらば、かなわぬ手で、拾いますとでございます。いつまででも坐って。(石牟礼道子『苦海浄土』p.313-314

 私は、桜の花が大好きな「きよ子」という子どもの、その子の母親の、悲しみと無念とやるせなさを感じ取ることはできるが、この受苦の裏に「幸福」を読み取ることはできない。きよ子の母親は、きよ子が亡くなったのち、桜の木があってはきよ子が成仏できないからと、その木を伐り捨てている[9]。この行為から読み取れる心情は、幸福ではなく、未練である。そして娘の供養にと、その母親は石牟礼に、次のような手紙を「チッソの人方」あるいは「世の人方のお一人にでも」書いて届けてくれはせぬかと頼む。

あの、花の時季に、いまわの娘の眸になっていただいて、花びら拾うてやって下はりませんでしょうか。毎年、一枚でよろしゅうございます。花びらばですね。何の恨みもいわじゃった娘のねがいは、花びら一枚でございます。地面ににじりつけられて、花もかあいそうに。
花の供養に、どなたか一枚、拾うてやって下はりますよう願うております。光凪の海に、ひらひらゆきますように。そう、伝えて下はりませな(石牟礼道子『苦海浄土』p.632

 池澤は、「浄土なくして苦の概念は成立」せず、「この世が苦界であちら側が浄土なのではなく、二つは共にこの世の内に並び立っている」のだという。しかし、渡辺京二が指摘するように、『苦海浄土』の美しさは「けっして現実そのものの美しさではなく、現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるをえぬ美しさにほかならない」[10]のではないか。石牟礼の描写があまりにも美しいのは、一見幸福そうな光景が浮かぶのは、現実の凄惨さをこそ物語っているのである。

 とは言え、『苦海浄土』のうちに見田が「希望」を見出し、赤坂や池澤が「幸福」を感じ取ったのは事実である。だから考えるべきは、どうしてそういう読み方が起こるのか、ということなのかもしれない。ここで私は、「犠牲者」という存在を、二つの視点から考えてみたい。〈市民視点〉と〈死民視点〉である。
 水俣病患者は「犠牲者」である。これを〈死民視点〉から見れば、彼らは完全なる被害者として描出される。水俣病患者は、新日窒(現チッソ)水俣工場が海に垂れ流したメチル水銀化合物に汚染された魚介類を、それと知らずに連続摂取したことによって中枢神経系の中毒症状を起こした者たちで、それによって心身の自由を奪われ、仕事を奪われ、生活を奪われ、周囲からの差別に曝され続けた、完全に受動的な「犠牲者」である。
 一方、「犠牲者」を〈市民視点〉から見るとどうなるか。〈市民の原理〉によって犠牲者たる〈死民〉を生み出してしまう市民たちは、〈死民〉が自ら進んで犠牲者になったのではないことは分かりつつも、市民としての生が当たり前にもつ能動性を、〈死民〉としての生のうちにも影写して眺めてしまう(おそらくは、無意識のうちに)。すると犠牲者の生は、崇高性を帯びて見える。到底自分では耐えられそうにない被害を一身に受けている彼らの生が、能動的なものだとするならば、それは全くもって尊きこと、気高きことである。しかし、実際はそうではない。彼らは犠牲者となることなど露ほども望んではいない。そこに意志はなく、徹底的に受け身の犠牲があるだけだ。私たち市民が、勝手に能動的な生をそこに幻視してしまっているだけである。そして、さらに質の悪いことには、犠牲者を崇高視することによって、すなわち彼らに尊敬の眼差しを向けることによって、市民は自らの加害者意識を薄れさせるのだ。
 このように、「犠牲者」を〈市民視点〉から見ることによって、つまり能動的な生を幻視することによって、たとえば次のような犠牲者の生に、我々は崇高性を見出してしまうのである。

あねさん、この杢のやつこそ仏さんです。
こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。(石牟礼道子『苦海浄土』文庫p.212

 この犠牲者の生に崇高性を見出す市民の眼差しが、自らの加害者意識を薄れさせ、『苦海浄土』に「希望」や「幸福」を読み取ってしまうのだと言えるだろう。

 

6. 無意味な孤独死

『苦海浄土』には、希望や幸福などない。ただ絶望だけがある。『苦海浄土』は、絶望する〈死民〉の孤独を描く。

うちゃだんだん自分の体が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地につけて歩きよる気のせん、宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよるごたる。うちゃ寂しゅうして、どげん寂しかか、あんたにゃわかるみゃ。(石牟礼道子『苦海浄土』p.117

〈死民〉の落ち込む孤独とは、一体どのような種類のものなのか。そのことを考えてみたい。

 私は先に、民主主義という政治形態が「広告」と同じ原理から成るという柄谷の言をもって、次のように述べた。民主主義社会における権力は、共通の欲望や性向をもつ多数の市民の支持を得て、権力となる。ひとつの権力が支持を得られる範囲が、ひとつの共同体の範囲を規定し、同時にまた、選ばれし権力が、その共同体に共通する欲望や性向を強化してゆく。このようにして民主主義社会は、共通項をもつ者たちの結束を固め、一方で、共通項をもたない者たちを共同体の外側へと追い遣る。
 民主主義社会において市民たちが共有するところの、そこから〈死民〉がはじき出されるところの欲望とは、如何なるものか。それは、実体なき模倣された欲望とでも言うべきものである。どういうことか。
 近代に入り封建的身分制度が崩れ、民主主義へと体制が移行したことで、人々は、それまで望むことのできなかったものを望むことができるようになった。「すべての人々が平等に願望する権利」[11]を得たのだ。他人の抱く望みを、自分も抱くことができる。他人の欲望を自分の欲望にすることができる。こうして、欲望は模倣されるようになった。
 欲望の模倣という現象は、大衆消費社会における消費行動にも同様に見られる。大衆消費社会では、人々の手に入れられるものが飛躍的に増え、他人の欲するものを自分も欲することができるようになった。このような社会では、消費行動の動機が、自らの真の欲望にあるというよりは、他人が欲しているがゆえに自分も欲するというところにあり、欲望の模倣による消費が常態化する。
 このように、他人の欲望を模倣する社会、他人の欲望=自分の欲望となる社会では、市民の間に欲望の共有という連帯が生まれる。しかし、互いが互いの欲望を模倣し合うような関係の中には、実は、真の欲望は存在しない。そこにあるのは実体なき欲望、欲望の幻想である。欲望の幻想は、『苦海浄土』において、たとえば東京の皇居前広場に、次のような無意味さを露呈する。

広場の景色はどこかしらもう倦怠に満ちていた。そこらあたりを歩きまわって、鳩に豆をやったりしている大勢の人間たちの心は、なぜかそこにないように見える。男たちも女たちも髪や靴をぴかぴかにして、買いたてのバッグやカメラを下げ、布地のぴんと張った新しいよそゆきを着て、この公園のきめられた道を忙しげに歩いているのだった。そのような自分たちの姿を互いに写真にとりあったりして。(石牟礼道子『苦海浄土』p.794

「流行に張りぼてを入れたような誇張した髪型に、さまざまの香油をつけ、肌になじみきれぬ色とりどりの顔料で彩り、盛装」する女性たち。彼女たちが群れる広場があらわすものは、「ひとつの無意味」であった。

そのような行列から外れて水俣の病人たちがいた。(石牟礼道子『苦海浄土』p.794

 チッソ本社へ直談判するために水俣から東京へやって来た、水俣病患者らである。欲望の幻想の共有がもたらす市民の無意味な連帯、あるいは連帯の無意味さから、水俣病患者たちは疎外される。無意味さから疎外されたところで、何ら問題はないではないか? と思われるかもしれない。しかし、そうではない。欲望の幻想を共有せず/できず、市民の連帯から外され、無意味な広場の片隅に取り残された〈死民〉たちは、そこで何かしらの有意味を生み出せているのかと言えば、そうではないのだ。
 無意味にすら見捨てられた〈水俣死民〉たちがそこで見たものは、この世から引き離され孤独に彷徨う、自分自身の魂の写像であった。それは、無数の鳩たちの群がる先にいた「ひとりの青白い浮浪者」である。

気のふれた人間や、白痴といわれる人間や、故郷では神経殿といわれ、「魂の飛んで漂浪く」人間のたぐいに彼はぞくしていた。完璧に、生きながらこの世と断絶し、ゆくところのない人間として、たったひとりで彼はそこにいる。いや、鳩たちとともに。世にもうっとりとみえる聖なる表情はしかし、見えない闇の奥にひそむ悪意のようなものに、おびやかされているようにもみえる。彼は微笑んでいたが、その微笑はかげがうすく、死につつあった。
[……]
彼と、水俣からやってきたものたちの距離は至近にあるごとくして、なおかつ彼岸の彼方とこちらにあった。彼は、わたくしたちのそのような気配に、ぜんぜん気がついていなかった。水俣のものたちが深々とのぞきこんでいる心の底の破魔鏡に、彼と鳩たちがぽっかりとあらわれて、そこに写っている顔は、どこかで逢った自分の顔のように気にかかることはたしかだった。(石牟礼道子『苦海浄土』p.798-799

 石牟礼が、浮浪者を前に佇む水俣病患者たちの姿のうちに感じ取ったものは、悪魔的な「聖なる時間」とでも言うべきものであった。

変身する前のあの透明な蚕のような気配になり、ひとびとはうちなる天をふり仰ぎ、まだ吐いたことのない自分の言葉を吐きつける。黒いひとすじの吐瀉物を吐くようにして。
すると、そのような天の一角からしずかにくろい、ほそい竜巻のような、網のようなものがなよなよと下りてきて、ひとびとの躰を嚙むのだ。ひとびとは、生臭く巨大な、ほの暗い竜巻の網の目の中にすっぽりと包みこまれ、この世とへだてられる。(石牟礼道子『苦海浄土』p.799-800

〈死民〉たちはこの時はじめて、自身の声なき声の存在に気付くことができたのではないか。それを、天に向かって吐くことができたのではないか。彼らは「胸の底からたぐり出されてくる無形の言葉を、空にむかって投げ」た。石牟礼は、その投げられた声なき声を受け止める存在として、そこにいたのだ。

 皇居前広場には、二つの異なる無意味があった。ひとつは、自分の欲望を自覚せず他人の欲望を生きる、〈市民〉の実体なき連帯の無意味であり、もうひとつは、たとえ自分の欲望を自覚していたとしても、それが叶う可能性の一切が剥奪された、そこに意味を見出す/与えることは不遜な態度という他ないという意味での、〈死民〉の絶対的孤独の無意味である。あの広場には、このような二つの無意味だけがあった。
 石牟礼はその後、東京で座り込みをしていた師走の夜に、ふと例の浮浪者のことを思い出し、彼は「たぶんこのような星のこごえている夜に死ぬのではあるまいか」と思う。石牟礼は、〈水俣死民〉の鏡像であるところの浮浪者の死に、一切の意味を与えない。

申し分のない野垂れ死が、彼のいのちの終わりをつつむだろう。そのいのちのきわのまぼろしを、たぶんわたしたちは共に見たのであろう。(石牟礼道子『苦海浄土』p.941

 そこに浮かぶのは、どこまでも無意味な、孤独な〈死民〉の死に様である。
 もし、この無意味な孤独に何らかの説明らしきものを求めるのであれば、それは、〈死民〉の存在そのものが末法の世の真の姿を体現しているという、救いのない意味づけにしかならない。次に挙げるのは、先天性水俣病を患って生まれた「実る子」という娘の父親の言である。

「日本の真実……、なあ、真実ですよ日本の、この水俣の姿は。わが身にそれを負うて、実る子は生まれたわけじゃろうな。儂ゃ、そう思うとります。真実にして虚ならずとは、実子の姿じゃ、虚の一かけらもない真実じゃ。末法の、逆世の世ですからな」
妻女がうつむいて目頭を拭いた。
「水俣病患者の姿はみんなそうじゃ。逆世の真実を身に負うとる。[……]」(石牟礼道子『苦海浄土』p.580-581

 あの広場の露呈する二つの無意味は、次のように言い換えることもできる。虚像たる〈市民〉の無意味と、その無意味の実像たる〈死民〉と。

 

7. 恥の想像力、もうひとつの民

 意味を見出すことができぬほどに孤独な〈死民〉の、闇の底に閉じ込められ、最も表層に浮かんできにくい「声なき声」とは何だろうか。それはおそらく、「恥」にかかわる事柄であろう。恥ずかしき事柄は、隠しておきたいものだからだ。それがゆえ、「恥」の声は表に現れにくい。
 しかし、「恥」が表に現れにくい理由は、それだけではないと思われる。もうひとつの大きな理由は、「恥」という感情が他人に伝播しにくい性質をもっているということではないだろうか。たとえば、痛みや悲しみといった感情は、伝播しやすい。私たちは、暴力的なシーンに顔をしかめ、悲しむ友人の隣でもらい泣きをする。一方で、恥の感情は伝播しにくい。恥ずかしそうにしている人を前にして、一緒に恥ずかしがるということはまずない。
 だから私たちは、他人の「恥」の感情をなかなか想像することができない。苦痛や喜びや悲しみを想像するよりも、恥の感情を想像することは遥かに難しい。恥じている対象を眺める者には、恥の感情が湧かないからだ。
 恥の感情が想像しにくいことを示す極端な例のひとつとして、アウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人の化学者レーヴィが解放された際、彼のうちに湧き起こった感情が、喜びではなく恥であった[12]ことが挙げられるだろう。私たちは、ユダヤ人の受けた苦痛を(想像力の限界を超える苦痛があったろうことは言うまでもないとしても)想像することができる。しかし、彼が感じた恥の感情については、容易には想像がつかない。だからこそ、この事実は、哲学的な考察の対象となるのだ。

 ではたとえば、『苦海浄土』において、水俣病患者が恥を告白する次のような場面を、我々はどのように受け止めるだろうか。

退院して一ヶ月、自転車のけいこばまずしたばい。オラ、七つの時、自転車に乗ったもんな。三十過ぎてから、七つの前のときからまたやりなおし。恥ずかしかったばい。水俣病患者が悪化するのは、この恥かしさがなにごとにも先立っとると、オラあ思う。恥かしさというものは、じっさいに、恥ずかしめを受けることをいうもんな。(石牟礼道子『苦海浄土』p.388

 この男性の感じている恥ずかしさを、そっくりそのまま自分の心に写すことは、なかなか容易ではない。本稿で多数引用した、苦痛や無念を訴える場面の方が、遥かに精神的に堪えたはずだ。ここに書かれているように、患者にとっては、恥ずかしさが何よりもつらいことであるはずなのに。
 あるいは、チッソの社長に直訴する女性の、次のような恥を忍んだ告白はどうだろうか。彼女は、水俣病の両親と弟の看病のためお嫁に行けず、後年、自分自身も水俣病患者となった。名を浜元フミヨという。

社長さん、わたしはいま、年をとりまして四十二歳、処女でございます。
人間な、いやおなごは、だれでも、よか男ばよか男ばと選びます。男はだれでも、よかおなごばよかおなごばと選びます。そげんでございまっしょ。わたしゃ、嫁にも行きそこねました。もう、のぞみを絶たれました。のぞみはありましたが、もうなくなりました。絶たれました。
そこで社長さん、わたしは、人を殺した、何十人も何十年も、人を殺した会社の社長の、いわば仇のところには、おめおめ来とうはありまっせんでしたが、もうゆくところはございまっせん。
わしゃそこで、社長さんの二号さんにですね、してもらいます。
[……]
わたしゃもう、恥も業もなか、こういう報道の人がたもいっぱい来とんなはる、テレビの人たちも来とんなはるところで、わたしのいうことは報道されて、わたしの恥。けれどももう恥も業もなか。(p.1049~1050

 このような告白を、彼女はどれ程の「恥」を忍んでしたことかと思うが、正直なところを言えば、この訴えを聞く者たちの心に「恥」の感情は伝播してこないのではないか。それよりも、浮かばれない人生への同情が先に立つのではないだろうか。
 あるいはまた、恥の感情は、植物人間と診断される身動きできない重病患者のうちにも起こるという。

彼女などは医学的にはどのようにいわれているかといいますと、植物みたいに生きている、風が吹けば髪の毛がゆれたり、瞬いたりするだけで反応を示さない植物的な生存だという風に定義されています。が、彼女だってよくよく見ていると、夜中に大声をあげて、何かわからないんだけれども、泣く。涙を流して泣くんです。そして、お医者さんが検診にこられ、胸を開けて聴診器をあてたり、おしめを代える時とか、本当に、変形してしまった手足をぎゅうとちぢめて、とくにおむつを代えてもらうときには、全身でもって、全身というか魂がそれを知っていて羞恥する、恥ずかしがるというような反応があるわけです。[……] 彼女だけではなくて、女の子たちは非常に遅れてですが初潮が始まりまして、普通の排泄の時よりも、そういう時期には大変恥ずかしがるということを、お母さんたちや付添の小母さんたちがよくおっしゃいます [……](石牟礼道子「流民の都1」『流民の都』p.47

 これほどに露骨な事例であってもなお、私たちは彼女たちの「恥ずかしさ」を共有することが難しい。「恥」を、たとえば「つらさ」という感情に変換して想像してしまうのだ。
 このように、恥の感情を抱く対象を他者として外から眺めている限り、「恥」という感情をそのままに想起することは難しい。『苦海浄土』には、〈死民〉たちの「恥ずかしい」という声なき声が、多く書き付けられている。だが、『苦海浄土』を読む私たちは、彼らの「恥」よりも、患者の症状の描写から想像する身体的苦痛や、差別を受けることの精神的苦痛の方を、より重く受け取ってしまう。それが証拠に、『苦海浄土』について書かれた文章の中に、「恥」について言及しているものはほとんどない。それはやはり、読み手にとって「恥」という感情を想起することが難しいからであろう。

 石牟礼が、〈水俣死民〉の「恥」という「声なき声」を書き留めることができたのは、彼女がそれを〈わたくしごと〉として引き受けていたからである。「恥」の感情についての記述は、対象を自分のこととして検分しなければ出て来ない。だから、「恥」に対する想像力は、たとえば、社会的正義や人道主義の立場からは生まれ得ない。非常に私的な、文学的な想像力をもってはじめて、「恥」の闇に到達することができるのだ。「声なき声」を聞くという行為は、ひとびとの「恥」と対面することである。石牟礼は、『苦海浄土』においてそれを行った。
 石牟礼は、〈市民〉でありながら、その実体なき連帯から抜け出し、孤独の淵でひとり、〈死民〉の「声なき声」を聞き届けようとした。闇の奥底に沈む「恥」の感情にまで到達するほどに、〈わたくしごと〉として引き受けて。そのような志をもって行動する者を、私は〈志民〉と呼びたい。〈志民〉は、〈市民〉と〈死民〉をつなぐ蝶番の如き存在である。

 

 


[1] 第一部は、渡辺京二の編集する雑誌『熊本風土記』に1965年〜66年にかけて「海と空のあいだに」というタイトルで連載され、1969年に『苦海浄土』の題で単行本として刊行された。第二部「神々の村」は、1970~89年にかけて井上光晴の編集する雑誌『辺境』に連載されたが未完のままに終わり、2004年に藤原書店より刊行された全集の第二巻に収められた。第三部にあたる『天の魚』は、1974年に単行本として刊行された。

[2] 『苦海浄土』からの引用文の該当ページは、『苦海浄土 全三部』2016年版(藤原書店)に基づいて記す。以降も同様。

[3] 石牟礼道子『流民の都』大和書房、1973年。以降も同様。

[4] 柄谷行人「政治、あるいは批評としての広告」『言葉と悲劇』講談社学術文庫、1993年。

[5] 石牟礼道子『苦海浄土』p.452

[6] 見田宗介『見田宗介著作集X』岩波書店、2012年。

[7] 石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火 第二巻』藤原書店、2004年。

[8] 石牟礼道子『苦海浄土』p.328, 475

[9] 石牟礼道子『苦海浄土』p.312

[10] 渡辺京二『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』弦書房、2013年、p.31-32

[11] 作田啓一『個人主義の運命』岩波新書、1981年、p.195

[12] この事実は、プリーモ・レーヴィ『休戦』(朝日新聞社、1998年)に記されている。

文字数:21239

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