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異物を巡る怪物、あるいは怪物を巡る異物

 

0-0. 異物排除への警告音

 体内に細菌やウィルスなどの異物が侵入すると、直ちに免疫応答が起こり、それら異物は排除される。このような人体の仕組み同様、人間社会にも、異物排除の機能が予めプログラムされているように思われる。その機能は、時に、いや、しばしば、暴走する。ヒトラー総統の下ユダヤ人の大量虐殺を行ったナチス・ドイツや、1965年よりスハルトの指揮下で共産党関係者の大虐殺を行ったインドネシアなどは、その最たる例だが、一国内、一地域内、一組織内、一学級内、ありとあらゆる社会の中で、過激で非情な異物排除の動きは見受けられる。
 異物を排除する働きは、社会の平和を維持していくために、ある程度は必要な機能なのだと、あなたは言うかもしれない。異物の存在は、社会の意思決定の進行を妨げる。異物が存在しなければ、スムースに事が運び、平和がもたらされよう。しかし、実際はそうはならない。なぜなら、異物の存在しない社会--つまり、思考が画一化された社会--は、生命力が弱いからだ。その社会が何らかの危機に晒された場合(いかなる社会も、常にありとあらゆる種類の危機に晒されつづけているものだが)、多様な思考が育まれず一つの対処法しか許されないような社会では、その危機を乗り越えることが極めて難しい。つまり、平和がもたらされる以前に(或いはもたらされてもすぐに)、滅びてしまうことが多い。だから社会は、思考の多様性を確保しなければならない。つまり、異物を排除してはならない。

 

0-1. いつぞの理科の授業で習ったであろうこと

 地球上の大気を構成する気体の種類とその割合:

 窒素     78.08%
 酸素     20.95%
 アルゴン   0.93%
 二酸化炭素  0.03%
 計      99.99%

 窒素は、地球上の大気の大部分を占める。
 酸素は、言うまでもなく、我々人間の生存に欠かせぬ気体である。助燃性(物質が燃焼するのを助ける性質)がある。
 アルゴンは、ギリシャ語で「怠惰な」「不活発な」という意味の言葉に由来し、その名の通り、化学反応をほとんど起こさない元素である。
 二酸化炭素は、地球温暖化の原因として、その増加が問題視されている。植物が光合成をするのに必要な気体である。

 

0-2. いつか社会の授業で習うであろうこと

 地球上に存在する人間の種類とその割合:

 ゾンビ         78.08%
 怪物1(救世主)    20.95%
 怪物2(毒虫)     0.93%
 怪物3(コンビニ人間) 0.03%
 計           99.99%

 各種人間の説明は、以下に譲る。

 

1. ゾンビ vs. 怪物1(救世主)

 羽田圭介の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』は、【0-0. 異物排除への警告音】を通奏低音とした小説である。
 ある時、世界中でゾンビが発生した。ゾンビは、顔が青く、黒目が白濁し、体温が21度と極端に低い。臀部の割れ目に日の丸型の紫斑があるかどうかが、見分け方の指標となる。ゾンビの多くはノロノロと歩くが、走れる者もいる。ゾンビに噛まれた者は、大半がゾンビになってしまうが、ならずに済む者もいる。また一方で、噛まれずともゾンビになってしまう者もある。ゾンビを巡る暴動事件が世界各地で頻発する中で、その原因の解明が急がれる。どのような人がゾンビになりやすい/なりにくいのか。様々な事件/事例を経て、終盤その謎が解明され、次のように特徴がまとめられる。

ゾンビになりやすい人の特徴:
内輪にしか通じないコミュニケーションをとりがち。他者が作り出した流れや考えにのっかったり盗んだりしがちで、かつそのことに対する自覚やためらいが薄い。

ゾンビになりにくい人の特徴:
内輪以外にも通じるコミュニケーションを重要視する。他者が作り出した流れや考えに頼らない思考や行動がとれる。また、他者が作り出した流れや考えにのっかったり引用する場合もそのことに自覚的であり、自分なりにそうするための意義を見つけ、引用する対象や文脈を意識的に再構築することができる。

 世の中は、ゾンビになりやすい人たちが多数派であり、ゾンビになりにくい人たちは少数派である。ゾンビに噛まれてもゾンビにならない人は、ゾンビを噛むと25〜30%の確率で人間へ戻せるため、「救世主」と呼ばれるのだが、彼らの正体は、「大勢が作り出す文脈に甘んじてこなかった人々」ということになる。彼らは、このような事態になればこそ「救世主」などと呼ばれるが、これまでは、多数派に安易に同調しないために、社会の中で異物的扱いを受けてきた人々である。つまり、世間から浮いた、怪物だった。
 羽田圭介は、ゾンビ的人間(ゾンビになりやすい人たち)が、社会を画一化させ、人類の存続を危うくするのだと考えている。逆に、怪物(ゾンビになりにくい人たち)の存在こそが社会に思考の多様性をもたらし、人類の存続を可能にするのだという。人間は自らの種の存続のために、ゾンビ的人間を駆逐すべく、ゾンビを発生させたのだ。

 すべては、多様性を失うこと--思考の画一化への警告なのだ。
 全世界的に人々は、無自覚的に他人の考えを盗み、"間違いのない思考"、"間違いのない選択"によりそった行動をとりだした。皆がおいしいという飲食店でしか食べず、皆が面白いという小説や映画のみに触れ、皆が幸せだとする生活モデルのみを自分にとっての幸せとして規定する--。
 思考の多様性が確保されない限り、種にとっての脅威にさらされた場合に乗り越えることもできない。ゾンビは人類存続のため、無自覚的に他人の思考を盗みがちな人々を根こそぎゾンビに変えることで、種の新陳代謝をうながしているのだ。

 ところで、上述したゾンビになりやすい人/なりにくい人の特徴は、羽田自身の手による要約である。しかし、400ページに渡って紹介されるゾンビ関連の事件をつぶさに追っていくと、ゾンビになった人にも色々なタイプがあり、上述の特徴にあてはまらない者もいることが分かった。この特徴にあてはまらない人々は、大きく2つのタイプに分けられる。ひとつは「弱者」であり、もうひとつは「善人」である。
「弱者」とは、ここでは具体的に、「生活保護の受給申請を却下され、ホームレス生活を余儀なくされていた集団」と「自殺者」とが挙げられる。ホームレスたちは、他人に安易に迎合するような人間だったか否かに関係なく、ゾンビとなり、生活保護の受給申請を却下した区の福祉事務所を襲う。また自殺者は、その90%以上がゾンビとして復活している。彼らは、(例えば福祉事務所の富野主査のような)ゾンビ的人間の犠牲者として弱者となった。そして、ゾンビ vs. 怪物(救世主)という社会の対立構造の中で、自身がゾンビ的人間かどうかということとは異なる文脈で、社会からゾンビ的人間を駆逐するために、彼らはゾンビとなった。彼らは二重の意味で「犠牲者」なのである。
 もう一方の「善人」とは、ここでは具体的に、福祉事務所の佐藤のような人物を指す。すなわち、ゾンビに噛まれゾンビになりつつある状態の時に、みんなを殺したくないから、みんなを襲ってしまう前に早く殺してくれと頼むような人である。或いは、南雲晶のように、ゾンビになりつつある状態の時に、自らの手足を結束バンドで縛り、みんなを襲えないような状態にする人のことである。彼らは、自らの生存よりも、他者の生存/繁栄を優先する。
 これら「弱者」と「善人」については、第二の怪物的存在として、次の2章で考察を加えたい。
 そしてもうひとつ、ゾンビ vs. 怪物(救世主)という対立構造そのものからこぼれ落ちる、第三の怪物の存在についても、ここで指摘しておきたい。『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』の世界では、ゾンビになりやすい人もなりにくい人も、どちらも「大勢が作り出す文脈」というものを感受できていることが前提となっている(無自覚に従うにせよ、自覚的に従わないにせよ)。しかし、世の中には、そもそもそれを感受できないタイプの人間もいるのだ。これについては、後ほど3章にて、詳しく論じたい。

 

2. 犠牲者たる「弱者」と「善人」:怪物2(毒虫)

 カフカの小説『変身』の主人公グレゴール・ザムザは、ストレスのかさむ営業の仕事に日々励み、借金を抱える一家の家計をひとりで支えていた。グレゴールは、「すべて絶望のどん底に追いやった事業の悲運を、一家にできるだけ早く忘れさせ」ようと、「異常なほどの情熱を燃やして働きだし、しがない販売職からほとんど一夜にして営業職に昇進し」、「一家の家計をそっくり負担できるだけの金を得るようにな」ったのだ。さらに、「大の音楽好きで、ヴァイオリンを惚れぼれするほどに弾いてみせる腕をもっている」妹を、「なんとか音楽学校へ入れてやろう」とお金の工面を密かに計画する、妹想いの兄でもある。
 そんなグレゴールが、ある朝目覚めると、一匹のばかでかい毒虫になっていた。
 その日を境に、ザムザ一家の生活は一変する。突如稼ぎ手を失ったザムザ家は、残された3人で、なんとか生活費を稼ぎ出さなければならなくなった。もう五年も仕事をせず、「その間にすっかり肥って、動作が鈍重になってしまっ」た父と、「喘息病みで家の中を歩くにもひどく難儀」するような母と、「ヴァイオリンを弾くことが何より大事なまだ十七歳の子ども」である妹の3人である。彼らがようやっと得た職は、それぞれに忙しく、しかも、直視できないほどにおぞましい姿をした毒虫の世話をしながらの生活である。その毒虫がグレゴールであるという確証もないまま、そうであると信じつづけ、また、いつか元の姿に戻ってくれるかもしれないという希望を捨てられない状況に、彼らは段々と神経をすり減らしてゆく。そして、彼らは次第に毒虫をぞんざいに扱うようになっていった。
 そのような状況の中で、グレゴールが想ったことは何か。

せめて妹と話ができ、自分にしてくれる一部始終に対して礼を言うことさえできたなら

 言葉が通じず、感謝を伝えられないことに、グレゴールは悩んでいたのである。
 しかし、どんなに愛情があろうとも、毒虫との生活は、やがて破綻を来たす。ザムザ一家は、ついにグレゴールを見捨てようと腹を決める。

「これを処分するしかないわ」と妹がさけんだ、「そうすることが唯一の手段なのよ、父さん。これがグレゴール兄さんだなんていう考えだけは、お払い箱にすべきね。わたしたちが長いことそう信じてきたっていうことこそが、そもそもわたしたちの不幸にほかならなかったんだわ。だって、いったいどうして、これがグレゴール兄さんだっていうの。これがグレゴール兄さんだったら、とっくの昔に、人間とこんな獣との共同生活なんかできっこないと悟って、さっさと自分から出て行ってるわ。そうすれば、兄さんはいなくなるけど、わたしたちは生きのびられるし、兄さんの思い出を大切に胸にしまっておけるってものよね。ところがこの獣ときたら、こうやってわたしたちを追いまわす、間借りのみなさんは追いだしてしまう、きっとこの家全部を占領してしまって、わたしたちを路頭に迷わすつもりなのよ。ほら、見てよ、父さん」

 愛する妹がこのように言うのを聞いたグレゴールは、明朝、自ら静かに息を引き取った。善なる弱者は、自らが犠牲となり、家族や社会が繁栄する道を選ぶ。毒虫たるグレゴールは、「弱者」かつ「善人」の怪物であった。
 我々の社会は、弱き犠牲者の善意に頼らねば、まわらぬものなのか。人間社会の宿命として、犠牲者の存在には目を瞑りつづける他ないのだろうか。

 

3. 真の異物:怪物3(コンビニ人間)

 羽田圭介の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』において散々槍玉に挙げられていたように、場の空気に従い、巷の言説を鵜呑みにし、他人に迎合してばかりいる安易な人間は、往々にして批判の対象となる。しかし、よくよく考えてみれば、それを批判する方もされる方も、ある意味では同類である。なぜなら、批判する方もされる方も、場の空気や巷の言説、或いは普通の人間の常識的な考えや大衆像というものを、前提として共有しているからだ。
 世の中には、そもそもその前提を共有していない者がいる。村田沙耶香の小説『コンビニ人間』の主人公古倉のように、人間の普通の振る舞いがどういうものかということを、そもそも理解できない者である。彼女は、まわりの人たちの指示に従い、また、まわりの人たちの喋り方を、表情を、感情を、考え方を、必死に真似ることで、なんとか社会の中で生きている。だからマニュアル通りに動くことが良しとされるコンビニという職場は、彼女が社会の中で歯車の一つとして機能できる、唯一の居場所となっているのだ。
 彼女は、家族が彼女のことを「どうすれば『治る』のかしらね」と相談しているのを聞きながら、一体何を治す必要があるのかよく分からないでいる。彼女にしてみれば、まわりのみんなの方が余程おかしいのだ。なぜみんな、そんなに他人のことを「理解」したがるのか。それも、他人の本当のところを理解したいのではなく、勝手な作り話と思い込みにより、理解したということにして、安心したがるのである。彼女にとっては、人々のそのような習性が理解できないし、そのことを甚だ迷惑だと感じている。

[……] 皆、私が苦しんでいるということを前提に話をどんどん進めている。たとえ本当にそうだとしても、皆が言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとはしない。そのほうが自分たちにとってわかりやすいからそういうことにしたい、と言われている気がした。
 子供の頃スコップで男子生徒を殴ったときも、「きっと家に問題があるんだ」と根拠のない憶測で家族を責める大人ばかりだった。私が虐待児だとしたら理由が理解できて安心するから、そうに違いない、さっさとそれを認めろ、と言わんばかりだった。

 そして、普段は周囲の人々が勝手につくりあげる私像を甘んじて受け入れていても、もし何かの拍子に、うっかりみんなの理解(曲解)を超えた発言をしようものなら、直ちに遠慮なく、「どこか好奇心を交えながら不気味な生き物を見るよう」な視線を向けられるのだ。そして瞬時に異物と化す。

 あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。
 店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。
 正直な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。

 もし、「普通」というものを前提として共有する、他者に迎合する人々(ゾンビ:78.08%)も、それに対する批判的精神を持ち合わせる人々(救世主:20.95%)も(この2種が人口の99.03%を占める)、結局のところ「普通」に基づく他人の理解と称した曲解を求めているのであれば、私たちのほとんどは、知らぬうちに古倉のような「コンビニ人間」を異物扱いしてしまっているのだろう。

 

 怪物1(救世主)は、ゾンビのあからさまな異物排除に警告を発し、足を踏み鳴らすが、その靴底で踏み潰している異物の存在--怪物2(毒虫)や怪物3(コンビニ人間)--には気づいていない。なぜなら、「犠牲者」や「真の異物」は、警告音を発することができないのであるから。

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