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世界の裂け目の向こう側

 

 あのとき私は、祖母と留守番をしていた。4歳か5歳のときのことだ。マンションの3階の窓から、マンション横の道の渋滞を眺めていた。随分長いこと、全く動く気配を見せない車の列を眺めていたのはなぜだったか。その中の一台が、真っ逆さまにひっくり返っていたからである。タクシーだった。上下逆さになったタクシーの中で、運転手と思われる男の人がぐにゃりとなっている。私のいる場所からタクシーまでは、かなりの距離があったはずだが、私は車の窓ガラスに額をくっつけて中を覗き込んだように、鮮明な映像を見ていた。「こわいね」「ああ、おそろしいね」祖母と一言二言交わしたのだったか。
 私の記憶の中の光景は、やけに静かだ。パトカーや救急車のサイレン音も聞こえないし、まわりの車も人も慌てふためいている様子がない。静かな車の縦列の中で、一台だけがきれいにひっくり返っている。そう、不謹慎かもしれないが、きれいという言葉がぴったりなのだ。私は非常に冷静だった。非常に冷静に、こわいと思っていた。
 祖母は、あれから数年後に亡くなった。だから今となっては、あの出来事が本当にあったことなのかどうか、確かめようもない。大人になってから一度、母にこの話をしたことがあるが、「そんなことあったかしらねえ」という反応だった。よく考えたら当然だ。あのとき私は、祖母とふたりで留守番をしていたのだから。

 あの光景が、「夢でも幻でもない、現実と名付けられた領域にたしかに属するものだと、いまでも私は確信が持てない。過去の出来事は、いまを生きる人間にとっては、記憶や記録のなかにしか居場所がない。事件の詳細は警察の調書その他には記録されているだろう。けれども、あの場面そのもの、[……] 私が見たあの場面は、私の記憶の仄暗い沼にしか棲息できず、手に触れることができないという意味では、夢や幻と変わらないともいいうる。」[1:191]
 私は未だ疑問に思う。大騒ぎになってもおかしくない状況下で、周囲があんなに静かだったのはなぜなのだろう。
 もしかしたら。あのとき、周囲のドライバーや歩行者には、ひっくり返ったタクシーは見えていなかったのではないか。実はこの世界に充満している空気とやらは、滑らかでもひとつづきでもなく、地殻変動によって生じる断層のように、処々に裂け目があって、渋滞でたまたま裂け目のところに留まったタクシーは、断層のせいでくるりときれいに反転し、裂け目の向こう側へと消えてしまったのではないか。だから周囲の人々には、逆さまのタクシーは見えていなかった。それなら、記憶の中の光景がやけに静かなのにも納得がいく。私(と祖母)だけが、あのとき、反転したタクシー--つまり、世界の裂け目の向こう側--を目撃していたのだ。
 では、一体何が、私(と祖母)だけに世界の裂け目の向こう側を見せたのか。正直に言おう。それは、私の中の残虐さ、ではなかったか。私の内に潜む残虐さと照応して、あれ以来世界の裂け目の向こう側は、ふとした瞬間に私に過剰な世界を見せつけてくる。それは時に、残虐さだったり美しさだったり、魔界の気配だったり天上から溢れる光だったり、時のかき乱された世界だったり、凪のように静止した世界だったりする。
 ところで、心の内の残虐さは、過酷な外的環境の中で生まれるものではない。むしろその逆で、平穏な状況下でこそ芽生えるものだ。
「人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにする [……]。[私] たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。[私] たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間」[3:135] なのだ。

 心の内に潜む残虐さは悪か。幼少の頃からの疑問は、未だ解決しないが、大人になって哲学書なども読むようになり、一応の解を得るに至った。それは、YESとも言えるし、NOとも言える。どちらの立場においても説得的な議論を組み立てることができるのだ。ここでは一先ず功利主義とカントの議論を参照しよう。
 功利主義では、行為の結果が、善悪を決める。ミルは、「動機が行為者の価値を大きく左右するものの、行為の道徳性(善悪)とは無関係である」と言う。例えば、「溺れている同胞を救う者は、道徳的に正しいことをしているのであって、その動機が義務からでていようと報酬目当てであろうと関係ない。自分を信頼している友人を裏切る者は、たとえ、もっと大きい恩を受けた別の友人に奉仕するためであっても、犯罪者なのである。」[6:479] また、ベンサムは、「それ自体として悪いものであるような、どんな種類の動機も存在しない」と述べ、「動機が善または悪であるのは、ひたすらその結果による」[5:177] とする。例えば、金銭的な関心は、動機それ自体としては、良くも悪くもない。ただその動機のもとに取った行動の結果が悪い場合に、貪欲・強欲などと呼ばれ、悪い動機と言われるのである。[5:182]
 一方で、カントは、善悪の判断基準は、行為の結果ではなく、心意にあると言う。「行為の本質的善を成すものは心意であって、行為の成果がどうであろうと、それは問題でない」[4:74] と明言する。或はまた同じことだが、「善意志は、それが遂行し或いは成就するところのものによって善なのではない、また何によらず所期の目的を達成するに役立つから善なのではない。善意志は、実に意欲そのものによってのみ――換言すれば、それ自体として善なのであ」り、「役に立つとか、或いは効果がないなどということは、善意志の価値をいささかも増減するものでない。」[4:24-25] 逆に言えば、例えば「君は偽りの約束をすべきでない」と言うとき、それは「彼がかかる約束をすることによって何か別の害悪を招くかも知れないから、そのようなことはしないほうがよい」[4:81] という意味では決してない、偽りの約束が悪なのはその結果の悪さによるのではない、ということである。
 つまり、カントの考え方に従えば、行為の結果がどうであれ、心の内に潜む残虐さは悪であるし、功利主義の考え方に従えば、行為の結果が悪くない限り、心の内に潜む残虐さは悪とはならない。
 これは、心の内に潜む残虐さは悪かという問いに対する答えにはなっている。が、きっと問いの立て方が悪かったのだろう。何かが未解決のまま放り出された感覚が拭えない。私が知りたいのはこういうことではないはずだ。そんな時は、問いの角度を少し変えてみるとよい。

 残虐さと並んで、世界の裂け目の向こう側が見せつけてくるものに、美がある。
 美 beauty の語源は、ラテン語で美しいを意味する形容詞 bellus だ。「美しいを表す bellus と善を表す bonum は仲間」であり、「実は、美と善を評価するそれぞれの脳は、脳活動のレベルでも共通性を見出すことができる」[2:43] という。美は、善悪で言えば、善の側にあるということか。
 しかし、やはり美は、残虐性や悪とも接続してはいまいか。「モーツァルトの、あの美しい賛美歌 Ave verum corpus は、悪魔的であるからこそ天上的であるのだ」[1:253] し、「戦乱と不安、多くの屍と夥しい血が、金閣の美を富ます」[3:46] のだ。
 ならばこのように問うてみよう。美を求める心意は、カント的善悪のどちらをもたらすのか。美を求める行為は、功利主義的善悪のどちらをもたらすのか。

 私は、美を求め、美に囚われ、美に隔てられていることに悩む青年時代を送った。その挙句、破壊的な思想をもつようになった。「ただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢み」[3:61] るようになった。『金閣寺』の主人公の青年、溝口のように。
 私の心は溝口と共振した。不動の美の象徴である金閣が「空襲の火に焼き亡ぼされるかもしれぬ」[3:54] という期待をもつことによって、「金閣はもはや不動の建築ではな」くなり、「それはいわば現象界のはかなさの象徴に化」す。「現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものにな」[3:58] るのである。「戦乱と不安、多くの屍と夥しい血が、金閣の美を富ま」[3:46] せ、「金閣は再びその悲劇的な美しさを増」[3:54] すのだ。さらに、「私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考え」[3:59] は、私と金閣との心理的距離を近づける。「同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することにな」[3:60] り、「私を拒絶し、私を疎外しているように思われたものとの間に、橋が懸けられ」[3:59] るのである。
 ここで、私の心意をカント的善悪の判断基準に晒すなら、疑いようもなく悪である。金閣が「空襲の火に焼き亡ぼされる」ことを期待するという残虐な心意のうえに、美が立ち現れる。しかし、この時点で私の心意は実際の行為を伴っていないので、功利主義的には、善でも悪でもない。
「私は今でもふしぎに思うことがある。もともと私は暗黒の思想にとらわれていたのではなかった。私の関心、私に与えられた難問は美だけである筈だった。しかし [……] 美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういう風に出来ているのである。」[3:61-62]

 空襲の火は、結局金閣を焼かなかった。「とうとう空襲に焼かれなかったこと、今日からのちはもうその惧れがないこと、このことが金閣をして、再び、「昔から自分はここに居り、未来永劫ここに居るだろう」という表情を、取戻させた」[3:80] のである。「金閣と私との関係は絶たれ」、「私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態 [……] 美がそこにおり、私はこちらにいるという事態」[3:81] がはじまったのだ。
 再び現れた美と私の間のどうしようもない隔たり--これを破壊するために、私は、自分自身で金閣を焼かなければならなかった。そう心に決めると、私は再び自由になった。「金閣がいずれ焼けると思うと、耐えがたい物事も耐えやすくなった」し、「どんな事柄も、終末の側から眺めれば、許しうるものになる。その終末の側から眺める目をわがものにし、しかもその終末を与える決断がわが手にかかっていると感じること、それこそ私の自由の根拠であった。」[3:254-255] 準備を重ね、時を待ち、いよいよ実行へ移す段になって、しかし、私はあることに気づいた。「行為そのものは完全に夢みられ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだろうか。もはやそれは無駄事ではあるまいか。」[3:323] 実際に金閣を焼いたところで、これ以上の自由も、これ以上の美との親和も得られぬのだから。「ぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識」が、行為を「無効に」[3:323] したのだ。もはや実際に金閣を焼く必要はなかった。
 私は、金閣を焼こうという心意、カント的悪を、現実の行為へ移す寸前まで近づけることで、実際に金閣を焼くという功利主義的悪を喰い止めることができたのだ。
 にもかかわらず、『金閣寺』の主人公溝口は、金閣を焼いた。どうしてなのか。「今や行為は私にとっては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、私の意志からはみ出し、別の冷たい鉄製の機械のように、私の前に在って始動を待っている。その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないかのようだ。ここまでが私であって、それから先は私ではないのだ」[3:323-324] と言う。
 彼の行為は、功利主義的善悪の判断基準に晒すなら、疑いようもなく悪である。金閣を焼いてしまったのだから。しかし、カント的判断基準ではどうだろうか。彼のこの行為には、もはや心意が伴っていない。彼の意志からはみ出た行為であった。だとすれば、善でも悪でもない。

「音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠」[3:177] いものもないと、溝口は言う。「人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂って」[3:246] くるならば、「生命に似た」たちまち消える音楽は、前者に相当するのか。いや、本当にそうだろうか。音楽は生命に似ているだろうか。音楽がたちまち消えるというのは、生命の滅びやすさと同じことなのか。
「指が鍵盤からつと離れ、コッと音をたててペダルが踏み戻されれば、音楽は消える。二度と取り返せない、久遠の場所へ去ってしまう。」[1:186] 一回限りの音楽は、ひとつの生命の死と同じように、手の届かぬ場所へ消え去る。
 しかし、音楽というものが、「遥かな時空を貫いて、いにしえよりずっと、眼に見えぬどこかで響き続けていた」ものであり、「それが何かのきっかけを得て、まったくの偶然から、この世界に「露頭」となって現れ出たもの」[1:173] なのだとしたら。そう、世界の裂け目を通じて、時折こちらの世界の私たちに感受されるものなのだとしたら。世界の裂け目の向こう側では、「音楽は途切れず続いている。[……] この瞬間にも密やかに響き続けている。[……] ピアニストは「沈黙」から音楽を魔術でもって呼び出し、一瞬の幻惑のうちにその眩い姿をこの世に現出せしめ、そしてまた「沈黙」へとそっと返してやる」[1:186] のだ。
 例えば、即興演奏が好きだったシューマンは、「実際に出ている音、つまりピアノから出ている音だけ」でなく、「もっとたくさんの音を聴いてい」たという。世界の裂け目から「宇宙全体の音を聴いて、それを演奏している。そういう意味でいうと、ピアノから出る音は大したものじゃない。だから、シューマンは指が駄目になったとき、そんなに悲しまなかった。だって、ピアノを弾く弾かないに関係なく、音楽はそこにある」[1:147] のだから。
 世界の裂け目の向こう側に存在する音楽からすれば、現実の演奏など、常に不完全なものにすぎない。いや、「演奏されたものが不完全、なんていうのはまだ優しいいい方で、つまり演奏は音楽を滅茶苦茶に破壊し、台無しにする。その滅茶苦茶になった残骸を、[私たち] はずっと音楽と呼んできた」[1:245] のだ。
「なるほど演奏は「音楽」を台無しにするかもしれない。[……] しかしだからといって、それで「音楽」が消えるわけではない。「音楽」は傷つきもしない。そうなのだ。「音楽」はもう在るのだ。氷床の底の蒼い氷の結晶のように。暗黒の宇宙に散り輝く光の渦のように。動かし難い形で存在しているそれは、私の演奏くらいで駄目になるものではない。」ならば、私は安心して、「ひたすらに「音楽」を信じ、余計事を考えずに光の結晶であるところの「音楽」に向かって進んでいけばいいのだ。」[1:270] 現実の演奏に関して、焼くべきものは何もない。こちらが焼く前に、自ら消えゆくのだから。

 世界の裂け目の向こう側は、これまで私に残虐さや美しさや音楽やいろいろのものを見せてくれた。これからもまた見せてくれるだろう。そこでは、善は影を潜め、美は残虐と手を結び、音楽は消えない。つまり、現実的思考を許さない世界が広がっているのだ。だから私たちは、世界の裂け目に遭遇した時、考えてはならない。ただひたすらに見て、聴くしかないのだ。そして戦慄すればよい。あなたの脳はすぐさま偽史をつくってくれるだろう。そこで感じた恐怖を耐えられる程度のものにして、こちらの世界の理屈で納得がいくようなストーリーに改変してくれる。例えば私が、「あのとき私は、祖母とふたりで留守番をしていた」と思っているように。

 

 


引用文献

  1. 奥泉光『シューマンの指』講談社文庫、2012年
  2. 川畑秀明『脳は美をどう感じるか』ちくま新書、2012年
  3. 三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫、1960年
  4. イマヌエル・カント著、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』岩波文庫、1960年
  5. ジェレミー・ベンサム著、山下一重訳「道徳および立法の諸原理序説」『世界の名著49 ベンサムS.ミル』中央公論社、1979年
  6. ジョン・スチュアート・ミル著、伊原吉之助訳「功利主義論」『世界の名著49 ベンサムS.ミル』中央公論社、1979年

※ 文中の [1:191] は、引用文献1の191ページからの引用であることを示す。

文字数:6796

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