「擬日常論」をよむ
1.言葉の両義性
私たちは日常的に、言葉を用い、コミュニケーションをしている。というのは思い込みで、私たちは日常的に、言葉を用い、ミスコミュニケーションをしているという方が、おそらく真実に近い。
私が発した言葉を、相手がどのように受け取ったのか、実のところは分からない。そもそも、私自身、自分の発した言葉の正確な意味を分かっていない。私は曖昧な言葉を宙に放り、相手は私の発した曖昧な言葉を、私には分からない仕方で受け取り、その相手もまた、曖昧な言葉を宙へ放り、私はそれを、私にしか分からない仕方で受け取る。
このコミュニケーションの体をしたミスコミュニケーションは、ときに決定的な悲劇を生む。私たちを悲劇に陥れる、この曖昧さ、分からなさの正体とは何か。それは、言葉の両義性と呼ぶべきものだということを、柄谷行人は『言葉と悲劇』の中で言っている。
悲劇のテクストは、いつも悲劇がコミュニケーションの錯誤にあることを告げています。この場合、コミュニケーションというのは、構造や規則に依存しえないようなコミュニケーションのことです。悲劇は、したがって言葉の両義性にかかわっています。ちなみにソフォクレスの『エディプス王』は、またある意味ではシェイクスピアの「悲劇」は、すべて言葉の両義性にかかわっているのです。[……] 僕のいう言語の両義性は、それをけっして一義化しえないということなのです。[……] 悲劇的認識の根底には、言語の両義性に対する苦痛があるのです。
そもそも、コミュニケーションという言葉自体が、両義的だ。コミュニケーションは、コミュニケーションであると同時に、ミスコミュニケーションであるのだから。
さて、私はこれから、この「言葉の両義性」をキーワードに、上北千明氏の「擬日常論」に対するひとつの解釈を示してみたいと思う。そのための準備として、まずは、上北氏が「擬日常」という言葉をどのように用いているのかを見ていきたい。
2.二つの「擬日常」
上北氏の「擬日常論」は、現代の日本社会の諸相を特徴づけるものとして、「擬日常」の語を充てている。日常でもなく、非日常でもない、「擬日常」とは何だろうか。上北氏はこの論考の中で、「擬日常」という言葉を、大きく分けて二つの異なる文脈で用いている。上北氏が論考で取り上げる『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は、この二つの擬日常を網羅的に描写しているので、以下ではまず、『デッドデッドデーモンズ』に対する上北氏の言及に依拠しながら、二つの擬日常の様相を描き出しておきたい。
上北氏の指摘する現代社会の擬日常性のひとつは、「終わりのない擬似的な日常感覚」である。『デッドデッドデーモンズ』の舞台は、現代の私たちと同じ、「インターネットへの常時接続が生活のインフラとして整備された社会」である。主人公の高校生、門出たち仲良し5人組は、LINEのようなアプリで日頃連絡を取り合っている。大学受験を間近に控えたクリスマスイブに、彼女たちは集まる。もうじき高校を卒業して別々の大学に行けば、もう会うこともなくなってしまうかもしれないという一瞬よぎった不安を、彼女たちはおちゃらけてやり過ごす。上北氏は、この場面に言及して、インターネット・ツールが、いずれ決定的な終わりが来るかもしれないという感覚を希薄にしているということを、指摘する。
門出と凰蘭が早稲田大に行けば、もうみんな会わなくなってしまうのかもしれない。そのような予感はあった。しかしそこで不安をわざとらしい冗談とおちゃらけた演技で収めたのは、たとえ会うことが減ったとしてもメールやLINEでつながっていられる、決定的な終わりなんて来ないはずだと思っていたからではないか。実際、そのように思える情報社会を私たちが現実に生きているように。
実際に私たちは、LINEやフェイスブックで何百人、何千人という友人・知人とつながり、もう何十年も会っていない旧友の生活の様子を、フェイスブック上の投稿でなんとなく知っていたりする。確かにわれわれは、会わなくなることが決定的な終わりとは思えない環境の中に生きている。そういう意味での終わりのない日常感覚を、上北氏は「擬日常」と呼んでいる。
上北氏の言うもうひとつの擬日常は、「非日常が来た後もつづけられる日常、言うならば日常の皮を被った非日常」の意味である。『デッドデッドデーモンズ』では、ある日突如として現れた巨大な空飛ぶ円盤、通称「母艦」が、東京上空に留まり、その侵略者との戦闘が断続的に行われる中で、門出たちは平然と日常生活を送っている。彼女たちは、ゲームに夢中になり、恋をし、受験勉強をする。このように、明らかな非日常下にもかかわらず、彼女たちの日常が何ら変わらないことを指して、上北氏は「擬日常」と言う。彼女たちの意識は、しかし、仲良し5人組のひとりが侵略者の中型船の墜落で死ぬことよって、決定的に変わる。
上空に「母艦」があらわれようが、そのことについて外国人から何を言われようが、セカイ系的な「世界の終わり」などでは、彼女たちの日常は揺るがない。[……] けれど、だからこそ非日常の到来では揺るがなかった彼女たちの日常は、その一人が死ぬことによって、途端に揺らぎ始めるのである。
ここから分かる「擬日常」の意味するところは何か。彼女たちは、親友が侵略者の犠牲となり、事の当事者となってはじめて、「擬日常」的な日々から抜け出すのである。つまり、上北氏がここで言う「擬日常」とは、非日常下でも、当面当事者としての意識をもたずに済む者たちの日常の様子を指しているのだと考えられる。
生き残った彼女ら4人は話し合い、「これからも今まで通りにしていよう」と決めるが、この「今まで通り」は、明らかに今まで通りではない。たとえ今まで通りに生活をしていたとしても、それはもはや「擬日常」ではなく、意識のうえで、決定的な違いがあるのだ。
ところで、「擬日常論」が取り上げるもうひとつの作品『花と奥たん』でも同様に「非日常が来た後もつづけられる日常」が描かれていると、上北氏は3章の冒頭で言及する。
『花と奥たん』と『デッドデッドデーモンズ』に共通するのは、単なる日常を描いた漫画でもなく、非日常を描いた漫画でもない、非日常が来た後もつづけられる日常、言うならば、日常の皮を被った非日常を描いている点である。ここではそれをさしあたり−−擬似的な日常性という意味で−−「擬日常」と呼んでみたい。
しかし、『花と奥たん』の奥たんは、都心に出現した巨大植物のせいで旦那が帰って来ない「残され主婦」であり、まさに被害の当事者である。ならば、上北氏の言う「擬日常」には三つ目の意味合いがあるということか。あるいは、この二つ目の擬日常を当事者意識の有無で解釈するのは、間違いなのではないか、という疑問の声が上がるかもしれない。
奥たんは、非日常下でも、旦那が帰ってくることを信じて日常を生きている。「非日常が来た後もつづけられる日常」という意味では、一見、門出たちの生活も奥たんの生活も、同じようなものに思われるかもしれない。しかし、その後の4章で上北氏自身が言及しているように、奥たんは「この崩壊さえも日常に組み込まれた出来事でしかないと思って」おり、巨大なカボチャやナスやトマト、自分の背丈よりも大きなしめじをずっと食べてきた彼女は、もはや人間というより「あの巨大な花の一部になっている」。彼女は自然と同等の眼差しをもつ者として捉えられており、『デッドデッドデーモンズ』で仲間を失う前の門出たちの「擬日常」とは、明らかに異質である。もし自然と同等の視点をもつ奥たんの生活を「擬日常」と呼ぶのであれば、それはもはや「非日常が来た後もつづけられる日常」程度の意ではないだろう。自然あるいは神の視点に立った感覚である。上北氏が最終章で言及する、「自分の生きている「いま」「ここ」の時間の外側に、まったく異なる世界がありうる」という感覚、あるいは「日常と非日常という枠組みではなく、この日常が非日常とつねにともにある」という感覚に似たものであろうと思う。上北氏はこのことも「擬日常」と呼んでいる。しかし、私は、これを果たして「擬日常」と呼ぶべきなのかどうか、より正確に言えば、上北氏はこれを本当に「擬日常」と呼びたかったのかどうか、という疑問を拭えない。この問題には、また後ほど戻って来ようと思う。
3.一義的な「擬日常」と両義的な「日常」
「擬日常論」で上北氏は、少なくとも二つの意味で擬日常という言葉を用いている。ひとつは、インターネットへの常時接続環境が助長する「終わりのない擬似的な日常感覚」という意味の擬日常であり、もうひとつは、当面当事者としての意識をもたずに済む者たちの「非日常が来た後もつづけられる日常」という意味での擬日常である。
さて、ここでの問いは、なぜ上北氏はこれら二つに同じ「擬日常」という言葉を充てたのか、ということである。異なる意味のものでも、同じ言葉を充てるからには、何かしら通底するものがあるはずである。「家」という言葉が、人が住むための建物、家族、家系など異なる意味を持ちながらも、すべては「生活共同体」あるいは「運命共同体」という概念で通底するように。
二つの擬日常の概念に通底するものとは何か。私は、それが「言葉の両義性」に関係するものではないかと思うのだ。本来両義的な「日常」という言葉を、一義的なものと思ってしまっている状態に対し、上北氏は「擬日常」という言葉を充てているのではないか。そう思うのである。
上北氏は「擬日常論」の最終章で、この論考の執筆に至った動機を述懐している。目黒区美術館で開催された「気仙沼と、東日本大震災の記憶−リアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史−」展を見て、「「3.11」という出来事について考えたのがきっかけ」だった、と。上北氏はここで、次のように述べている。
この国において災害はむしろ日常的な出来事であると言っていい。しかし2011年以前にはその事実を正しく認識できている住民は少なかった。私たちは「3.11」を契機に災害に対する考えを改める必要がある。リアス・アーク美術館はそのようなメッセージを打ち出していた。災害とは何か。この国において、それは言うならば、日常の先にもしかしたら来るかもしれない「可能性(possibility)」の出来事ではなく、つねに私たちの生活のそばにあり、いつでも起こり得るような「確率(probability)」の出来事なのではないか。
災害という決定的で非日常的な出来事は、常にわれわれのとなりに、一定の確率で起こるものとして存在している。日常というのは、本来、一定の確率で起こるはずの災害に対する意識を含んでのものであるはずなのに、その感覚をわれわれは失っていたのではないか、ということである。その感覚を、近代以前の日本人はもっていた。中沢新一の『アースダイバー』が、そのような近代以前の日本人の感性を描写しているとして、上北氏は次の一文を引用する。
彼らは、自分たちがその上で暮らしをいとなんでいる大地は、もともとがふるふると揺れている鯰や龍の背中に乗っているような、じつに不安定なもので、鯰や龍がなにかの拍子にからだをひと強請するだけで、背中の上でくりひろげられていた平穏な日常生活などは、ひとたまりもなく崩れさっていくものだ、という感覚をもって生きていた。
人々は日常を、いつ崩れ去るともしれないと思いながら生きていた。日常とは、そういう感覚をもってのものだった。上北氏は、最終講評会の質疑応答の中で、「一番自分の中で引用してしっくりくる文章として、中沢さんの『アースダイバー』の言葉があった」と語っている。そして、「日常が非日常とつねにともにある」という感覚を取り戻す、というメッセージを打ち出している。
今回の論考の中で一番根幹にあるのは、[……] 日常と非日常が交互に繰り返されるっていう風な社会的なイメージをもつのではなく、常に非日常と日常がともにあるんだっていうイメージをもつことが重要なんだっていうことを考えたんですよね。
これはまた、『デッドデッドデーモンズ』で、門出たちが仲間の死に直面して知った、「大切な人と突然会えなくなる時がある」「俺たちがこうしてくだらない話をしてられるのは、ただのまぐれか偶然」という感覚でもある。日常というのは、本来、この感覚とともにあるものだというのが、「擬日常論」における上北氏の強いメッセージである。日常は、非日常ではない。しかし同時に、非日常とともにある。つまり両義的なものなのだ。
それに対し、「3.11」以前、あるいは「3.11」で被災した人たち以外の現在は、どうだろうか。「3.11」以前の私たちは、インターネットへの常時接続環境が助長する「終わりのない日常感覚」をもっていなかったか。「3.11」で被災した人たち以外の多くの日本人は、今や当事者意識が薄れ、「非日常」という感覚を忘れかけてはいないか。これは言い方を変えれば、一定の確率で非日常は起こる、「日常が非日常とつねにともにある」という感覚を含んだ、本来両義的な「日常」が、一義的になってしまってはいないか、ということである。このような現実を、上北氏は、「擬日常」と言い表しているのだ。
両義的な「日常」が、一義的になってしまっているとき、つまり、日常がこれからもずっとつづくと思ってしまっているとき、非日常という感覚を忘れ去ってしまっているとき、悲劇のうえにさらなる悲劇が生まれる。
あの日、電気が止まり電波が遮断された被災地で、スマートフォンの画面に残されたまま届くことなく津波に流されていった無数のメッセージを思う。「いつでもできるなら後に回してもいい」と、そのように考えていたそれまでの日々を悔いた人々のことを思う。−−そこから始めなければならないのだと、被災地の写真は語っているように思えた。
決定的な終わりがいずれ来るということをすっかり忘れ去っているとき、取り返しのつかない悲劇は、その重みを増してやって来る。
さて、ここで、2章の終わりで提示した問題に戻ろう。「この日常が非日常とつねにともにあるということ」を、果たして「擬日常」と呼ぶべきなのかどうか、上北氏はこれを本当に「擬日常」と呼びたかったのかどうか、という問題である。この問いに対する私の答えは、否、だ。私には、上北氏が、両義的な意味をもつ、本来の日常を取り戻せ、と声を上げているように思われて仕方がない。そうなっていない現実を、「擬日常」と呼び、われわれをはっとさせるのだ。
上北氏は、最終講評会の質疑応答で、はっきりと言っている。
東 上北さんは、3.11以降、人々が日常を回復しようと努力していることっていうのは、いいと思っているの、悪いと思っているの?
上北 いいと思っています。
そうなのだ。人々が日常を回復することはいいことなのだ。ただし、それが、両義的な日常である限りは。もしこれが、「非日常」を忘れ去った一義的な「日常」であるなら、それは「擬日常」と呼ぶべき、肯定できぬ類のものなのだ。悲劇のうえにさらなる悲劇を招くものなのだ。
現実にもう人々は、たとえば東京は、東北が非日常のまま生きているのに、日常を取り戻しちゃってるじゃないかっていうような意味を込めて書いてるつもりです。
われわれは「非日常」を忘れていないか。もしそうならば、この「日常」は、「擬日常」と呼ぶべきものでしかないのだ。
4.「書く」ということ
私はここまで、上北氏の「擬日常論」を「言葉の両義性」という観点から解釈することを試みた。
言葉は、その両義性ゆえに、ミスコミュニケーションばかり生む。文章を読むことも、批評をすることも、つまりはミスコミュニケーションのオンパレードかもしれない、と思う。でもだからこそ、ときには不幸な誤解が生まれるけれども、ときには幸福な誤解も生まれ得るのではないか。
しかし、やはり、幸福な誤解で終わらせたくない、というのが本音としてある。所詮はミスコミュニケーションの連続だとしても、何かそこには響き合うものがあって、魂が通い合うことも、ごく稀にはあるのだと、信じたい。そのために必死に文章を読み、必死に誤解し、必死に書いているのかもしれない、と思う。
そして、もうひとつ。私たちは、忘れないために、思考を停止させないために、文章を書く。『福島第一原発観光地化計画』の冒頭で、東浩紀氏は、こう記している。
本計画に対する批判のなかには、原発は必要なのか不要なのか、低線量被曝は安全なのか危険なのか、政府と電力会社は善なのか悪なのか、それが決まらないことにはなにも動けないし、教訓を残そうと思っても残しようがないという声もあります。原則論としてはそのとおりです。
けれども、では以上の厄介な問題について、国民の合意が取れるのはいつなのでしょうか。ぼくたちはむしろ、その機会を待つあいだに、人々の記憶が薄れ、資料が散逸し、遺構が解体されてしまうことを怖れます。
慎重さはときに行動の障害になります。原発事故を思考停止の対象にしないこと。「フクシマ」をまえにして黙り込まないこと。ぼくたちは、まずはそれがもっとも大事なことだと考えているのです。
上北氏の「擬日常論」は、忘れないために、思考を停止させないために、ぎりぎりと歯軋りをさせながら書かれたもののように思えた。
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