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「きわめて強い」なにか

言葉は事実を過不足なく正確に描写する写実の手段ではない。それは常に対象を〈過少〉にあるいは〈過剰〉に「語って(騙って?)」しまう気まぐれな変形装置なのである。だとすれば、〈真〉とはもっぱら〈実〉の側に就くものではなく、むしろ〈実〉と〈虚〉との間に存するものと言うべきではないのか。その意味で、ホモ・ロクエンスすなわち「言葉を語る動物」とは、人間が「虚実皮膜のあいだ」を生きる存在であることを示唆する呼称にほかならないのである。(野家啓一『物語の哲学』)

 

夫婦愛について

子どもが何人いようと、兄弟が何人いようと、母の子どもに対する愛情は、あるいは兄弟間の愛情は、(基本的に)すべて平等に抱かれるという意味において、母性愛や兄弟愛における愛の対象はひとりに限定されない。それに対し、夫婦間では(制度上一夫一妻制をとろうが多夫多妻制をとろうが関係なく)、複数の相手を平等に愛するということはできそうにない。夫婦愛の根底には、特別な他者との結合欲求があるからして、夫婦愛は必然的に排他の方向へ向かう。この「排他性」は、母性愛や兄弟愛と比して分かる、夫婦愛の特質のひとつである。

夫婦愛と母性愛・兄弟愛とのもうひとつの相違点は、愛の継続に「意志」が必要か否か、という点である。母子間あるいは兄弟間における愛情は、選択(意志の介在)の余地のない、完全なる偶然の関係の発生から生まれる。一方、夫婦間における愛情は、たとえどんなに出会いの運命性を主張したとしても、それは選択(意志の介在)の余地のある関係から生まれたものである。この関係発生時の選択(意志の介在)の余地の有無が、愛の継続に「意志」が必要か否かの違いを生む。母が子を愛しつづけるのは、あるいは兄弟同士が愛しつづけるのは、意志によってではない。一方、夫婦愛の継続は意志によって実践される(面が多分にある)。お互いが継続の意志をもってつくり上げていく関係という意味で、夫婦愛は意志の力学的構造物と言ってもよいだろう。

 

『老雄大いに語る』の夫婦愛について

藤子・F・不二雄の短編作品『老雄大いに語る』に登場するのは、夫の発言を遮って自分の考えばかりを主張する妻と、妻の気迫と強引さに気圧されて、いつも一言以上の発言ができずにいる夫である。この夫は、妻に対して発言する機会を得たいがために、自らの権力を行使して、宇宙船に搭乗する。冥王星着陸後に地球へメッセージを発信する際、無言の妻の映像に向かって語りかけることで、途中で遮られることなく妻に対して発言できる機会を得ようというのである。

夫婦間のメッセージを、公共の放送で、しかも宇宙から送るという、この異常さは何だろう。夫にとっては、冥王星への初着陸という英雄的行為よりも、自分の妻に対する発言の機会を得ることの方が重要視されているようだ。プライベートな会話のために宇宙飛行を利用するという、桁違いにスケールの大きな演出は、彼にとって夫婦関係がいかに重要かということを表している。もし夫にとって妻が大して重要な存在でないならば、何か不満があったところで、ここまでの行動には出ないだろう。

そして、冥王星着陸後に地球へ向けて発信する第一声というのは本来公的発言であるべきところを、平然と妻のみに宛てて語りかけようとするこの夫の態度から分かるのは、妻に対する愛情が「きわめて排他的」だということである。「きわめて排他的」という意味において、この夫婦は「きわめて強い愛情によって結ばれている」と言うことができそうである。

 

ところで、言うまでもないことだが、いまわれわれは、虚構の世界で描かれる夫婦愛について言及している。現実に存在する、ある夫婦について語っているわけではない。夫婦愛などわれわれが現実の世界で嫌というほど直面している諸々の問題について、わざわざ虚構世界の中で語ろうとするのはなぜなのか。われわれが虚構の世界を必要とし、物語を生み出すのは、自分の現実や他人の現実を追体験するためではない。現実というカオスのある側面の究極状態を描き出すことで、その側面の本質的なものが何なのかを見極めるためである。

であるからして、われわれが虚構の世界に見出すものの性質は、それが何であれ、「きわめて強い」はずである。『老雄大いに語る』のように、夫婦愛が主題の物語であるなら、そこに「きわめて強い」愛情の存在を読み取るのは、それゆえ必然であると言える。

しかし、虚構の世界で浮かび上がってくる「きわめて強い」何かが、常に必然的なものなのかと問われれば、必ずしもそうではない。つまり、虚構の世界で「きわめて強い」何かを描き出そうとする作者の意志を超えて、作中人物の中から「きわめて強い」何かが立ち現れてくることがあるのだ。藤子・F・不二雄の短編作品『コロリころげた木の根っこ』は、そのような作品として読むことができるのではないか。

 

『コロリころげた木の根っこ』の夫婦愛について

『コロリころげた木の根っこ』に登場するのは、暴君ぶり甚だしい作家の夫と、一見夫にされるがままになっている妻である。ストーリーの冒頭からラストの手前までは、ひたすらDVの世界が描写される。そして最後に、実は妻が夫殺害の罠を家中にしかけていたということが暗示されて終わる。この二人の関係を「強い愛情」という言葉で表現することは、一見不可能のように思われる。

さて、ここで、ひとつの想定をしてみる。妻の夫殺害計画に、夫自身が気づいていたとしたらどうだろうか。実はこの想定は大いにあり得るものだ。作中で、夫が書き始める話のタイトルが「コロリころげた木の根っこ」であり、この短編作品のタイトルも「コロリころげた木の根っこ」であるので、われわれが読んでいたのは、実は作中作の「コロリころげた木の根っこ」であったと解釈することができる。つまり、このストーリー全体は、作中の夫が書いていたのである。そうだとすると、作中の夫は、作中の妻に対して、作中作の「コロリころげた木の根っこ」を書くことによって、夫殺害計画に気づいているということを示していることになる。

夫殺害計画に夫自身が気づいているとすると、夫婦二人の関係はどのようなものとして捉え直されるだろうか。夫は暴力で妻を押さえつける。それに対し、妻は夫殺害の罠を仕掛けることで抵抗する。その罠に気づいている夫は、それを作品化する。そして夫は、妻が自分を殺害する罠を仕掛けているという作中の現実を作品化(虚構化)することによって、殺害の罠を、虚構の世界における二人の愛の演出小道具にすることができた。どういうことか。夫は、妻に殺害計画を立てさせるために、暴君として振る舞い、妻は従順を装って実は殺害計画を立て、夫は意識的に気づかないふりをして暴君で居続ける。妻は、夫が気づかないふりをしていることを知らないふりをして、夫殺害計画を進める。この循環を維持しつづけるには、二人が意識的に協力しつづける必要があり、このようにして作中の夫婦は、協力し合って作中作である虚構世界をつくり上げている。つまり、作中の夫婦の協力の成果が形となって現れたのが、われわれが読んでいる作中作「コロリころげた木の根っこ」であり、この作品は、作中の夫婦が、愛を継続させるという「強い意志」に基づいて協働でつくった虚構世界なのだと言える。

さて、ここに見出せる「きわめて強い」意志にもとづく「きわめて強い」愛情は、作者である藤子・F不二雄の意志が生み出す虚構の世界ゆえの必然なのだろうか。そうではないだろう。通常、作品は虚構世界であっても、作品を生み出した作者の意志は虚構世界に回収されずに現実にとどまるように、作中作の作品そのものは、虚構の世界に回収されるけれども、虚構の世界をつくり上げようという作中の夫婦の意志は、虚構の世界に回収されずに、作中の現実(〈実〉と〈虚〉の間)にとどまる。『コロリころげた木の根っこ』は、作中の夫婦が作中作をつくりあげるという構造をもつことで、物語の作者である藤子・F・不二雄の意志を超えて、作中の夫婦の意志が立ち現れてくることになるのだ。よって、『コロリころげた木の根っこ』には、作者の意志が生み出す虚構ゆえの必然的な「きわめて強い」何かではない、作中人物自身の「きわめて強い」意志にもとづく「きわめて強い」愛情を見出すことができると言えるだろう。

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