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告白の声

 

1. 声を聴くということ

 隣りの部屋で、彼が讃美歌を歌っているのだと思った。くぐもったあたたかな旋律が洩れ聴こえてくる。歌が終わると、彼は話しはじめた。私は夢の淵で、ぼそぼそと静かに繰り出される声に耳を傾けた。はっきりとは聴き取れないが、何かとても大事なことを言っているようだった。私はその声を聴かねばと、夢から這い出そうと必死だった。・・・・・・いや、そんなはずはない。彼が隣りの部屋にいるわけはないのだ。ここは異国の地で、ここに彼はいない。意識が巡りはじめ、私は困惑した。この声の主が彼でないなら、一体誰なのか? 私は夢から覚めきらぬ頭で、声のする方へ意識を集中させた。しばらくして、ようやく分かった。声は、どうやら外から聴こえてくるらしかった。私はなんとかベッドから這い出し、窓の方へよろよろと駆け寄った。カーテンの隙間から洩れ入ってくる光の感じから、まだ夜明け間もない頃だろうと察した。こんなに朝早くから何事か。カーテンを開けると、向かいにある教会の前の広場に、人だかりができていた。どうやら牧師が説教をしているようだ。そうか。私は合点がいった。今日は、イースター(復活祭)の日である。私はいろいろなことの辻褄が合って安心すると、再びベッドの中へ潜り込んだ。だんだんに薄れていく牧師の声を聴きながら、私は再び眠りに落ちていった。

 数年前のあの朝のことを、私はいまでも鮮明に思い出す。声の正体が牧師だと分かる前、あれは確かに彼の声だった。誰かに向けて話しかけるような口ぶりではなかったから、ひどく聴き取りにくかったのだ。彼は、自分自身に向けて(あるいは神に向けて)何か重要な告白をしているようだった。私は夢と現実の境目で、告白の声を聴いた。内容を聴き取ることはできなかったが、私は確かに彼の声を聴いたのだ。その感触は、いまでもはっきりと残っている。

 

2. 自己啓発書の声

 手元の辞書で「自己啓発」と引いてみると、「自分自身の潜在的な能力を引き出すための訓練」とある。ではその訓練法を開陳するものが、「自己啓発書」ということになろう。
 書店へ行き、自己啓発書の並ぶ棚の前で、どれでもよい、幾つかの本を手に取ってみれば、そこに綴られる文章には、複数の共通点を見出すことができる。例えば、次のような文章。

 僕には確信がある。
 どんなにたくさん勉強したところで、どんなにたくさんの本を読んだところで、人は変わらない。自分を変え、周囲を動かし、自由を手に入れるための唯一の手段、それは「働くこと」なのだ。
 ある意味僕は、10代や20代の若者たちと同じスタートラインに立っている。
 ここから一緒にスタートを切り、一緒に新しい時代をつくっていくことができれば幸いである。大丈夫。あなたも僕も、未来は明るい。(堀江貴文『ゼロ』/下線筆者)

この本の中には、深遠な哲学も、深い学識も見いだされないだろう。私は、ただ、常識--であってほしいと願っている--によって示唆された若干の所見をまとめることを目指したにすぎない。読者に提供した処方箋のメリットと言えば、それは私自身の経験と観察によって確かめられたものであり、それに従って行動したときにはつねに私自身の幸福をいやましたものである、ということのみである。[……] 現在不幸な多くの人びとも、周到な努力によれば幸福になりうるという信念に基づいて、私は本書を書いたのである。(ラッセル『幸福論』/下線筆者)

 古今東西の自己啓発書に綴られる文章の共通点の一つは、断言/断定の表現が散見されることである。「確信」や「信念」などという言葉とともに、「〜しなければならない」あるいは「〜してはならない」という著者から読者への極めて強い助言が、自己啓発書の文章の核を成している。
 共通点の二つ目は、著者は読者と何ら変わらぬ同種の人間であるというアピールがされることだ。もし著者が特別な存在ならば、その人がするアドバイスも、所詮は特別な人にしか通用しないものだと思われかねない。そのため、著者は自分も読者のみんなと同じ人間なのだということを、殊更にアピールする。あるいは最近では、様々な分野のデータ分析の結果が、助言の妥当性の根拠として持ち出されることも多い。いずれにせよ、著者のアドバイスはみんなに対して有効だということを示すための“同類アピール”である。
 そして三つ目は、よりよい状態というものへの共通認識を前提していることである。著者と読者の間で、お金を貯めることが、仕事のデキる人になることが、人付き合いがうまくなることが、健康でいることが、幸せになることがよいことだという共通の認識がないことには、そもそもの議論が始まらないのだから、当然だ。
 以上の三点を自己啓発書の特徴としてまとめるならば、(1)断言/断定の多用、(2)著者と読者の同類アピール、(3)前提としてのよりよい状態への共通認識、ということになろう。「◯◯な状態っていいよね。私はこうやって◯◯になった。(あるいは、みんなこうやって◯◯になっている。)あなたも私(たち)も同じ人間なんだから、あなたもこうすれば◯◯になれるはず。だから、こうしなさい」というロジックだ。もし読み手であるあなたが、(2)もしくは(3)に共感できなければ、そこで繰り広げられる断言/断定を多用した著者の言は、途端に胡散臭いものとなる。

 さて、問いはここからだ。上に挙げた特徴を鑑みるに、自己啓発書において発せられる著者の声とは、どのような読者へ向けたものだと言えるだろうか。それは自ずと明らかなように、《著者=読者》としての読者へ向けたものである。著者が読者に寄ったとも言えるし、読者を著者に引き寄せたとも言えるが、ともあれ著者と読者は同類であり、よりよい状態というものに対する共通認識をもっている。しかし、と疑問に思う。《著者=読者》としての読者に語りかけることが、果たして本当に読者の自己啓発すなわち「潜在的な能力を引き出す」ことになるのだろうか? そのことについて、もう少し掘り下げて考えてみたい。

 

3. 告白するということ

 私は私の無力さに絶望する。論理も愛も経験も涙も、彼女の前では悉く無力だった。私の存在など、少しの役にも立たない。結局のところ、私という存在は、私が生きるためだけに有益で、彼女のためには、これっぽっちも役に立たなかったのだ。
 あの時私は、彼女の経験を感情を思考回路をできる限り想像し、それを自身の経験や感情や思考回路に照らし合わせ、必死に言葉を模索した。もしかしたら、ひょっとすると、私の言葉が何かのきっかけやヒントになるかもしれない。祈るような気持ちで。勇気を出して話をした。何度か話をした。でも、彼女はあくまで彼女で、彼女は私ではないから、結局どんな言葉も無力で、人体を形作っている小さな細胞のひとつから意識の欠片まで、何もかもが違うのだという現実を見せつけられただけだった。私は口を噤んだ。それからは、もはや聴くこと以外、私にできることは何もなかった。彼女は彼女自身で言葉を見つけ出すしかない、そう思ったのだ。
 しかし、と今でも思う。あの時私は、もっと話す勇気をもつべきだったのではないか。どうやっても彼女には到達できないと分かりながら、それでも話し続けるべきだったのではないか。あの時私は、身体の奥の奥の底の底の方から声を絞り出しただろうか。その努力を怠ってはいなかったか。
 それにしても、他に一体何が言えただろう。借り物の言葉ではいけない。たとえ偉人だろうが天才だろうが苦労人だろうが、他人の言葉ではいけない。自分の内から生み出された言葉でなければ。しかし、私の言葉は、彼女の経験や思考にはそぐわない。ならばどうすればよかったのか。
 今になって、ひとつの可能性が思い浮かぶ。私は私の声を、彼女に向けてではなく、私自身に向けて発すればよかったのではないか。彼女が彼女自身に向けて発した声を私が聴き、私が私自身に向けて発した声を彼女が聴く。話し合うのではなく、聴き合えばよかったのではないか。
 私は告白する勇気をもつべきだった。その声を彼女に聴いてもらえばよかった。そう思うのである。

 《私=彼女》を想定した彼女へ向けた私の言葉は、彼女の「潜在的な能力を引き出す」のに、全く何の役にも立たなかった。私はどこまでも彼女ではなく、彼女はどこまでも私ではない。彼女を私に引き寄せても、私を彼女に寄せても、そこへ向けられた言葉は、私と彼女のどちらにとっても、誠実なものとはならなかった。誠実な言葉となるためには、私は私自身へ向けて語るべきだったのだ。私が私自身に向けて声を絞り出すとき、はじめて本当の言葉が生み出される。だから、私は告白すべきだった。

 私は読者として、著者の告白を聴きたい。著者と私とでは、人体を形作っている小さな細胞のひとつから意識の欠片まで、何もかもが違う。だから同類アピールなどいらない。共通の認識などなくて構わない。ただ、著者が著者自身に対して行う、告白の声を聴きたい。私はそれを上手く聴き取れないかもしれない。それでも、著者が著者自身に対して最も誠実な言葉を綴っていったなら、読者には、告白の声を受け取った感触が残る。告白の声の感触には、きっと読者の「潜在的な能力を引き出す」力があるのだろうと思う。

 

4. 声を聴かれるということ

 どこで誰がどんな夢を見ているのか、もちろん私は知らない。しかし、私が私自身に向かって告白するとき、きっと誰かが、聞き耳を立てているのではないかと思う。夢と現実の境目あたりで。もしかしたら、その声はうまく聴き取られないかもしれない。でも大丈夫だ。告白の声の感触は残る。いずれまた誰かと話をするとき、今度こそ私は告白しようと思う。

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