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終わりのない運動の終わり

 

 ある物体の運動を止めるには、大きく2つの方法がある。運動を止めるか、物体を消すか、である。どちらの方法を取っても、結果的にその物体の運動は止む。

 

終わりのない運動
 世界の終わりや人類の終わりを想像するより、資本主義の終わりを想像する方が難しい。確かに私たちは、資本主義というシステムの中に骨の髄まで浸った生活をしている。基本的に私たちは、例外なく資本主義の亡者である。しかし、資本主義の終わりを想像するのが難しいのは、単に我々がその中にどっぷり浸かっているからというだけではない。資本主義というシステムそのものが、「終わりのない」運動をその内に組み込んでいるからである。言い換えれば、資本主義はそのシステムの内に、貨幣の自己増殖という運動の永続性を、無限の概念を、組み込んでいるということである。(※)

「終わりのない」動的構造をもった資本主義の「終わり」を想像することは可能なのか。これこそが問いである。

 

第一の問い
 貨幣は、人と人、人と物とを媒介する、過去の偉大な発明品である。媒介物である貨幣は、常に何かと何かの関係を生み出し、何かと何かの関係の中で動き続ける。貨幣が媒介する何かと何かの関係とは、一体どのような性質のものか。

貨幣を介した関係の性質① 間接的
 貨幣と人と物との関係は、「・・・-物-人-貨幣-物-人-貨幣-・・・」のように図式化される。人と人の間には貨幣と物が入り、物と物の間には人と貨幣が入り、貨幣と貨幣の間には物と人が入っている。つまり、どの関係を取っても、その関係は「間接的」である。

貨幣を介した関係の性質② 一方向的
 売買関係のある任意の二者を選んだとき、基本的に、売り手と買い手は固定的である。AはBに物を売り、BはAから物を買う。AにとってBは常に買い手であり、BにとってAは常に売り手である。つまり、AとBの人間関係は、それぞれにとって「一方向的」である。またそれゆえ、物は常にAからBへ移動し、貨幣は常にBからAへ移動する。つまり、物と貨幣の移動は、それぞれ反対の方向に「一方向的」である。

貨幣を介した関係の性質③ 匿名的
 ある物を買うのに、必要な貨幣さえ持っていれば、買い手は自らの身元を明かす必要がない。どんな人でも、どんな職業についていようが、どんな身分の者だろうが、善人だろうが悪人だろうが、そんなこととは一切関係なく、物を買うことができる。また、この貨幣を誰が持っていたかという記録が残ることもない。このような意味で、貨幣を介した関係は「匿名的」である。

貨幣を介した関係の性質④ 他者性なき他者
 貨幣は、売りと買いの分離を可能にする。しかし、買うという行為なしに、売るという行為は成立しない。つまり、買う行為は、売る行為に常に先立つものなのである。これは何を意味するか。売るという行為には、常に危うさが付き纏うということである。マルクスは、この売りの危うさの中に、他者と関係する上で必要な「命がけの飛躍」があると言った。柄谷の言葉で言えば、「他者の他者性」である。しかし、資本主義というシステムは、「信用」の導入によって、この売りの危うさを回避する。買いに先立って、売りが成立するため、売りの危うさを排除することができるのだ。柄谷は、マルクスが『資本論』で批判的に描写する資本主義の信用体系の中に、他者が「他者性なき他者」として存在することを指摘している。(『探求I』第七章)

 

第二の問い
 インターネットは、人と人、人と物とを媒介する、現代の偉大な発明品である。媒介物であるインターネットは、常に何かと何かの関係を生み出し、何かと何かの関係の中で動き続ける。インターネットが媒介する何かと何かの関係とは、一体どのような性質のものか。

インターネットを介した関係の性質① 直接的
 インターネット上では多くの人が、プライベートな日記をブログで公開したり、あるいは掲示板で、面と向かっては言わないような暴言を吐いたりしている。インターネット上では、「一般のコミュニケーションにおいては深く秘匿されるような内密な核の部分を、人は、他者に直接に曝すのであり、また他者は、その内密な核に直接にアクセスしてくる」のだと、大澤真幸は言う。(『不可能性の時代』p.183)インターネットは、このような「直接的」なコミュニケーションを成立させる媒介として機能している。そもそもインターネットの普及は、このような「極限の直接性を志向するコミュニケーションへの強い欲望」によってもたらされたのだとも考えられる。(前掲書p.181)

インターネットを介した関係の性質② 双方向的
 インターネットは、非常にインタラクティブなメディアである。例えば、コンテンツの制作者と利用者の関係を考えたとき、その立場は容易に逆転する。コンテンツの利用者が、そのコンテンツに手を加え、元の制作者がそれを利用するということは、普通に起こることである。東浩紀は、「双方向的なメディア」としてのインターネットの特徴を、次のようにまとめている。インターネット上で、「コンテンツは送信者の側で作られるだけではない。受信者、すなわちゲームユーザーやネットワーカーも、コンテンツに干渉できる。このタイプのメディアは、つねにコンテンツの変更の可能性を残して」いるのである。(『ゲーム的リアリズムの誕生』p.144)インターネットは、双方向のコミュニケーションの要請に応えて現れた媒介物なのだ、とも言えよう。

インターネットを介した関係の性質③ 監視的
 インターネット上での行為は、すべて記録されている。いつ何を検索したか、どのサイトを閲覧したか、何を買ったか、その一々は記録され、データとして蓄積され、使用者の行動や好みの傾向を勝手に分析されている。つまり、私たちはインターネット上において、四六時中「監視」されている。しかし、インターネット上での監視は、見られているという感覚を伴わないため、私たちはそのことに無自覚であり、無抵抗である。いや、大澤真幸が指摘するように、私たちの多くは、実は監視されることを望んでおり、むしろ見られていない方が不安になるのかもしれない。(『文明の内なる衝突』p.214)

インターネットを介した関係の性質④ 他者なき他者性
 以上に挙げた、インターネットを介した関係の「直接的」「双方向的」「監視的」という特徴には、ひとつの共通点がある。それは、「他者」なしに「他者性」にアクセスしているということである。普通はなかなか触れることのできない内面を曝し合い、作るという内密な行為を共有し合い、普通は見られないはずの行動の一々が記録され監視されている。インターネットは、まさに「他者」を介さずに「他者性」に直接アクセスする/されることが可能な、「他者なき他者性」を媒介するシステムだと言うことができる。

 

終わりのない運動の終わり
 さて、貨幣が媒介する関係は、「間接的」で「一方向的」で「匿名的」で、「他者性なき他者」として相対するような関係であった。一方、インターネットが媒介する関係は、「直接的」で「双方向的」で「監視的」で、「他者なき他者性」同士が触れ合うような関係であった。貨幣とインターネットでは、真逆の関係性を生み出している。あるいは、時代の求める関係性が真逆だからこそ、その要請に応えるように、真逆の性質をもつ媒介物が誕生したのだと言えるかもしれない。いずれにせよ、このことから分かるのは、貨幣というものが、悉く時代錯誤的な関係をもたらすものだということである。

 ここから想像可能であることは、貨幣が消滅する方へ、社会は向かうのではないかということである。当然のことながら、貨幣が消えれば資本主義は終わる。つまり、資本主義という「終わりのない」運動の「終わり」は、運動が止むという形ではなく、運動する物体そのものが消滅する形で、もたらされるのではないか。

 では、貨幣が消滅した後のシステムはどうなるか。貨幣が存在しなければ、取引の形態は、物々交換になる。ただし、現代もしくは未来におけるそれは、インターネットを介し、AIによって管理された、「高度barter(物々交換)システム」とでも呼ぶべきものになるであろう。世界中のありとあらゆる人と物がすべて、インターネット上に登録される。自分の物を誰の何と交換するか、自分で選択しアプローチすることも可能だが、AIによるマッチングの助けを借りて行うこともできる。AIは、世界中のありとあらゆる人と物を管理し、交換を調整する。もう少しだけ想像力を働かせてみよう。仕事はすべて、AIのマッチングの助けを借りて、プロジェクト型かつアウトソーシング型で行われるようになるかもしれない。仕事の対価は、すべて物(この中には旅行などの体験やサービスを受ける権利なども含まれる)で受け取ることになるのだ。

 ところで、この「高度barter(物々交換)システム」は、現代の我々が抱えるひとつの深刻な問題を解消してくれる可能性を秘めているのではないか。それは、キリスト教的資本主義とイスラム教的正義の対立の問題である。貨幣が消滅し、物々交換の社会になれば、利子を厳しく禁じ、等価交換の公平性を重んじるイスラム教的正義に、それは叶う。一方、自由を至上価値とし、欲望を思うがまま解放できる資本主義社会に慣れきった私たちにとっても、「高度barter(物々交換)システム」は、無理なく受け入れられるものであろう。欲望は否定されず、選択の自由はあり、当然貧富の差もある。貨幣がないこと以外、今とほとんど何も変わらぬ社会である。億万長者を目指す代わりに、わらしべ長者を目指すような社会、である。

 

 


(※)中沢新一によれば、キリスト教を前提とする西欧社会から誕生した資本主義が、無限の概念を組み込んだのは、必然だと言う。一神教における神とは、「人間のおこなう有限な認識領域を横断していく超越的な流動知性として、どんな認識の手段によってもとらえ尽くすことはできないはずのもの」、つまり「実無限」である。キリストは、このような神であると同時に、人間でもある。それゆえ、「人間の知性がとらえる現実の世界のうちに無限がある、あるいは有限の世界に無限が繰り込まれているという事態がおこる」のである。(『緑の資本論』p.82)


引用文献

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書、2007年
大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年
大澤真幸『文明の内なる衝突』河出文庫、2011年
柄谷行人『探求I』講談社学術文庫、1992年
中沢新一『緑の資本論』集英社、2002年

文字数:4340

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