願望を願望することの自覚
酒井順子氏の『子の無い人生』をおもな題材として、結果として(著者が意識するしないにかかわらず)隠蔽されているものについて考えたいと思います。
まずこの本は、全体にもっぱら「期待水準」に基づいて書かれているということ。つまり、「願望水準」は用心深く隠されています。
私たちの思いには、現実はこんなものだろうという「期待水準」と、自分が本当に望んでいる「願望水準」があります。性愛が自由になり、経験を重ねるなかで、「期待水準」は現実に見合うものへと切り下げられていきます。一方、「願望水準」は高いままなので、両者のギャップが開いた状態です。しかし、時間がたつにつれ次第に「願望水準」が「期待水準」に引きずられて下がっていきます。ギャップに耐えるのがつらいからです。そうして「自分が本当は何を望んでいたのか」を忘れていくのです。「現実」に傷つく段階から、願望を抱かないので傷つかない段階へとシフトします。
僕にはこの本が、そのプロセスをヴェールでおおって、あくまでも「自分が選んだことだ」と自分(や周囲の関係者たち)を納得させる様子をつづったものに見えます。
酒井氏は二〇〇三年『負け犬の遠吠え』でブレイクしました。未婚、子ナシ、三十代以上の女性を「負け犬」と定義します。最も重要視されるのは、「現在、結婚していない」という条件なので、離婚してシングルという人も含みます。
酒井氏自身、三十代半ばの「負け犬」である立場から、世の中の「負け犬」たちによる「想像の共同体」の構築に向けて放った檄文がこの本です。大きな話題になりましたから、その「共同体」に参加した女性たちも多かったでしょう。
ところが、それから十三年を経た二〇一六年、酒井氏は『子の無い人生』を世に問います。冒頭、「負け犬」グループに入れてもらえなかった、「既婚、子ナシ」からの反響が多かったとあります。彼女たちは「既婚者とはいえ、あなたも負け犬の仲間ですよ。仲良くしましょう」といってほしかったのだと。そして、四十代になった今だったら、「つらいなら、負け犬の仲間に入る?」といってあげられる、と。
『負け犬の遠吠え』では結婚/既婚のあいだに引かれた境界線が、新たに、子アリ/子ナシのあいだに引き直されたのです。こうして、新しく「子ナシ女」たちによる「想像の共同体」再編成がなされました。僕はそこに、共同性の不可能性と不可避性とを見いだします。
変わらず一貫しているのは、誰しもが「自分が選んだことである」という姿勢です。
かつて「産む/産まないは女が決める」と宣言して、女性たちが「産む性という宿命」を自らの判断で選択し、人生を自由に設計できるようになった、という現在地だけは決して手放すものか、という強い思いが感じられます。
けれども、境界線は、本当にそこにあるのでしょうか。 この境界線は、別の境界線を巧妙におおい隠す役目を果たしてはいないでしょうか。
じつは酒井氏は、『負け犬の遠吠え』の三年前、二〇〇〇年に、『少子』という本を出しています。「痛いから」「結婚したくないから」「うらやましくないから」「愛せないかもしれないから」「面倒くさいから」「シャクだから」「男が情けないから」と七つの「少子の理由」を挙げ、執筆時にまだ三十代前半だった酒井氏の、「選ぶ側の立場」からの視点が語られます。
「本気で結婚したければ、いくらでも手はある」のに結婚しないのは、もっとずっと強い「妥協したくない」「自分を曲げたくない」という気持ちが存在するかだ、と。「お見合いパーティ」にも行ったが、「はー、ただ結婚がしたいだけだったら、こりゃ簡単にできるな」と思った、と。
一方で、こんなことも書いています。
女の子の社会には、ごく幼い頃から「仲良しグループ」というものが存在します。どんな仲良しグループであっても、「全員が結婚している」というケースはそう多くない。必ず一人は、未婚の人がいる。そしてその未婚者は、かなり遅くまで、もしくは一生、結婚しないのです。この「最後の一人」的な未婚女性が共通して持っている雰囲気、それは「モテたことがない感じ」。ふと気がつけば「あら、あの人って彼がいたことがあったかしら」という感じの、乾き方なのです。
どのグループにも必ずいるという「最後の一人」を、酒井氏は「捨て石的未婚者」と呼びます。この時点では、酒井氏自身は「九割がた、子どもを産むことはないのであろう」と書いていますが、おそらく、結婚する可能性は高いと想像していたのしょう。
「最後の捨て石的一人」だけは、「結婚願望が強い」とあるので、「選ばれなかった」のだと暗に示しています。では、その一人だけが「(男性から)選ばれなかった」のでしょうか。『子の無い人生』には、そういう女性のその後の話は出てきません。
『負け犬の遠吠え』や『子の無い人生』で、こっち側のみんな、仲良くしましょう、と呼びかけるようになった変化に、時の流れを感じます。こっち側のグループのなかでの、さらなる対立(内輪もめ)を慎重に回避するかのようです。
もっというなら、「負け犬」という概念が作り出されたことによって、負け犬/勝ち犬という対立項が召還され、可視化されたのです。巷に氾濫する、格差をめぐる言説には、こうした二項対立の発見、境界線の侵犯、再召還が果てしなくくりひろげられています。
経済格差、生活水準の格差が、私たちにとって最重要といってもいい関心事となっています。どの時代にも格差は存在しましたが、近代社会にける格差は、それまでの時代の格差とは前提が全く異なります。近代社会は、自由と平等を原則とします。各人が自由に経済活動を行い、収入が決まります。その結果として生活水準が上下します。つまり、近代社会における生活水準の格差は、自由であるがゆえに生じるのです。
現在の格差問題の解決が容易でないのは、その格差を作り出す原因が「不当」であったり「不正義」であったりするからではなく、 私たちが「望ましい」とみなした自由で民主的な社会を作ったことから生み出されるからです。
性愛の問題にも同様のことが当てはまります。一九八〇年代から九〇年代にかけて、性愛が結婚から切り離されていき、それゆえに性愛が純粋化していくという事態が起こります。八〇年代の結婚は、恋愛結婚が八割を超え、と同時に、結婚以前の性交経験も高い値を示すようになります。いい換えると、多くの若者にとって、性愛と結婚が、制度的な基盤から切れて、ともに「自由」な達成課題としてクリアしなくてならなくなったということです。
自由があるところ、競争が発生し、富の不平等に帰着します。富の不平等は、実質的に自由をもつ者と、形式的にのみ自由が与えられており、実質的には自由をもたない者とのあいだの分化を意味しています。
その背景には、学校教育という制度も、大きくかかわっています。身分制のない近代社会では、子どもは生まれたときに将来何になるかは決まっていません。「何にでもなれる誰でもない人」(森重雄)です。そして、何かになるために必要な知識や技術を与える場として、学校という制度に、選択と選抜とが委ねられるようになりました。
この、「選択」と「選抜」という課題は、むきだしになった個々人が人生のあらゆる場面においてクリアすべきものとして現れます。選択肢を正しく知り、挑戦し、選ばれる人間になること。クリアに成功するか失敗するか(回避することも含め)、その結果はすべて自己責任として、各人が引き受けざるを得ません。
一九七五年以降、日本で未婚化(初婚年齢が高くなり未婚率が高まる)が生じる根本的理由は、山田昌弘氏の調査分析によると、以下の三点です。(『新平等主義』)
1 女性は、結婚にあたって、男性に家計を支える責任を求める。
2 若い男性の収入はオイルショック(一九七三年)以来相対的に低下、加えて近年(一九九五年以降)は不安定化している。
3 結婚生活に期待する生活水準は、戦後一貫して上昇している。
この結果、男性に高い経済力を期待する女性および経済力が低い男性に未婚者が増えていくという、データの裏付けもとれる明快なロジックです。
けれども、山田氏がこの研究結果を発表し始めると大きな壁にぶつかってしまったといいます。
1は、フェミニズム/反フェミニズムの言説の中でかき消され、2は自治体がかかわる媒体や新聞では削除や書き直しを要求されるなど公表を制限されました。
既婚男性と未婚男性の収入格差、未婚男性の中での恋人がいる/いない人の収入格差、「収入の低い男性は、女性から選ばれにくい」という解説部分。「低収入男性に対する差別を助長する」という理由まであった、と。
この本は二〇〇六年に書かれたもので、最近では、2に関するデータは新聞雑誌でも普通に見かけるようになりました。けれどもまだ、タブー視されていることが残っています。
「女性の職場進出が未婚化の原因である」という説が一般に流布していますが、事実はむしろ逆ではないかというものです。つまり、若年女性の就業率上昇は未婚化の結果であって、原因ではないのではないか。女性に「結婚・出産後も仕事を続けたいか」と聞けば、「仕事による」というのが本音ではないか。自身が評価される専門的な仕事に就いている、もしくは、趣味的な仕事ならやってもいいと答えるかもしれない。つまり、「結婚後の家計を支えるのは夫である」という「前提」が女性たちの意識に根強くあるのです。
一九七〇年前後に先進諸国では高度成長時代が終了し、低成長期に入りました。そこでは、リスク構造の転換(エスピン=アンデルセン)が起こります。今までリスクとになされなかったものがリスクとなって、人々の生活を脅かすのです。その前提にあるのが、人々が「人並み」とみなす生活水準の上昇です。なかでも重要なリスクは、子育て期の女性が「夫の収入で人並みの生活をすることが難しくなる」ということです。
それゆえ、若者は、男性の収入が高くなるまで(女性からすると、若くして十分な収入のある男性と出会えるまで)結婚を延期するようになり、初婚年齢が上昇し、未婚率が高まります。特に親の収入が高い女性(結婚後に期待する生活水準が高い女性)に未婚の傾向が集中します。
『子の無い人生』のなかで、現在四十代後半(一九六六年東京生まれ)の酒井氏は、女子校時代の同窓会の度に既婚率を数えてきて、「この年にして既婚率が約六割。すなわり四割の人が結婚していない」と書いています。五十歳を間近にして未婚率四割というのは、女性の生涯未婚率が一割弱(男性でも二割弱)という全国平均に比べて極端に高い数値です。
酒井氏の出身である立教女学院は「親の収入が高い」家庭に育った女性がほとんどでありましょう。「未婚の傾向が集中する」ことを裏付けています。
現在の「子育て期に生活するリスク」を回避する最良の手段は、「子供を生まないこと」。結婚後に生活水準が下がるリスク(離別・死別・夫のリストラ等)を回避する確実な方策は、「結婚をしないこと」です。
宮台氏は、テレクラが日本に登場した一九八五年から調査をしてきた結果、わかったのは、「出会いが単なる偶然の結果だと強く意識されると、合理的に考えて、その出会いが最高だと思えなくなる」ということいいます。結婚相談所などの出会い系サービスにも「テレクラ問題」は付きものです。自分に合う相手と巡り会えても「もっと自分に合う人がいる」と考えてしまうのは合理的なこと。データベースにある何十人ものお相手リストから、良さそうな人を選んだとしても、または、職場でも婚活でも、たまたま出会った異性が生涯を共にする価値のある唯一の人なのかわからないのは当然です。「これがベスト?」「もっと他にいい人が…」と延々と続いて、晩婚化・非婚化します。
山田昌弘氏とともに「婚活」を提唱した白河桃子氏は、主張が誤解され、半分しか伝わらなかったと述べます。伝わったのは「受け身ではもう結婚が難しい、行動しよう」ということ。伝わらなかったのは、結婚のリデザイン(再設計)。もう昭和の男性稼ぎ型結婚は通用しない、このモデルから脱却する必要があるということ。
婚活ブームが広がるなかで逆にますます昭和型にしがみついた。「ごく一部の稼げる男を、少しでも早く獲得せねば」と競争が激化し、婚活を、「より広い範囲からよりよい相手せん多雨すること」と誤解する人も出現しました。(「週刊東洋経済」2016.5.16)
このような「誤解」はしばしば起こります。
宮台氏もかつて、女子高生のブルセラ・援助交際について書くほど、ブルセラっ子や援交少女が増え、テレクラが大繁盛したり、親子のトラブルも行政上のトラブルも増え、勘違いの処方箋が実行された、と明かしています。
全ての報道にはマッチポンプがつきものです。犯罪のニュース自体が犯罪手法を喧伝する。いじめ自殺のニュース自体がいじめ自殺を誘発する。マッチポンプが社会の至るところに存在することに自覚的たれ。複雑な社会では誰も第三者たりえないからです。システムには環境があってもがない。それが社会システム理論の根本教義です。(『制服少女たちの選択』文庫版特別収録2)
ひとつ明らかなことは、メディアに流布しているどんな二項対立を探してみても、一人ひとりの個別の問題に適応する解決法はなく、個々人の努力で個別の状況をクリアし、生き延びるしかない、そのためのリスク回避の安全保障も個人で用意するしかない、というふうに、ゲームが設計されているという感覚が私たちに深く刻み込まれてしまっているということです。あらゆる二項対立に隠れて、一元的に勝敗を分けるものは、「選択」と「選抜」における能力なのです。 〔宮台信司〕
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