偉大なる「空車(むなぐるま)」
私は森鷗外の文章を好んで読むが、殊に鷗外の随筆が好きである。硬質な文体と明晰な文章はそのままに、所謂批評文や講演録に比べて主張がぐっと抑えられた感じがよい。鷗外の随筆は、見たまま聞いたままが記され、それに対する明快な解釈は与えられないにもかかわらず、そこには何か、宇宙のはじまりからそうだったと思わせるような、真実の感触がある。その真実は、本当はきっと果てしなく壮大なものなのだろうが、鷗外の文章中では、ざらざらとした手触りを与える有形物としてそこに置かれている。私はついそこに、手を伸ばしてしまう。私のみならず、数多の読者がそこに手を伸ばしてきたのだろう。鷗外の随筆を読むと、だから、そこに他人の手の存在を感じる。そういった意味で、鷗外の随筆には生々しさがある。
鷗外の随筆は数少なく、岩波文庫の『鷗外随筆集』を編纂された千葉俊二氏の解説によれば、「その大半はジャーナリズムからの要請でしぶしぶ書いた」もののようだ。「小説や戯曲ならばフィクションという仮面をかぶることで自由にものを言うことができるが、随筆ではあまりに自己があらわに表現され過ぎることを嫌った」ために、鷗外はあまり随筆を書かなかったのではないかと云う。きっとそうなのだろう。だがそれゆえ、抑制の効いた上質な選りすぐりの随筆が生まれ得たのだ。
私はここに、批評文として読むに相応しいと考える鷗外の随筆の一点を取り上げる。批評の定義は人によって異なるとて、各人の定義の中に何かしらの共通項を見出すことは可能であろう。まず、批評には必ずその対象がある。その対象は、作品かもしれないし人かもしれないし現象かもしれないし概念かもしれないしそれ以外の何かかもしれないが、とにかく対象がない限りは、批評は始まらない。そして、ある対象についての表現(これは必ずしも文章表現に限らない)が、その対象に新たな意味なり解釈なり価値なりを与え、確かにそれは真実だと受け手に思わせる力の備わっているとき、その表現は批評たり得るのではないか。だとすれば、批評は、所謂批評というジャンルの外にも存在する。小説や随筆等他ジャンルの文章の中にも、或いは絵画や建築等文章以外の表現の中にも。このような意味において、鷗外の随筆の多くは批評として成立し得る。中でも、大正5年(1916年)7月6日、7日に『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』に掲載された「空車(むなぐるま)」は、その批評性が際立っているように思う。
「空車」は、文庫本で5ページほどの短い随筆だ。それが上・下の二部に分かれている。
上の部では、「空車」という言葉は、「むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の絵巻にあるような物見車が思い浮かべられる」という冒頭の一節以外には登場しない。あとは専ら古言の用い方について、「古言に新なる性命を与える」ことについて、書かれている。「総て古言はその行われた時と所との色を帯びている」からと言って、余りにもそのことに囚われ過ぎると、その用法は大変窮屈なものとなってしまう。文の調和を保とうとすれば、古言は「擬古文の中にしか用いられぬことに」なり、さらに、「擬古文でさえあるなら、文の内容が何であろうと、古言を用いて好いかというに、必ずしもそうでな」く、文と内容との間にも調和を欠いてはならない。古言の用法に関するこのように窮屈で保守的な見解に対し、鷗外は、「仮に古言を引き離して今体文に用いたらどうであろう。極端な例を言えば、これを口語体の文に用いたらどうであろう」かと、挑戦的に出る。鷗外自身「不用意に古言を用いることを嫌」いはするが、「しかしわたくしは保守の見解にのみ安住している窮屈に堪えない」のだと云う。「古言は宝である」からこそ、「わたくしは宝を掘り出して活かしてこれを用いる。わたくしは古言に新なる性命を与える」のだと宣言する。「古言の帯びている固有の色は、これがために滅びよう」が、それは仕方のない犠牲である。鷗外はこれこそが正当な古言の用法だと主張することはしない。あくまでこれは「分疏(いいわけ)」であって、だからこそ「人の誚(そしり)を顧みない」と言って退けるのだ。
さて、「むなぐるま」という古言に一体どのような「新なる性命」が与えられるのか。下の部で「空車」についての語りが開始される。
鷗外は、何と称されるかを知らない意中の車に対して「空車(むなぐるま)」という名をあてる。その車は「大いなる荷車」で、形は大八車に似ているが、大きさがそれの数倍もあり、人の代わりに馬が挽いていると云う。荷車なので、勿論いつも空車な訳ではない。鷗外は、「白山の通で、この車が洋紙を稇載して王子から来るのに逢うことがある」と云う。しかし、そういう時には鷗外の目にはとまらない。「わたくしはこの車が空車として行くに逢うごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない」のである。
[……] 車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覚えしむる。この大きい車が大道狭しと行く。これに繫いである馬は骨格が逞しく、栄養が好い。それが車に繫がれたのを忘れたように、緩やかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物に遇って一歩を緩くすることをもなさず、一歩を急にすることをもなさない。傍若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。
この車に逢えば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横るに会えば、電車の車掌といえども、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
鷗外はただ見たままを語る。空車の存在を肯定もしなければ否定もしない。ただ、ともすれば文句の対象となりそうな空車を決して否定しないという態度を示すことで、緩やかに弁護するのみである(むしろ礼賛しているようにも思われる)。鷗外は、「この空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思わない」と云う。また、たとえ「いかに貴き物」を載せた車にせよ、「この空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬ」と云って筆を擱く。
「空車」の解釈には諸説ある。鷗外のことを評価しない武者小路実篤に対し、その文章内容の空虚さを皮肉ったものだという見方や、鷗外が自身のことを、名ばかりで中身がないという意味で空車に譬えたのだという見方、はたまた天皇制というシステムの中で、益々空虚な存在となる天皇を象徴しているのだと読む向きもあるが、私はこれらとは別の印象をもった。上述のように、例の車はいつも空っぽな訳ではない。鷗外は、いつもは洋紙をいっぱいに積んだ車が、空車の状態でいることに注目しているのである。つまり、通常は誰かのため/何かのために存在している車が、誰のためにも何のためにもなっていない状態、にもかかわらずどこまでも堂々としている状態、その存在感に鷗外は圧倒されているのである。
明治42年(1909年)3月の『在東京津和野小学校同窓会会報』に「混沌」と題された鷗外の講演録がある。そこに次のような一節がある。
どうも欧羅巴に来た時に非常にてきぱき物のわかるらしい人、まごつかない人、そういう人が存外後に大きくならない。そこで私は椋鳥主義ということを考えた。それはどういうわけかというと、西洋にひょっこりと日本人が出て来て、いわゆる椋鳥のような風をしている。非常にぼんやりしている。そういう椋鳥がかえって後に成功します。それに私は驚いたのです。小さく物事が極まって居るのはわるい。譬えて見れば器の中に物が充実している。そこで欧羅巴などへ出て来て新しい印象を受けて、それを貯蓄しようと思った所で、器に一ぱい物が入っていて動きが取れぬ。非常に窮屈である。
ここに云われる器いっぱいに物を詰め込まず、「椋鳥」のようにぼんやりしているがゆえに大成する人というのは、「空車」的人間である。常に有益な存在としててきぱきと要領よく働く者に対し、空っぽで無用の存在のままでんと構え平然としているのが、「椋鳥」であり「空車」である。それらは、混沌としたものを抱えておく余裕を、新しいものを受け入れる寛容さを、そして時が来ればいつでも有用な存在になれる潜在能力を、備えている。「混沌」の講演の中で鷗外は、西周のことを「椋鳥」的であると評している。勿論、最高級の賛辞としてである。西周は鷗外の遠縁で、鷗外が進学で上京した際に、一時期共に暮らしていた。「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のような所にあの人の偉大な所があった」と云っている。であるならば、「椋鳥」同様「空車」も、偉大なものとして鷗外の目には映っていたのではないか。
鷗外の随筆「空車」をこのように読むとき、それは、鋭い批評性をもって今日に蘇る。役立たずで無駄に場所を取る空車に対し、「邪魔だ!」と罵声を浴びせず、その潜在能力の高さと寛容さを認める精神が、或いは自分自身で空車を引いてやろうという気概と余裕とが、現代の我々に一体どれだけあるだろうか。鷗外が「むなぐるま」という古言に与えた「新なる性命」は、今日においてこそ、より一層の活力をもち得るのである。
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