完全幸福マニュアル--100点満点の『すばらしい新世界』
はじめに
ここには、幸福になる方法だけが細かく細かく書かれている。よくありがちな、人生経験豊かな著名人の自分語りでもなければ、哲学者があーだこーだと理屈を捏ねたものでもない。私は著名人でもなければ哲学者でもないので、当然だ。
「幸福とは何か?」なんて、それこそプラトン、アリストテレスがいたずーっと昔から、何回も何回も何回も何回も問われてきた。たとえば古代ギリシャのヘレニズム期には、幸福とは瞬間的な肉体的快楽だと主張したキュレネ派がいた。それに対し、エピクロス派は、幸福とは持続的な精神的快楽だと批判した。ずっと後の時代になって、エピクロス派の精神をイギリス人が復活させた。幸福とは快(pleasure)であり、不幸とは苦痛(pain)であると言ったジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルがそうだ。彼らに強く影響を受けたエッジワースというこれまたイギリス人は、快楽計なるものを考案した。一方で、快楽とは一線を画すという態度で幸福を論じる人も、たくさんいる。アリストテレスは、徳と理性に即した自足的な観照活動こそが究極の幸福だってことを、分厚い本一冊を費やしてタラタラタラタラと書いている。あとはキリスト教精神に則った幸福観について書かれたもの(ヒルティなんかがそう)があったり、幸福になるためにはこうしたらいいっていう処方箋的なもの(ラッセルなど)があったりする。日本人だと、武者小路実篤が「幸福について」で、何十もの幸福の条件を挙げている。他にも、とにかく無数の幸福論がある。みんな幸福に関しては一家言ある、というわけだ。
だけど結局、「幸福とは何か?」という問いに答えが出たかと言えば、まったく出ていない。
というのは、ちょっと前までの話。今は「幸福とは何か?」という問いに、万国共通の答えがある。一応そう言い切ってみる。いや、実際そうなんだ。心理学や脳科学や経済学なんかが、膨大な実証研究をやって、「こーであーでこーであーだと、あなたは幸福です」という答えを出した。一言で言えば、幸福を指標化した。
だから、今の世の中で、幸福になるのは簡単だ。だって、指標の項目ひとつひとつの点数を上げていけばいいんだから。
と言ったところで、さっそく幸福になる方法の紹介をはじめたいところなんだけど、とりあえず、なんで今「幸福」なのか? っていうことを明らかにするために、またその他もろもろの理由で、一応もう少しゴタクを並べなきゃいけない。
Gross National Happiness(GNH:国民総幸福)
2011年11月、ブータン王国国王王妃両陛下の訪日をきっかけに、日本で“幸福ブーム”っていうのが起こった。ブータンがGNP(国民総生産)に代わる国の目標としてGNH(国民総幸福)を掲げていることが話題になった。実のところ、ブータンは1972年からGNHを掲げていたのだけど、今までは特に話題にならなかった。1970年頃と言えば、一番幸福と縁の深そうな心理学の分野でさえ、幸福の研究は異端視されていたような時代だ。世界がブータンに注目するはずもない。心理学で幸福の研究が堂々とできるようになったのは、1990年くらいからで、心理学の垣根をこえて爆発的に幸福の研究がされるようになったのが2000年頃、各国政府や国際機関が「コーフクコーフク」と連呼しはじめたのが2008年くらい。その流れでブータンが注目されるようになり、世間で“幸福ブーム”が発生した、というわけだ。
インターネットで調べればすぐに分かるけど、「幸福」っていう言葉がタイトルに入った本の刊行数が、2012年に急増している。2013年1月には、お正月早々、NHKが幸福をテーマに特集番組を大々的に組んだ。まさに世の中には幸福って言葉があふれていた。
日本の内閣も、世間一般にブームが来る少し前から、幸福度の向上を国の目標として掲げるようになった。鳩山内閣、菅内閣のころだ。でもその後の安倍さんは、ケンポーキュージョーとやらで頭がいっぱいで、「幸福」なんて言わなくなった。それから少し「幸福」は下火になった。
でも、下火になったのは、あくまで日本に限った一時的な現象。世界全体では、図太い“幸福ブーム”がずーっと続いている。だから、何かをきっかけに、日本でもまた“幸福ブーム”が起こる。
そう。世界は基本的に「幸福万歳」の風潮なんだ。
Global Index of Happiness(幸福の国際的指標)
2012年に国連のプロジェクトチームがWorld Happiness Reportを刊行した。
その報告書で、世界中の国々の幸福度ランキングが発表された。日本は43位で、経済大国のくせに幸福度がやたら低いってことで話題になった。以来年に一度のペースでランキングが発表されているけれど、日本の順位は低いままだ。だけど悲観する必要はない。どうやって測定するかっていうのが分かっているんだから、どうやれば高得点が出るかも明らかだ。所詮、出題内容が事前に告知された期末テストのようなものだ。
2013年には、OECDが幸福度測定に関するガイドラインをまとめた。これまでいろんなところで使われてきた主要な幸福度指標を踏襲してつくられた。一応これで「幸福とはこういうものだから、こういう風に測れますよ」っていう幸福の国際基準ができたわけだ。
幸福度指標の代表的なものと、OECDのガイドラインをまとめてみると、幸福の測定項目は、だいたい次の6つに分類できる。
① ポジティブな感情経験
② 所得と消費による満足
③ 衣食住や教育など基本的人権の充足
④ 仕事・結婚・健康など領域別の満足
⑤ 人間関係や趣味などの生きがい
⑥ 人生の満足
The Perfect Happiness(完全幸福)
上に書いた6項目に、特に意外性はない。これらがすべて満たされてたら、「まあ幸福だよなぁ」って感じだ。本当は、すごく大切な何かが抜け落ちてるような気がするけど、一応世界的には「これが幸福です」っていうことなのだ。もう御上が決めちゃったことだから、私がここで何を言ってもしょうがない。
上の6つはそれぞれ細かい指標に分かれるんだけど、その各指標でことごとく満点を叩き出せば、「完全幸福」達成も夢じゃない。期末テストで全教科満点を取るみたいに簡単に(?)達成できちゃうかもしれない。
ここで本まるごと一冊の分量を書くわけにもいかないので、「完全幸福」達成のマニュアルとはいえ、すごく内容を絞らなきゃいけない。けれども言いたいのは、今の私たちはもう「幸福ってなんだろう」って悶々としなくていいっていうこと。
そう。現代は、幸福をポケットに入れて持ち歩ける時代なんだ。
目次
① ポジティブな感情経験--ソーマの休日
② 所得と消費による満足--手に入らないものは欲しがらない
③ 教育の充足--暗示の言葉
④ 仕事の満足--やらなければならないことを好む
⑤ 人間関係による生きがい--孤独を嫌う
⑥ 人生の満足--満足を与えることに心を砕く
① ポジティブな感情経験--ソーマの休日
かりに不運な偶然から不愉快なことが起きた場合には、“ソーマの休日”が忘れさせてくれる。ソーマは怒りを鎮め、敵と和解させてくれ、忍耐強くしてくれる。昔ならそんなことができるようになるには多大な努力と長年の精神的訓練が必要だった。それが今では半グラムの錠剤を二、三錠呑むだけでいい。誰でも円満な人格が持てる。ひとりの人間が持つモラルの少なくとも半分は壜ひとつで持ち運びできるんだ。苦労なしで身につくキリスト教精神--それがソーマだ (オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.342)
日々ネガティブな感情ばかりを抱えている人が、最高に幸せということはまずない。「つらい、つまんない、ムカつく、悲しい、寂しい、不安だ、死にたい……ああ、なんて僕は幸せなんだ!」と言う人はまずいない。
常識的に、幸福はなんらかのポジティブな感情と結びついている。ポジティブな感情には、楽しい、嬉しい、エネルギーに満ちている、平和だ、落ち着く、などがある。
実際幸福度は、「あなたは先週どれくらいの時間楽しい気分でいましたか?」「あなたは先週どれくらいの時間リラックスした気分でいましたか?」といった質問に0〜10の11段階評価で答える形で測定される。このような質問がずらーっと並ぶ。つまり、ポジティブな感情についての質問への回答が全部10なら、同時にネガティブな感情についての質問に対する回答がすべて0なら、この項目の幸福度は100点満点になる。
幸福になる方法は明白だ。つらい、つまんない、ムカつく、悲しい、寂しい、不安だ、死にたいと思わず、楽しい、嬉しい、エネルギーに満ちている、平和だ、落ち着くと思えばいい。
どうやってそうするか? やり方はなんでもいい。『すばらしい新世界』でムスタファ・モンドが言うように、「多大な努力と長年の精神的訓練」によってそうしてもいいし、「ソーマ」のようなクスリを飲んでそうしてもいい。100点は100点、同じことだ。少しの違いもない。
だから、クスリで感情をコントロールし幸福度を高めるよう、本気で勧める研究者がいる。冗談じゃなく、そうなんだ。
半グラムで半日休暇をとったような効果、一グラムで週末を愉しんだような効果、二グラムで豪華東洋の旅を満喫したような効果、三グラムで永遠の闇に浮かぶ月世界に遊んできたような効果がある。(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.84-85)
「ソーマ」さえあれば、とりあえず完全幸福達成の第一関門は突破できる。
② 所得と消費による満足--手に入らないものは欲しがらない
われわれの世界は『オセロー』の世界と同じではないからだ。鉄なしで自動車がつくれないように、社会的不安なしに悲劇はつくれないんだ。今の世界は安定している。みんなは幸福だ。欲しいものは手に入る。手に入らないものは欲しがらない。みんなは豊かだ。(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.317)
所得や消費と幸福の関係は、もっとも見解の分かれるテーマだ。所得が高ければ高いほど、生活水準は上がり、幸福度は上昇すると言えそうだけど、データが示すのは必ずしもそうじゃない。日本だと、年収700万円くらいで幸福度は頭打ちになると言われている。理由はいろいろだ。所得や消費以外の要因が幸福度を押し下げているからだとか、上昇した生活水準に人はすぐに慣れてしまって、生活水準の上昇スピードを上回る速さで、満足レベルをどんどん引き上げるからだとか。
いずれにしても、「年収700万くらいが一番幸福度が高いらしいから、みんな年収700万を目指しましょう」という話にはならない。仮に日本国民全員が年収700万になったとして(完全平等の世界!)、全員最高にハッピーになるかと言えば、絶対そうじゃない。あくまで、今の富の分布の中では700万が一番ハッピーのようです、ってこと。今の富の分布の中で、あなたはちょー貧乏ゾーンにいるかもしれないし、ちょー金持ちゾーンにいるかもしれない。どっちにいようと、幸福度を上げられないんじゃ、このマニュアルの意味がない。
さてどうするか。所得は現状のままで「所得や消費による満足度」を上げる方法は、単純だ。「欲しいものは手に入る」「手に入らないものは欲しがらない」状態にすることだ。欲望のコントロール。
コントロールの方法は問われない。坐禅を組んで煩悩を消し去ったっていいし、『すばらしい新世界』のように「条件づけ教育」をしたっていい。
そう。教育。
とにかくなんらかの方法で欲望のコントロールができれば、完全幸福達成の第二関門も突破できる。
③ 教育の充足--暗示の言葉
「“今日愉しめることを明日に延ばすな”」
「それは一四歳から一六歳半まで週二回、二〇〇回ずつ聴かされる」
(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.136)
『すばらしい新世界』では、睡眠教育による条件づけが行われている。「複雑な行動規範を植え付ける」ために、こーしろあーしろ、こー思えあー思えっていうさまざまな文句を、寝ながら何万回と聞く。
「やがて子供の心はこうした暗示の言葉そのものとなり、暗示の言葉の総体が子供の心となる。子供のうちだけではなく、大人になってからもそうで--一生のあいだこれが続く。判断し、欲求し、決意する心--それがこうした暗示の言葉から成り立っている。その暗示はわれわれが刷りこんだのだ!」(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.42)
さて、この睡眠教育は、今私たちが一般に受けている教育と、何か本質的に異なるだろうか? 「睡眠」っていうのがいけない? それとも中身がいけない?
もし寝ながらっていうのがいけないのなら、じゃあ起きてればいいのか? って話になる。起きてるか寝てるかの違いは、程度の違いでしかない。寝ていれば2万回聞けば効果が出るところを、起きていると8万回聞かなきゃ効果が出ない。せいぜいそんなところだ。
聞く回数の問題は別として、教育っていうのは基本的に暗示だし刷り込みだ。「あいさつをしましょう」って小学校6年間毎朝聞かされるのだって、立派な刷り込みに違いない。だけどこれに文句を言う人はあまりいない。
ではやっぱり事の本質は中身にあるのか? だとしたら、その中身は、何ならよくて何だといけないのか? その境界は誰が決める? その境界は不変なのか? 戦時中の日本では、御国のために死ぬのは尊いことだったし、ナチスドイツは現実に存在した。白人と黒人では、学校も公衆トイレもレストランも別々だったし、奴隷だって存在した。何がよくて何がいけないかなんて、確固たるものがあるわけじゃない。時代と場所によって、コロコロ変わる。そんなもんだ。
重要なのは、教育が行われているっていうことだ。その時代にその国で正しいとされた教育が。少なくとも、幸福の指標がチェックしているのは、就学率や識字率だけだ。中身や方法は関係ない。
だとしたら、『すばらしい新世界』では、すばらしく手厚い教育が行われている。第三関門、余裕で突破。
④ 仕事の満足--やらなければならないことを好む
「それこそが」と所長がもったいぶった口調で言う。「幸福な人生を送る秘訣なのだよ--自分がやらなければならないことを好むということが。条件づけの目的はそこにある。逃れられない社会的運命を好きになるよう仕向けることにね」(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.25)
経済学では、労働から得られる賃金は正の効用をもたらすけど、労働そのものは負の効用をもたらすと想定されている。しかし現実にはそうとは限らない。当たり前だけど。仕事の中身にやりがいを感じたり、自分が手にしている権力にクラクラしたり、労働そのものが正の効用をもたらすケースはいくらでもある。
あるいは、暇をもてあますよりは労働してた方がマシっていう形で、労働が正の効用をもたらすこともある。『すばらしい新世界』では、こんな実験が行われた。
すべての下級労働を一日三、四時間にするのは、技術的には簡単なことだ。しかしそれで彼らがより幸せになるのか。ならないね。その実験は一五〇年以上前に行われた。アイルランド全土で四時間労働制がとられたんだ。その結果は、社会不安が生じ、ソーマの消費量が大幅に増えただけだった。余分に増えた三時間半の余暇は幸福の源泉とはほど遠く、みんな“ソーマの休日”をとらずにいられなくなったんだ。(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.323)
ともあれ労働は、お金を与えてくれるだけじゃなく、結構な満足感も与えてくれるものだ。だから、仕事そのものからどれだけ満足感を得ているかってのが、幸福度指標のひとつになっている。
あなたが今どんな職業に就いているかは知らないけど、仕事そのものから満足を得るためには、「自分がやらなければならないことを好む」ようにすればいい。あまりにも真っ当なロジック。
どうやって? ホリエモンが刑務所で紙袋をつくる作業に喜びを見出したように、創意工夫によってでもいいし、あるいは「条件づけ教育」によってでもいい。
もちろんそんな大げさなことじゃなくてもいい。息子に後を継がせたい時計職人は、息子が子どものうちからいろいろ時計をいじくらせて、息子は自然と時計いじりが好きになって、親の望み通り時計職人になる。そういうことだ。全然悪いことじゃない。むしろいい。
とにかく仕事を好きになること。そうすれば仕事から幸せを得られる。
『すばらしい新世界』では、みんな自分の仕事が大好きだ。第四関門も、ラクラク突破。
⑤ 人間関係による生きがい--孤独を嫌う
「しかし今はたったひとりでいる人間はいないからね」
「われわれはみんなが孤独を嫌うよう仕向けている。そして孤独になることがほぼ不可能なように生活をお膳立てしている」
(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.338)
人とのつながりが幸福感をもたらす、孤独は幸福の敵だ--という意見に諸手を挙げて賛成はできない、という人もいるに違いない。しかしそういう人は、本当の孤独っていうのを味わったことがないのだ。私を含めほとんどの人はそんな経験はないと思うけど、いくつかの実例を見るに、やっぱり人間は完全な孤独には耐えられないらしい。
吉野の山奥に3年ほど籠った西行は、人恋しさのあまり、人骨を集めて秘術で人間をつくろうとしたらしい。完全にヤバい。『森の生活』の著者ソローも、ウォールデン池畔に隠遁したけど、孤独に耐えきれず、2年強で出てきている。人間が孤独に耐えられる限界はせいぜい2〜3年のようだ。
アリストテレスは、幸福にとって友愛がいかに大切かっていうことを、『ニコマコス倫理学』でかなりのページを割いて書いている。現代の幸福度指標には、助け合える仲間がいるか、他の人の幸福に自分が貢献できていると感じられるか、といった項目が入っている。
人とのつながりが幸福感をもたらすというのは、どうやら否定できない事実のようだ。
「孤独を嫌うよう仕向け」られている『すばらしい新世界』の住民は、第五関門もヤスヤスと通過だ。
ところで、現代社会に暮らす私たちも、『すばらしい新世界』とはまた別の仕方で「孤独を嫌うよう仕向け」られている。そう。インターネットによって。「孤独になることがほぼ不可能なように生活をお膳立て」されている。
では私たちは孤独を感じずハッピーか? インターネット上のつながりで幸福を感じられる人(たとえば、今中国で大人気の女性型AIシャオアイスに惚れ込んでる人)と、そうは思えない人と、私たちの世界には両方いる。そうは思えないっていう人は、それが不変の性質によるものなのか、単に環境の過渡期における適応の問題なのか。どっちなのかは分からない。
⑥ 人生の満足--満足を与えることに心を砕く
幸福を測るうえで、「人生の満足」はもっとも主要な指標だ。「人生の満足」は万人に共通の尺度を与えてくれるからだ。人生において何を望むか、何を理想とするかは、人それぞれ違う。でも何を望むにしろ、その望みを叶え、理想の人生を歩んでいる人は、自分の人生に満足しているに違いない。つまり、何を望むかは人それぞれだけど、自分の望むものを手にしてる人は、人生に満足していて幸せだろうってことだ。
それにしても、現代の私たちは「満足」に囚われている。欲望の対概念としての満足に。自分が求め欲したものに対して与えられる満足に。つまり、現代の幸福観はすごーく能動的だ。受け身じゃない。欲して、追求して、獲得する、非常に能動的な幸福だ。
能動的な幸福=欲望に対する満足を、政策的に国民に与えているのが、『すばらしい新世界』だ。ムスタファ・モンドは、国民の望みを叶え満足を与えることに苦心する。すべては社会の安定を保つために。
この社会主義であると同時に資本主義でもある新世界を統括しているムスタファ・モンドは [……] 国民の欲求を即座に充足させて幸福感を与えることに心を砕き、それが少しでも遅れることに恐怖感を抱いている。欲望や欲求をすぐに満足させなければ、そこから感情や自意識が生じる恐れがあるために、モンドは「遅延」の排除に全力をあげているのだ。(オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』p.407)
この世界では、欲したものはすべて満たされる(即座に!)。人生は「満足」で満ちているのだ。
完全幸福達成のための、最終関門突破。やっぱり『すばらしい新世界』はすばらしい。PERFECTLY COMPLETED.
おわりに
さて「完全幸福」を達成するためにはどうしたらいいかってことは、これで明らかになった。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』みたいにすればいい。
しかし私たち(のほとんど)は、『すばらしい新世界』をディストピア小説として読んでいる(はずだ)。でもこの「完全幸福マニュアル」で分かったのは、現代の私たちが実際に用いている(しかも国際的に公式な基準として)幸福度指標で測ってみると、『すばらしい新世界』は幸福度100点満点になるってことだ。これってどういうことなんだろう?
指標なんだから、0から10へ数字が大きくなるにつれて、幸福度は上昇するはずだ。そうじゃなきゃ指標とは呼べない。0, 1, 2, … 7, 8と幸福度が上昇して、なのに最大値10の世界がディストピアって、どういう理屈で説明できるんだろうか。10っていう数字は、実は0より小さい数でした、っていうカラクリでもない限り、説明がつきそうもない。
ところでこれって、「完全平等」がディストピアっていうのと似ている。「完全平等」が悲劇を生むってことは、小説の世界どころの話じゃなくて、本物の歴史が証明している。平等っていうのは、いいもののはずだ。幸福ってのがいいものであるみたいに。でも、「完全」とか「100%」とかと、相性が悪い。
科学万能主義の現代人は、そういうものも平気で指標化する。何かを指標化すると、私たちは、高得点獲得に否応なく駆り立てられる。数字が大きい方がいいと思っちゃうから。でもその先にあるのは、結局、望んでないものでしかない。いいものであるはずの幸福が、どこでディストピアに変わるのか。8なのか、9なのか、9.9なのか。その転換点は見えない。
くり返すけど、「完全幸福」を手に入れるのは難しいことじゃない。むしろ簡単だ。テストで100点を取るみたいに、とっても簡単なことだ。難しいのは、「完全幸福」達成の道のりの途中、ディストピアへの転換点の手前で、歩みを止めることなんだ。
※ この文章は、鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年)の文体および構造を模倣して書かれている。なお、文中に引用したオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』は、黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013年)の版に拠る。
文字数:9283