つまみ食いの時代に
オマール海老とオシェトラキャヴィア 根セロリのバヴァロアと胡桃風味のソース
フォアグラ パッションフルーツのジュレにのせたジロル茸と蕪のマリネ
オリジナルブイヤベース フヌイユコンフィとルイユ添え
秋の味覚 マロンとさつまいもの温製ヴルーテ
特選和牛フィレ肉 オリーブソースと薫香ナスのオニオンファルシ バスク名産チョリソー飾り
幼鴨のロースト 無花果の赤ワインマリネとセップ茸のグリエ
チョコレート アラグアニ 三種のテクスチャーと甘草風味のアイスクリーム
これは、都内の某高級フレンチレストランのコースメニューである。フレンチを食べ慣れている人にとっては或いはそうではないのかもしれないが、私にはこのメニューの一品目からデザートまで、ひとつとして正確にイメージできるものがない。知らない単語が多すぎる。そして長い。
知らない単語に彩られた長文料理名の連打。この店に限らず、また高級フレンチに限らず、こういうメニューに最近よく出くわす。先日も友人とイタリアンレストランに行き、メニューを開いて困った。日本語で書かれている。でも全然分からないのだ。コース料理であれば自動的に出てくるので分からなくても困らないが、アラカルトの場合は自分たちで選ばなければならないので困る。結局店の人を質問攻めにしてしまい、注文にえらく時間がかかった。申し訳ない気もしたが、仕方がない。むしろ、お客を申し訳ない気持ちにさせるような意味不明なメニューを突き付けてくるレストランに、腹が立った。
読んで分からないメニュー。その目的は何なのだろうか。店員とお客の会話を増やすサービスの一環だろうか。そうではないだろう。これは多分、高級感/特別感の演出が目的なのだ。日常用語では把握できない高級なものを食べに来ているという、メニューを開いたときの眩惑感。ありきたりの名で容易に掌握されることを拒む、「じゅげむ」的特別感。修飾語が増えすぎて、想像が追いつかないほどの、長い名前。高級感/特別感演出のための、敢えての長名なのだ。しかし、やはり迷惑だ。
時代は「長名」流行りである。料理名と並んでその傾向が顕著なのが、本のタイトルだ。試しに紀伊國屋書店の直近のベストセラーランキングを覗いてみると、やはり、長いタイトルの本がずらりと並んでいる。
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これらのタイトルを見て、おや、と思った方も多いだろう。確かに名前は長いが、レストランのメニューとは違い、よく分かる。必要以上によく分かる。タイトルを見ただけで中身を読まなくとも、何が書かれているか大体のところが分かるほどに、明瞭だ。
本に関しては、2010年前後から、長いタイトルのものがやたらと目に付くようになった。2010年〜2011年にかけてベストセラーとなった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を筆頭に、2014年〜2015年のベストセラー『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』、2015年のベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない パリで学んだ“暮らしの質”を高める秘訣』などがその代表例であろう。どれもタイトルを見れば何が書かれているのかがはっきりと分かり、目次を見れば具体的な内容/結論まで分かる。
タイトルと目次で内容が把握できてしまうなら、もう本文を読む必要はないかと思いそうなものだが、実際にはベストセラーとなっているわけで、つまり、多くの人が(読むつもりで)買っているのだ。これは一体どういうことなのだろう。
「名」とは、『大辞林』の定義によれば、「人が認識した事物に、他の事物と区別するために言葉で言い表した呼称」「同じ性質を有する一定範囲の事物をひとまとめにした呼称」のことである。この定義に則して考えてみると、上に挙げた本の長いタイトル群は、「他の事物と区別する」役割は果たしているが、「同じ性質を有する一定範囲の事物をひとまとめに」はしていない。それらは、同じ性質を有するものなど他に存在しないと自己を強烈に主張し、非常に排他的に振舞っているように見える。長いタイトルがもつ排他性は、1960年代のベストセラー本のタイトル--例えば『頭のよくなる本』『記憶術』『日本の会社』『危ない会社』など--と比較してみると、より明確になるだろう。60年代に売れたこれらの本のタイトルは、「他の事物と区別する」役割を果たしつつ、「同じ性質を有する一定範囲の事物をひとまとめに」もしている。つまり「名」として機能している。一方で、2010年頃から現れた長名のタイトルは、「名」として機能していない。他とは違う己の独自性を細かく表現し過ぎるがゆえ、名が長くなる。「君の名は」と訊かれて、「じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなのちょうきゅうめいのちょうすけ」と答えていたのでは、話が進まない。「名」は短くなければならない。
では、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』や『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』が「名」でないのなら、何なのか。これらは「名」ではなく、「要約」だと言える。「名」と「要約」の違いは何か。「要約」は「名」に比べ、自己の範囲をうんと狭く規定する。どのように自己の範囲を狭くしているかといえば、「名」を多用することによってである。例えば『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』であれば、①「学年ビリ」の人、②「ギャル」の人、③大学受験の勉強年数が「1年」の人、④「偏差値40アップ」を達成した人、⑤「慶應大学」に合格した人、⑥「現役合格」した人と、各「名」が指し示す集合の共通部分が1人になるまで「名」を重ねていっているのだ。「学年ビリ」「ギャル」「1年」「現役合格」の4つでは、集合の共通部分には複数名該当者が存在するだろうし、「ギャル」「1年」「慶應大学」「現役合格」の4つでも、やはりそうだろう。しかし、「学年ビリ」「ギャル」「1年」「偏差値40アップ」「慶應大学」「現役合格」の6つが重なると、共通部分に含まれるのは、さやかちゃん唯一人になる。このように、「要約」的な長いタイトルは、「名」を重ねることによって自己の範囲を狭く規定し、独自性を際立たせているのである。
なぜ本のタイトルが、自己の範囲を狭く規定せねばならないのか。独自性を殊更にアピールしなければならないのか。それには、「情報」というものの在り方が大いに関係しているように思う。インターネットが普及する以前は、情報とは、能動的に「集める」ものであった。人々は本屋へ出かけ、本を探して情報を集めた。本を売る側としては、できる限り多くの人のアンテナに引っかかってほしいため、大雑把なタイトルをつける。『記憶術』というタイトルであれば、歴史の暗記に必死の受験生にも、人の名前を覚えるのに必死な会社員にも、物忘れが多くなった年配の人たちにも、手にとってもらえる。これがもし、『1万人の顔と名前を覚えたコンシェルジュが教える お客様がまた来たくなる極上のサービス』というタイトルだったら、サービス業に従事する会社員にしか手にとってもらえないだろう。しかし、インターネットが普及し、状況は変わった。情報は能動的に「集める」ものから、受動的に「流れてくる」ものになった。一般的な情報は、インターネット上にいくらでも流れており、スマホやパソコンで必要に応じていつでも取り込むことができる。回転寿司よろしく、流れてきたものをひょいっと摘めばよい。情報は「つまみ食い」できる時代になったのだ。もはや普通の情報を仕入れるのに本は必要ない。となれば、本に求められるのは、インターネット上では手に入らない特異な情報である。そう、『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』のような。情報の特異さを示すため、それゆえの長いタイトルなのである。
情報を「つまみ食い」できる時代に、情報の特異性を示すため長くなった本のタイトルだが、それゆえ本の内容把握は容易になった。結果、本の中身を読まずとも、本のタイトルから情報を入手できるようになった。するとどうなるか。本も「つまみ食い」されるようになる。一般的な情報をインターネットで「つまみ食い」し、特異な情報を本で「つまみ食い」するのだ。
ところで、長いタイトルの本で流行るものは、「もしドラ」「ビリギャル」のように、必ずタイトルが省略される。流行とは、流れ行くものなので、短く軽く、ポータブルでなければならない。長名のタイトルはポータブルではないので、略名が必要だ。「もしドラ」「ビリギャル」のように短い「名」をもつことができると、容易に運ぶことができ、流行する。長いタイトルの本が短い「名」をもち流行すると、どうなるか。「つまみ食い」がますます横行する。つまり世の中は、「つまみ食い」一色になるわけだ。
ここで再び冒頭のフランス料理のメニューを眺めてみたいと思う。私は先程から、メニューを繰り返し読み上げてみているのだが、どうも以前と印象が異なる。相変わらず意味不明なのだが、嫌な感じがしない。そんなに迷惑でもないし、腹も立たない。なぜだろう。
意味を狭めるはずの名の重なりは、意味不明な名が頻発するせいで、意味の拡散に貢献している。並列的に対等に重なる単語群は、省略を拒んでいる。省略もできず、意味も分からず、こちらとしては、つっかえつっかえ、ゆっくりと、すべてを読み上げるしかない。なんという不親切さ、生意気さ、大仰さ。「つまみ食い」が横行するこの時代に、「つまみ食い」を拒絶するこの強情さ。上等じゃないか! 単なるレストランのメニューが、時代に抗うほどのポテンシャルを備えていたとは!
レストランのメニューという限られた選択肢の中でくらい、よく分からぬものと格闘してみるのもよいではないかと思ったのだ。想像力だけを頼りに、敢えて店員に何も尋ねず、意味不明な料理を注文してみるというのも案外楽しいかもしれない、と。
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