印刷

無意識化する社会

 

 街中に張り巡らされた監視カメラを通して、あなたの知っている誰かや知らない誰かが、あなたのことを見ている。私は以前ホテルでアルバイトをしていたことがあるので知っている。本当に見ている。エレーベーターの中で、やたら鏡をチェックするあなたを、大あくびをするあなたを、見ている。不審な素振りが見られれば、何度も巻き戻して見ている。ちょっとした事件でも起これば、あなたの写り込んだカメラの映像は警察の手に渡り、隈無くチェックされている。
 私たちは普段、至るところでこのように見られているのだということを意識していない。もし見られていることを意識し始めたら、疲れてあるいは怖くて一歩も動けなくなってしまうだろう。だから敢えて意識しないという防衛本能が人間には備わっているのだろうが、それに頼るまでもなく、監視カメラは大抵目立たぬところに設置されているので、大抵の人は見られていることに気づいていない。だから見られていることを意識せずに済んでいる。
 私たちは日常的に、見られていることに限らず、多くのことを意識していない。これを使っていることを、これを選んだことを、こう動いていることを、こう判断したことを、多分ほとんどのことを、意識していない。
 例えば、あなたが使っているスマホのそのアプリ。似たようなアプリがたくさんある中で、なぜそのアプリを使っているのですか? と訊かれたら、「まあ、なんとなく」と正直に言うか、「知らん!」と一喝するか、返事はおそらく二つに一つ。つまり、あなたは別段意識もせず、そのアプリを使っている。洋服だって、家電だって、本だって、何だってそうだ。特に深く意識せずにそれを選び、それを使っている。
 あるいはまた、暇つぶしのために入ったマクドナルドで、あなたは20分と経たずに店を出て来てしまったという経験があるかもしれない。あと1時間半ほどどこかで暇をつぶさなくてはならないにもかかわらず。なぜかと訊かれれば、「まあ、なんとなく居心地が悪かったから」ということになるのだろう。このようなあなたの行動や判断も、やはり、大して意識的なものではないはずだ。
 私たちは、なんとなく無意識にものを選び、使い、判断し、行動している。しかしその裏で、私たちが無意識にそうするよう、まさにそのことを狙って、ものすごく意識的にものをつくっている人たちがいる。
 例えば、スマホのアプリであれば、如何に使用者に無意識に使ってもらえるかという観点から、制作者たちは技術開発に凌ぎを削っている。何百万とあるアプリの中から、スマホユーザーがインストールしているアプリの数は平均22個。うち月に10回以上利用するアプリの数は9個(MMD研究所、2015年調査)。この熾烈な戦いを勝ち抜くためには、「アプリを開いて30秒から1分」の間に「ストレスを感じさせないこと」が重要だという。音楽配信サービスのアプリであれば、再生ボタンを押してから音楽が流れ始めるまでのスピードや、早送り機能の動作へのレスポンスを早くして、使用者がアプリの存在を意識せずに音楽を聴けることが望ましい。使用者がアプリの存在を意識するとしたら、それは「ストレスを感じたということ」になるからだ(『AERA』2016年9月19日号)。
 スマホのアプリに限らず、消費者に無意識のうちに商品を選ばせ、無意識のうちに使わせるために、供給者側はありとあらゆる仕掛けを用意している。潜在意識に影響を与えることでその商品を選びやすくさせるサブリミナル効果を狙った広告や、買い物をした後には注意力が散漫になり判断力が鈍るため追加購入しやすいという消費者のテンション・リダクション効果を利用した追加注文の誘導など、例を挙げていけばキリがないほど、私たちの無意識は徹底的に利用されている。
 マクドナルドですぐに店を出る羽目になったのは、多分椅子が硬かったからだ。あるいは、暖房の効きが悪く寒かったからだ。多くのファストフード店は、椅子を硬くしたり、暖房の効きを悪くしたりして、お客を長居させないように仕向けることで、お客の回転率を上げている。「長居しないでください」とお客の意識に訴えかけるのではなく、ほんの少し居心地を悪くすることで、お客の無意識に訴えかける。私たちは無意識のうちに、短時間で店を出て行くよう判断/行動させられているのだ。
 このように私たちは、無意識のうちにものを選び、使い、判断し、行動するよう日々仕向けられている。私たちはいま、そのような「無意識化する社会」に生きている。

 

 ところで、この「無意識化する社会」において私たちは、一体何に対して「無意識」になっているのだろうか。無意識のうちに何かしているということは、本来意識的にされてしかるべき何らかが意識されずにされているということである。その「何らか」とは何なのだろう。私たちが何かを選んだり使ったり判断したり行動したりするときに意識されてしかるべき「何らか」とは何か。この問いを探るために、ここでしばし「自由」について考えてみたいと思う。
 カントによれば、自由には「根底的自由」と「実践的自由」の二つがあるという。「根底的自由」とは、本来人間が有する(悪をも遂行し得る)選択可能性であり、その中で行われる決定は、合理的な根拠を持たず飛躍を伴うものである。一方「実践的自由」とは、(法律や道徳、健康的理由など)合理的な根拠に基づいてなされた決定を遂行するうえで、その決定を障害なく遂行し得る状態をいう。選択肢のひとつが独占的に自由な状態であり、これは他の選択可能性を持たないという意味で、根底的には自由の非自由化であるが、実践的には自由の獲得であると言える。私たち人間は本来根底的自由を有するが、それを非自由化/習慣化することにより、実践的自由を獲得し、日々滞りなく生活することができている。
 このことを「社会」というスケールの中で考えてみると、社会が根底的自由を非自由化/習慣化して実践的自由を獲得するために、つまり日々滞りなく社会が運営されていくために、古来私たちは教育や法律という手段を用いてきたと言うことができよう。教育や法律は人々の意識に働きかけ、人間が本来有する根底的自由を非自由化/習慣化し、社会にとって望ましい実践的自由を人々に獲得させるものである。ベンサムやフーコーのいう近代の「規律訓練型」社会も、人々の意識に働きかけ行動を律するという意味においては、教育や法律と同様の力を利用した社会設計である。人に「見られている」という意識をもたせるパノプティコン型の空間を設計することで、人々が自身の行動を律する(非自由化/習慣化する)よう促す。このような社会では、非自由化/習慣化すべきものが何なのかということが明示され、人々は意識的にそれを行う。そのため、校則や法律といった明文化された形で規制がかけられなくとも、人々は「規制」されていることを意識するし、規制に伴って「(根底的)自由が抑圧」されているという感覚をもつことになる。
 ところが、冒頭に述べたような現代の「無意識化する社会」ではどうか。「無意識化する社会」では、人々は「規制」されているという意識をもたない。だから必然的に「自由が抑圧」されているという感覚ももたない。マクドナルドの例を思い出してみよう。「長時間のご利用はご遠慮ください」と明文化はされていないため(もしかしたらされている店もあるかもしれないが)、人々は長居を禁止/規制されているという意識はもたない。にもかかわらず、空調や椅子の具合のせいで、私たちは長居はしない。マクドナルドは、「規制」をせず、ゆえに「(根源的)自由を抑圧」せず、でも結果的には彼らの都合のいいように人々の行動をコントロールしている。このような禁止型ではない誘導型の空間設計を、東浩紀は「環境管理型」と呼んでいる。また、この誘導型の設計を空間ではなく制度に利用したものを、政治学や経済学の分野では「リバタリアン・パターナリズム」と呼んでいる。
 さて、教育や法律、あるいは規律訓練型の社会では意識的であり、環境管理型/リバタリアン・パターナリズムといった誘導型の社会では無意識的であったものは、何だったか。それは、根底的自由の非自由化/習慣化のプロセスである。前者では、何を非自由化/習慣化すべきかということが明示され、人々に意識されているのに対し、後者では、それが明示されず、ゆえに人々に意識されない。根底的自由を非自由化/習慣化するという意識的なプロセスを抜きにして、実践的自由が無意識のうちに与えられているということである。つまり現代は、根底的自由の非自由化/習慣化および実践的自由の獲得が「無意識化する社会」なのだと言うことができよう。これはどういうことか。
 根底的自由の非自由化/習慣化および実践的自由の獲得が「無意識化する社会」では、まず、「自由」という概念自体がもはやその価値を失っていくだろう。歴史上「自由」という概念は、それを獲得するために社会主義を掲げる大国を崩壊させたり、あるいはまた、それを追放するために一国を狂気染みたファシズムに傾倒させたり、ある意味人類の生命を賭すに値するほどの価値を有するものだった。だが、そのような「自由」という概念がもつ価値の根幹部分が、いまや無意識のうちに骨抜きにされようとしている。自由は、獲得するものでもなく、追放するものでもなく、無意識のうちに奪われ与えられるものに成り下がっている。
 そしてまた、根底的自由の非自由化/習慣化および実践的自由の獲得が「無意識化する社会」では、人々の間に何を習慣化/非自由化すべきかという意識が育たないため、当然その判断力も育たない。人々は次第に、物事を批判的あるいは批評的に見る能力を失っていくだろう(近年声高に叫ばれる批評の危機の原因の一端は、ここにあるのではないかと思う)。そして何より怖いのは、新しい局面に遭遇した際に自力で対処する力を失っていくことだろうと思う。

文字数:4091

課題提出者一覧