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「欲望」の再生

 

 アカデミックな世界で追究されるのは普遍的な真理であると一般的には認識され勝ちだが、そうではない。ある現象を解明すべく構築される理論は、その時代、その場所、その人の、思想や価値観に大いに規定される。アインシュタイン曰く、科学は「人間精神の一つの創造物であって、それが自由に発明した思想や観念を含んでい」るという[1]。最も主観の入り込む余地の少なそうな自然科学の分野でさえそうなのだ。人間の行動を扱う経済学のような学問ではなおのことである。これは善し悪しの問題ではない。また、その程度の違いによって学問間の優劣を競うような話でもない。

 

 私はこれからしばし、経済学の話をしようと思う。それは、経済学が、近現代の西洋の歴史のうえに成り立ち(それは古代ギリシャの思想の命脈をつなぐものでもあるが、ここでは立ち入らないことにする)、つまり西洋的価値観に晒された近現代の我々の行動様式を大いに反映するもので、現代社会の構造を解明するうえで、ひとつの重要な見取り図を与えてくれるように思うからである。
 経済学という学問は、18世紀後半のヨーロッパで興った。17世紀のニュートン力学確立以来、科学が時代の権威となる中で(それは現在にまで続く流れであるが)、それまで哲学や倫理学の中で論じられてきた経済が、科学たることを目指さんとして独立したのである。それから200年以上の歳月をかけ、多くの賢者たちの手によって、経済理論という巨大な構築物が築かれてきた。当然のことながら、対立や統合、分裂が繰り返されてきたわけだが、19世紀後半に、今日の経済学の在り方を決定づける概念が登場した。「効用(utility)」および「限界効用(marginal utility)」[2]である。これらの概念は、それぞれ別々の場所で興り異なる考え方をもった3つの学派(ワルラスを祖とするローザンヌ学派、メンガーを祖とするオーストリア学派、マーシャルを祖とするケンブリッジ学派)で、ほぼ同時期に提唱された。それぞれに目的や動機は違えど、同じ「効用」の語が用いられ、分析に際して同じ「限界効用」の概念が導入されたことは、偶然ではあるまい(経済学に効用概念が持ち込まれたことの必然性については持論があるが、長くなりすぎるので割愛する)。ともあれ、以来「効用」は、経済学における至上価値となった。つまり、経済学は「効用」を最大化することを目的とする学問になったのだ。
 とは言え、この「効用」という概念の意味するところは常に一様ではなかった。時代とともに移り変わる。ベンサムやミルの時代には「客観的な」「快(pleasure)」を意味していた「効用」が、ピグーに至るまで「主観的な」「満足」の概念へと変化していき、さらにロビンズ以降、「主観的な」「満足」は「客観的な」「満足」へと一気に書き換えられる。1938年にサミュエルソンが提唱した「顕示選好(revealed preference)」の概念は、客観化の流れの決定打となり、現在までその概念は(一応のところ)保持されている。
 私は、この「顕示選好」理論が、現代の我々の振る舞いを意外にも正確に記述していたのではないかと思っている(意外にも、と書いたのは、「顕示選好」理論が、「合理的経済人」という実際の人間とは異なるヒトを前提にしたモデルだからだ)。しかし、2000年代に入り、ついにこの理論にも限界がやってきたのではないかと思う。ともあれ、まずは、「顕示選好」理論なるものについて。

 

「顕示選好」という考え方は、消費行動にまつわる「欲望」「選択」「満足」の関係性を非常に特殊なものにした。消費行動は、これが欲しいという「欲望」に従って、これを買おうという「選択」を行い、それを消費することによって「満足」を得る、という一連の行動によって記述される。科学たらんとする経済学は、これら消費行動の記述においても、あくまで客観的に収集できるデータのみに依拠したものでありたかった。そこで、「欲望」「選択」「満足」のうち、「選択」にスポットライトが当たった。ロビンズ以降、消費理論の分析の中心に据えられたのは個人の「選好順序」だが、サミュエルソンは、それを(個々人の選好順序の表明に基づく)主観的なものから、実際の「選択」行動の観察から知ることができる客観的なものに置き換えた。このようにして、まずは「選択」の客観性が担保された。しかし、「選択」の両側には、「欲望」と「満足」という極めて主観的な概念が纏わりついている。そこで今度は、「欲望」と「満足」の主観的性質の排除にかかる。そこで持ち出されるのが、「合理的経済人」という概念だ。経済学は、「合理的」であることを望ましいとする究極的価値判断を行い(価値判断というものも、科学を指向する経済学が極力避けようとしてきたことのひとつなのだが)、「合理的経済人」の振る舞いをモデル化することになる。合理的(無矛盾)なヒトは、欲するものを選択すべきであり、選択すべきものを実際に選択する。あるものが選択されたという客観的事実から、それはそのヒトが欲するものであることが分かる[3]。合理的なヒトの顕示する選好は、このように「欲望」と「選択」との間の関係を空虚な循環論に陥らせ、「満足」をその先に実体なきものとして存在させることになる。こうして経済学は、「欲望」や「満足」という主観的性質の実体を失わせることで、その排除を試みたのだ。つまり経済学は、それが至上価値とするところの「効用」をすら、空疎なものにしてしまったのである。
 さて、経済学は科学たることを目指すがゆえに、「選択」という目に見える客観的事実の裏に、「欲望」と「満足」という主観的感情を骨抜きにして排置した。選んだのだから、欲しているはずだ、満足しているはずだ、と。繰り返すが、経済学は、現実の人間の行動を忠実に描写しようとしたわけではない。数学的に無矛盾な理論を構築するために、経済学的に理想的なヒト(合理的経済人)の行動をモデル化したのだ。にもかかわらず、「選択」という客観的事実の裏に「欲望」と「満足」という主観的感情が骨抜きにされるという図式は、現代の我々の行動原理をピタリと言い当てているように思われる。どういうことか。
 無論、日常的な些細な話では、幾らでもあるだろう。選択はしたが、さして欲しかったわけでもなく、だから大して満足もしていない。このような一々の消費行動の集積が、現代の経済社会を特徴づけているとも言える。しかし、ここで議論の俎上に載せたいのは、もっと大きくて深刻な話だ。2000年代に入って起こった幾つかの大きな事件によって、この図式が深刻なまでに浸透していることに、我々はようやく気づいたのではないか。つまり、9.11や3.11という暴力的な現実によって、「欲望」が骨抜きにされていたということに気づかされたのである。念のため断っておくが、その欲望が望ましいものかどうかということは、ここでは問題にしない。

 

 現代の我々は、多文化主義を標榜している。多文化主義社会とは、唯一絶対の信仰というものが、字義通りに純粋な意味では許されない世の中である。大澤真幸の「××なき××」という表現に習えば、「信仰なき信仰」の世界である[4]。上の図式に従えば、私たちは「信仰なき信仰」による多文化共生を選んだのだから、それを望んでいるはずだし、そうなったことに満足しているはずである。しかし、信仰とは本来そういうものではないということは、皆薄々分かっている。だから、我々は皆、信仰に対する根源的な欲求に蓋をしてきた。しかし、2001年の9.11をはじめとするイスラム原理主義による無差別テロの問題は、私たちが長らく蓋をして隠してきたはずの信仰という欲望に、今一度向き合わざるを得ない状況を招いている。
 東日本大震災による福島第一原発事故の問題は、無論テロとは異質のものだが、「選択」という客観的事実の裏に「欲望」と「満足」という主観的感情が骨抜きにされてきたという図式は当てはまる。私たちは原子力発電を選択した。選択したのだから、それを望んでいるはずだし、満足しているはずだ。我々は戦後ずっと、この論理を恐らくは無意識に通用させてきた。原発に対する否定的な感情には、初めのうちは強引に、その後は無意識に/慣習的に蓋をして。そして2011年、福島第一原発の事故が起こり、以降私たちは、蓋をしてきた「反原発」という欲望の姿を直視せざるを得なくなっている。
 これらの事例から導き出せる現代の見取り図はこうだ。20世紀は、都合の悪い「欲望」には蓋をして、名ばかりの「欲望」と「満足」をぶら下げて、物事をどんどん進める時代だった。しかし、21世紀に入り、暴力的な現実が、蓋をしたはずの「欲望」の姿を露呈させ始めた。私たちはそれを直視せざるを得ない状況に追い込まれている。もはや「欲望」に蓋をし続けることはできなくなっている。

 

 さて、21世紀が「欲望」の露呈する時代だとして、「このような時代」における芸術家、批評家の使命とは何であろうか。ひとつには、いまは「このような時代」なのだと提示することであろう。芸術家が無意識で差し出したものを、批評家が意識的に言語化することも必要だろう。加えて、芸術や批評には、未来を露わにすることもできる。データの分析が過去の様相しか描写し得ないのに対し、演劇や美術や文学は、未来をも提示できるのだ。では、「欲望」の露呈するいまの時代を受けて提示される未来とは、どのようなものであり得るか。ここにひとつの文学作品を取り上げたい。村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。2013年に書き下ろしで出版された。

 

『多崎つくる』は、主人公の多崎つくるが、完璧なまでに「乱れなく調和する親密な」関係を築いていた高校時代の仲良し五人組の男女から、ある日突然決別宣言を言い渡されるところからストーリーが始まる。死の淵に立つほど深い傷を負い、それでもなんとか生き延びたつくるは、それから16年を経て、ようやく決別の真相を明らかにするための旅に出る。仲間たちに順々に会って話を聴く中で明らかになっていくのは、当時の五人組が無意識のうちに蓋をしていた性欲という「欲望」の実体であり、それが暴力的な形で噴出し五人組を解体させたのではないかという見解だ(五人組を解体させる原因となった張本人のシロがすでに亡くなっているため、ここで示されるのはあくまで推測だ)。五人は「調和を乱れなく保つために」「その完璧なサークルを崩さないために」、「性的な関心をどこかに押し込めなくてはならなかった」のだ。しかし、蓋をした「欲望」はいずれ露呈する。それも暴力的な形で。彼らの場合は、シロがつくるにレイプをされたという妄想を抱き、彼女がそれを強固に真実だと思い込んだことで、つくるが五人組から外されることになったのだ。
『多崎つくる』の物語には、蓋をされた「欲望」の露呈という構造が二重に存在する。ひとつは、五人組のうちに芽生えた性欲という「欲望」であり、もうひとつは、つくるがなぜ仲間外れにされたのか、その真相を知りたいという「欲望」である。長い間その真相解明を退けてきたつくるだが、好意を抱いた女性に、つくるが親密な人間関係を築けない原因はそこにあると指摘されたことで、つくるは現実と対峙する覚悟を決めたのだ。
 露呈した「欲望」と正面から向き合ったつくるが得たものは何であったか。それは、ひとつには、他人を心から求めるという望ましい「欲望」の再生であり、もうひとつには、真の調和というものに対する新たな見解であった。

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繫がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

 村上春樹という作家は、『多崎つくる』という作品を通して、「欲望」の露呈する残酷な時代の後に来るべき未来の姿を、静かに探究していたように思えるのだ。

 

 


[1] アインシュタイン、インフェルト/著、石原純/訳『物理学はいかに創られたか 下巻』岩波新書、1940年、189ページ。

[2] 限界効用とは、所得もしくは財の消費が追加的に一単位増えたときに、それによって得られる効用の増加分を意味する。

[3] 現実には、何かを選択したからといって、必ずしもそれを欲しているとは限らない、裏を返せば、選択していないからといって、欲していないとは限らないことを示す例として、イソップの「狐と酸っぱい葡萄」という寓話が挙げられる。狐が美味しそうな葡萄がなっているのを見つけるが、どれも高いところにあって、いくら跳び上がっても手が届かない。ついに狐はあきらめ、「この葡萄は酸っぱいに決まってる、欲しくなんかないや」と捨て台詞を吐いて立ち去る、という有名な話だ。この狐は、自分はこの葡萄の消費から排除されているのだというあきらめのもと、葡萄に対する選好を表明しないだろう。しかし、選好が表明されていないからといって、狐がこの葡萄を欲していないとは言えないのである。

[4] 大澤真幸『不可能生の時代』岩波新書、2008年。

文字数:5459

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