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道化の居場所

 

ナヴァホ族の「夜の讃歌」の道化は、儀礼の正式の踊り手に加わるのだが踊り方は目茶目茶で型にはまっていない。途中から踊りに割って入るのだが、ステップを合わすことができず、おずおずと踊り、地面に坐り込んだり、阿呆らしい顔つきをして並いる人々の顔をのぞき込んでぶらぶらと歩き廻る。そして他の踊り手たちが去ってしまっても彼は独りで踊りつづける。そしてしばらくたってから気づいてあわてて後を追う。(山口昌男『道化の民俗学』p.337)

 

 器用にステップを踏んで生きること。時流に乗り遅れず行動すること。すばやく、アップデート、すばやく、アップデート、すばやく、アップデート。この加速しつづける時代に、ぽつんと取り残され、ひとり外れたステップを踏む道化は、どこにいる。

 

1. 音楽と言葉が出遭うところに

 音楽と言葉が出遭うところに、「詩」がある。詩の本質は歌であるとは、よく言われることだ。中村光夫は『小説入門』の中で、「歌は言葉であるとともに言葉以前の肉声--または叫び声--で」あり、「僕等の感動のもっとも直接な表現で」あって、「詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、そのために言語をその日常性社会性からできるだけ解放することを目指」しているのだと述べる。この肉声/叫び声が詩の形をもって世界に出現するとは、どういうことか。それは真実を世界に突きつけることなのだと言ったのは、吉本隆明である。

ぼくが真実を口にすると
ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて
ぼくは廃人であるさうだ

 吉本隆明の詩「廃人の歌」の余りにも有名な一節である。真実を口にすると世界が凍るという実感は、おそらく誰もがもっている。老若男女かかわりなく。「王さま、はだかだよ」と言った子どもがその場の空気を凍らせたことくらいは、この童話の対象読者である幼稚園児にだって分かる。子どもがおそろしいのは、真実を口にすると世界が凍るということを知らないからではなく、知っていてなお口にするからである。たいていの大人は、子どもの時分にもちあわせていたこの勇敢さを失い--教育雑誌の記者に向かって、「日本の道徳は差別の道徳である」という事実を事実として子どもたちに伝えよ、と喝破した山本七平のような人物を除いて--世界が凍ってしまったときの気まずさに堪え兼ねて、世界が凍らないような言葉で身辺を固め生きている。対して、詩人の優れたところは、ひとつには、大人になっても子どもの勇敢さ/正直さを失うまいとしている点であろう。吉本は、先に引用した詩の一節を以て、『詩とはなにか』の中で次のように述べている。

すくなくとも、『転位のための十篇』以後の詩作を支配したのは、この妄想である。わたしがほんとのことを口にしたら、かれの貌も社会の道徳もどんな政治イデオロギイもその瞬間に凍った表情にかわり、とたんに社会は対立や差別のないある単色の壁に変身するにちがいない。詩は必要だ、詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。(p.9-10)

 吉本の言うように、詩は真実を公言するが、日常世界で真実を口にするのとは違い、それで世界が凍ることはない。詩には世界を動かすほどの力がないからだ。実際に世界を動かす力をもつのは、吉本が或いは詩が抵抗するところの「慣習的な精神」であり、「素直で健全な精神」である。詩が露にする真実の言葉に対し、「慣習的な精神」並びに「素直で健全な精神」が持ち出すのは、慣習化された言葉である。紋切型の言葉と言ってもよい。詩的言語に「耳なれぬ語」と名付けたヤコブソンの表現を借りれば、それは「耳なれた語」とも言えよう。或いはムカジョフスキーの表現によるならば、それは「標準化された言語」である。「慣習化された言葉」「紋切型の言葉」「耳なれた語」「標準化された言語」--どのような表現でもよいのだが、世間に君臨するのはこれらの言葉であり、詩的言語は常に敵役にまわる。
 詩的言語は、世間の敵役である。しかも、実際に世界を凍らせるほどの力はない。しかし、無力というわけでもない。主役だけでは世の中は上手く進行しないし、敵役は主役に活力を与えさえもするのだ。
 以上に述べたような、世界を凍らせる言葉を放つ勇敢さや正直さ、敵役的な「詩」の性質は、「道化」の特徴と合致している。道化とは、自らを、主人公に対する敵役に、善玉に対する悪玉に、勝者に対する敗者に、日常に対する非日常に、秩序に対する反秩序に、その存在を貶めることによって、発言の自由を獲得する者である。「道化の性格は、そのあらゆる側面において、「反主人公」という概念のうえに成り立って」おり、この「反主人公」的性格の道化は、「この不完全な世界に高度の活性を賦与するために、日常世界を構成するカテゴリーを侵犯し顚倒」させるものとして必要なのだ(山口昌男『道化の民俗学』p.330, 369)。この反主人公的道化の担う役割は、まさに、日常世界/世間の敵役を担う「詩」の振る舞いと同じである。
 詩は、道化的であるがゆえに、真実を口にできる。それは、もし日常の中で口にされたら、世界を凍らせるような真実なのである。

道化が保持する伝統は、社会が捨てさったり、忘却の彼方に押しやろうとするものの集積なのであると言う。そのようにして道化はノーマルな因果の連鎖や、身振りコミュニケーションの体系からこぼれおちた行為をつなぎとめておく媒体である。(山口昌男『道化の民俗学』p.372)

 

 音楽と言葉の出遭うところに、詩があって、そこには道化が潜んでいる。世界の片隅で踏み鳴らされる真実の、耳なれぬ歌を、決して聴き洩らさないように。

 

2. 音楽と言葉が沈黙するところに

 音楽と言葉は、「沈黙」においても出遭う。音楽は、音楽が演奏されて/書かれてはじめて、音楽としてこの世界に存在し、言葉は、言葉が発せられて/書かれてはじめて、言葉としてこの世界に存在する。であるならば、「沈黙」は、音楽でも言葉でもないはずだ。にもかかわらず、この世界には、「沈黙」が作品として存在している。ジョン・ケージの『4分33秒』である。
『4分33秒』は、演奏者が演奏しないことによって、私たちの身の回りに遍在する音に聴衆の意識を向けさせるという、聴衆の意識の転換を目的としていると、一般的に言われる。しかし、佐々木敦は『「4分33秒」論』において、もしそのことだけが目的であるならば、そもそもこの作品をつくる必要はなく、ただ「耳を澄ましなさい」と言えばよかったのではないかと、疑義を呈する。この作品があくまで『4分33秒』という曲として発表されたことには、何らか別の意義があるはずであり、佐々木はそれを「純粋なタイムマシン」という表現で指摘する。『4分33秒』という曲は、演奏されないがゆえに、4分33秒という純粋な時間の経過を我々に体験させる。時間芸術の純粋性を極限において提示した作品だと言うのである。
 ところで、ただ4分33秒という時間が流れるという無為を体験する『4分33秒』の衝撃は、聴衆のみならず、演奏者にも襲ってくるはずだ。しかもその衝撃は、実は、聴衆よりも演奏者にとっての方が大きいのではないだろうか。なぜなら、演奏者が演奏しないというのは、屈辱的な行為だからだ。金銭さえ支払えば、聴衆になることは誰にでもできるのに対し、金銭を受け取るステージ上の演奏者になれるのは、高度な技術と卓越した才能をもち合わせた極少数の限られた者たちだけである。その演奏者が演奏しない作品とは、どういうことか。それは詰まるところ、演奏者の演奏者としての存在意義が完全に剥奪され、演奏者の地位が極限にまで貶められた、ステージに立つのがド素人でも成立してしまう作品ということである。4分33秒の間、そこに居さえすればよいのだから。演奏者は、演奏しないがために、聴衆から無能なド素人なのではとの疑いの眼を向けられる可能性がある、ということだ。
 演奏者は、自身の「演奏しない」という行為について、弁明も釈明もしない。ただ、社会的アイデンティティを剥ぎ取られた状態で、その姿を晒すのだ。「沈黙」する『4分33秒』の演奏者は、「道化」である。自らを貶め「道化」となることで、日常世界に揺さぶりをかけるのだ。ただし、詩人のように真実を口にしてそうするのではない。沈黙して、私たちが声高に主張する物事によって掻き消されていた音や言葉を、私たちの忙しない往来に掻き消されていた時間の流れを、露にするのである。

道化は現実の部族集団の生活の真只中に、この社会が退けて来た行為や、その成員が抑圧しがちである意識を物質的実在性(肉体)によって導入する(山口昌男『道化の民俗学』p.372)

 自らの肉体をステージに晒して沈黙する演奏者は、まさにこの意味で「道化」である。演奏者は彼の特権であるところの演奏を行わず、自らの地位を貶め「道化」となることによってはじめて、この世界の真の有り様を、切実さをもって露にすることができるのだ。

 

クロウ・インディアンの道化をはじめとして、さまざまなインディアンの道化が演ずる、演技行為におけるズレ、すなわち、他人が踊りをやめても気づかないで踊りつづける、いわばすべての人間が同じ時間の座標軸で動く世界の否定は、神楽の道化にも見られ、戦争の終ったことも知らず何年もの間一人で静かに塹壕にとどまりつづけるローレル、北軍のスパイを機関車で追跡しているうちに、南軍が総退却した結果、南軍地域だと思った地点が北軍占領区域に一変したことも知らず、機関車の缶焚きに熱中する南軍の機関士キートン、これらはすべてさまざまな時間性を導入することによって、「自然法則というものが是が非でも犯されねばならぬような宇宙にわれわれを連れこむ」のだ。(山口昌男『道化の民俗学』p.369)

 

 音楽と言葉の沈黙するところに、道化はひっそりと坐っている。私たちは足踏みを止め、世界の脈動を聴く。調子外れだったのは、もしや私たちの方か? いやいや、いや。時計の針がいくらか進んだのを見て、夥しい数の滑稽なピエロが、一斉に立ち上がる。ひとりかふたり、取り残されたものがいて、しばらく経ってから、彼らは慌てたフリをして去る。

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