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擬日常と不法侵入者

「現代の社会を『擬日常』として捉え直すべきか」

「人はなぜ物語を必要とするのか」

最終講評会にて「擬日常論」に向けられた東浩樹の二つの問いに対し、明日発売の「小説トリッパー」では上北千明(川喜田陽)の考察が深化していることを期待しつつ、わたしなりの回答を目指してみたい。「擬日常論」は、講師の佐々木敦の言葉を借りれば、「読み手の思考を起動する批評」であり、回収しきれていないいくつかのキーワードにも、直観の冴えを感じとることができる。その射程のさらに先へと、思考を広げながら読み解いていこう。

「「昭和」を特徴づけるものは1923(大正12)年の関東大震災とともに顕在化する」との柄谷行人の言葉を引いて、上北は、昭和の始まりが東京にもたらした最も大きな変化が東京の郊外と都心をつなぐ私鉄の存在だと記す。

対談する蓮實重彦は、「昭和元年にはるかに先立って、メディア現象による生活形態の変化が、すでに1920年代の中期から始まっていて、大正から昭和への移行が、それを追認するかたちで起こっている」と柄谷を補強する。「新たなメディア(映画、レコード、ラジオ等)を通じての大衆文化状況の成立」が再現のスピードを速くし、「流通と消費に加担することの快楽」を人々に共有させた、と蓮見は続ける。

当時の文芸評論家や社会学者の見解も概ねそれを裏付ける。1920年代を総合的に把握するキーワードは「日常生活の時代」であると。

「日常生活の時代」とは、平林初之輔の言うように、「日常生活の隅々まで」西洋化が進んだことだけにとどまらない。日常生活が大幅、急速な変質を遂げるようになったことで、知識人から一般の人々までもが日常生活そのものに深い関心を抱くようになったこと、その結果、新たな文化生成のプロセスが生まれたことなどが、むしろ重要である。(バーバラ佐藤『日常生活の誕生―戦間期日本の文化変容』)

都市生活を鋭く批評した権田保之助は、1931年の時点で、関東大震災が日本資本主義の転回点であったと顧みている。…… 官僚にとっては、震災による関東の破壊は、東京を作り替える千載一遇の好機であった。…… 東京市区内外の私鉄路線の迅速な敷設、東京のメトロポリスとしての集中的な開発がなされた時期であった。…… 日本の資本主義は生産ではなく消費(「生活享楽」)により定義される新しい段階に入った…… この移行は、大震災後の東京の顕著な特徴として急速に定着した「娯楽」の追求にもっともよく表れている。 (ジェイムズ・A・フジイ「消費のネットワーク—通勤電車の成立と社会の商品化」)

こうして、「日常生活の時代=昭和」は幕を開けた。

『生活世界の構造』で多元的現実論を説いたA.シュッツは、多層な現実(夢、空想、科学的思考等さまざまな意味世界の共存)のなかの一つである日常生活世界を、もっとも基本的(原型)で重要なものとして「至高の現実」と位置づけた。

人は、無数の先人たちの世界に「未来を宿す」者として産み落とされる。そして、現在に生きる人とのつながりだけでなく、未来を生きる人たちとのつながりのなかで生きていく。過去・現在・未来の他者との関係性のなかで、相互主観的に「意味」がつくられ、また変化しつつ、「いま・ここ」において統一しながら生きている。

わたしたちは生活のなかで日常と非日常とをどのように意識し区別するのだろうか。両者は相補関係にあるが、その境界は必ずしも固定的で自明なものではない。その切断はどのように訪れるのだろうか。

カレンダーと時計に助けられ、時間は分割されて運用される。旅行や冠婚葬祭のように、あらかじめ予定に組み込まれ馴化された非日常もあれば、災害のように予期せぬ社会的な非日常もある。前者は人為的な切断によって準備され、後者は不意打ちのように訪れる。

日常のなかに非日常は点在し、時には入れ子構造になって、わたしたちの生活世界をつくりあげている。技術の進歩とともに、わたしたちの欲望は非日常を飼いならし日常の領域に取り込んできた。ネットの常時接続とスマホなどの携帯端末の登場でその傾向はますます加速している。もはや旅に出るときに大きな心理的飛躍が伴うこともなく、非日常性は希薄化し、(事故や病気のような望まれぬ「禍(わざわい)」でなければ)日常を「生き生きさせる」ために差し挟まれる計算ずくの出来事にすぎない。

ブラジルで開催された2014FIFAワールドカップのスタンドで、試合中に拍手や応援をせずひたすら自撮りをしてSNSに挙げている日本人男性を見かけた。地球の裏側にまで移動しても、彼の様子は旅先というよりは日常そのもので、スマホの画面に切り取られた小さな光景がそのサイズのままの「非日常」なのだろう。

一方、渋谷の交差点でイラク戦争を伝える電光掲示板の「遠い非日常」よりも、日ごろ通いなれた道玄坂を、いつもの時間帯とは逆方向に上り下りすることが、「ラブホテル=非日常」の「5日間」への通路になりえる。(岡田利規『三月の5日間』)

 

2章では、國分功一郎によるドゥルーズの「考えることを引き起こすショック=不法侵入」という概念が引用される。その対談のきっかけとなった、國分『暇と退屈の倫理学』では、思考させるものを「贈り物」にたとえたハイデガーをはじめ哲学者という人種が、真理の追究を偏愛する性質であるため、人間の本性をそのように見立てるという誤った「主観的前提」に長いあいだ立っていたと明かされる。

人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。…… 人は習慣を創造し、環世界を獲得していく。なぜそうするのかと言えば、ものを考えないですむようにするためである。ならば逆に、人がものを考えざるを得ないのは、そうして作り上げてきた環世界に変化が起こったときであろう。

習慣を作らねば生きていけない以上、必ず退屈する。だから気晴らしを行う。人間は本性的に、退屈(=日常)と気晴らし(=飼いならされた非日常)が独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられている。

『花と奥たん』の奥たんは、不法侵入の後も、考えずにすんでいた以前の日常生活を、その反復の形式を、そのまま継続しているように見える。

安定した環世界における日常生活は、おおむね(意識するとしないとにかかわらず)予期された反復によって成り立っている。

なじんだ予定調和を根こそぎくつがえすように起きる大震災、または個人的な事故や深刻な病の場合は、日常の入れ子構造の層を横断し破壊する裂け目として機能する。

人間は習慣の生成を「受動的総合」とドゥルーズは呼び、その「至福」の中にたたずむことを望むと述べた。

ものを考えないですむ「至福」にまどろんで生きる人間たちにまぎれて、「不法侵入」を待ちわびる物好きも存在する。批評再生塾とはそれら少数派の物好きのために開かれた装置の一つでもある。

わたし自身、受講生となり、今まさに、思考を強制される楽しみの実践のただなかにいる。逆説めくが、強制に身を委ねることは、自由を担保することなのではないだろうか。「自由を実践するには、自由に逆らわなければならない。自我は自我の支配者であるが、それゆえ、自我は自我の奴隷でもある。」(テリー・イーグルトン『甘美なる暴力』)

 

3章の「擬日常――非日常が日常化した社会」ではいよいよ「擬日常」という造語の意図について示されていく。

小松左京『復活の日』を挙げ、「日本社会の擬日常的な感性をあの時点できわめて鋭く描いて」いたと指摘する。満員電車が行き来する都市の風景を、擬似的な日常、と上北は述べる。

地下鉄サリン事件を連想しなくとも、通勤通学客で混み合う車内には、なにか不穏な緊張を強いるものがある。

仕事や学校と住居というふたつの世界の“いいとこ取り”という合理的な選択の代償が、過酷な移動である。ゆえに、個々の事情による妥協の空間となる。互いをモノとみなすかのように、過密状態に耐える無表情な人々のさまざまな思いも運んでいく。

ところが、いったん危機(=非日常)が発生するやいなや、本来の「人間」に戻る。

スティーヴン・ライカーの調査によれば、ラッシュ時に事故やテロ攻撃などの非常事態に見舞われた場合、「本能に任せて、てんでばらばらに先を争うどころか、生存者のあいだに強い連帯感が生まれ、互いに助け合う」ようになる。人々は“私”ではなく”私たち”という単位でものを考えるようになり。この変化は「もはや”他人”ではなく”自分たち”となった集団の一員として、帰属意識と忠誠心が強まる」ことを意味する。(イアン・ゲートリー『通勤の社会史』)

この現象は”集団的強靱性”と呼ばれ、2005年のロンドン地下鉄自爆テロ事件での助け合いの行動によっても証明された。生存者たちは、いつもとは違う連帯感を意識したと話した。「緊迫した状況にいるのはみな一緒で、そこから抜けだすには、助け合うことが最善の方法でした」

ここで、レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を連想する人も多いだろう。

大澤真幸は、3・11の直前に翻訳された同書を援用しつつ、ニューオリンズでの大洪水や9・11テロなどの大災害に遭遇した人たちの「ポジティヴな思い出」を紹介している。

不思議なことに、多くの人が、一方で苦しみや悲惨を語りつつ、他方で、たいへん生き生きとした表情を見せるということです。人によってははっきりと「あれは自分の人生のなかで最もよい瞬間だった」というようなことまで言う。災害のときに何かものすごく強いユートピア的と言ってもいいような共同体、人のつながりができあがるからなのですね。…… 信じられないほどお互いを利他的に助け合って、普通ではありえないようなある種のつながりをつくり出すのですね。( 『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』

フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーの名づけた「新しい傷」——物語化によって対抗できない傷(「解釈学的内面化」ができないタイプのリスク)——を、大澤は紹介する。

3・11のような震災を意味づけることは不可能であるばかりか冒涜的ですらある。なので、心身に傷を負った被害者が、その傷を物語にして癒すことができない。つまり、運命として、引き受けることができない。それが、「新しい傷」である。

 

最終章「来たる「可能性」ではなく、起こり得る「確率」として」に移ろう。

上北は明示していないが、ここで東浩紀の初期論考を想起せずにはいられない。

ぼくは震災後、いまから二〇年ほど前に書いたエッセイを思い出すことが多くなった。「確率の手触り」と題された、ぼくがはじめて記した長い文章だ。

ぼくがそこで論じたのは、二〇世紀半ばの大量虐殺の本質はなにかというとてもシリアスな問題だった。詳細は省くが、そこでぼくは、アウシュビッツや旧ソ連の収容所の例を出しながら、大量虐殺の残酷さは、多数の人間が殺されることそのものにではなく、あるひとが殺されあるひとがたまたま虐殺を免れ生き残る、その選択にまったく合理的な理由がないこと、つまりはひとりひとりの人間の生死が完全に偶然的なものに、言い替えれば「確率的」なものに変わってしまうことにあるのだ、という議論を展開している。( 「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」『思想地図beta vol.2』)

それでも「なぜ」という問いを発するとすれば、ひとは、初めから非常に根源的な問いを立てざるをえない。…… つまり、「私の父はなぜ殺されたのか」という問いは、初めから「私の父はなぜ私の父であったのか」というかたちで提出されてしまうのである。

僕たちの日常生活もまた、実際はそのような「根源的な」問いに支えられて成立している。ただ、一般には、「非根源的な」答えによるある種の錯覚が、問いを露呈させないだけの話なのだ。( 『ソルジェニーツィン試論――確率の手触り』)

このような歴史的出来事でなくても、わたしたちは身近な例に共通点を見出すことができる。たとえば、ある日の交通事故や殺人事件のニュース。そこにわかりやすい理由が見当たらなければ、被害者の死の直前までの日常が報道されることを欲し、必然性の落としどころを探してしまう。まるで死の偶然性を受け入れることは耐えがたいとばかりに。「非根源的な」答えの錯覚に安らぐために。

日常という意味世界が因果の連鎖で織りなす必然の物語に、非日常は偶然の確率として暴力的に侵入する。それは同時に、意味を失い、物語を失うことである。

僕が何となく思っていたのは、そこで「確率的」と呼ばれている状態、つまり、人々が固有性を剥奪されて偶然性を意識せざるをえない状態というのは、決して単純に否定されるべきものではないということだったんです。

つまり、一方において、主体としての人間にひとりひとり固有性があって、その固有性が剥奪されて数にまで還元されてしまう、それを否定的にとらえるのが一般的である。…… しかし、他方で僕は、それとは異なったかたちの主体のありかたを考えたい。偶然的な「私」、いつ他者になってしまうかもしれない存在としての「私」です。

私=私としての同一的=固有な主体と、それを裏打ちする確率的な交換可能性。これはどちらが良いとかいうことではなくて、この二つがあってようやく人間が人間でいられる。(東『自由を考える 9.11以降の現代思想』)

熊本でも大きな地震があり、大勢の被災者が出て、今なお日本列島に住むわたしたちは、否応なく確率的存在である側面を意識せざるをえない。ならば、「他の誰でもありえた私」の肯定的な可能性を認めるところから始めよう。大澤が、「新しい傷」のポジティヴな面を探っていたように、東とのこの対談でも、私が私である固有性と、他の誰でもありうるという偶有性とは、ひとりの人間の二面であるのだと述べている。

確率的存在は、非日常において立ち上がる。だからこそそこには「災害ユートピア」が成り立ち得た。しかし、3・11は、地震・津波の災害に終わらず、原発事故が伴ったために、「悲劇」は「袋小路のような絶望的な状態が、鬱々と持続する」へと常態化してしまった。

ソルニットの『災害ユートピア』やカントの「崇高」の議論が当てはまらない、いっそう複雑な状況があらわれたのだと思います。

震災自体は悲劇的なものだけれど、私たちはそれを通して人間の連帯の可能性、希望を垣間みることができるのです。

しかし、そこに原発事故というファクターが絡んでくると、状況は様変わりするのです。

原発の問題となると人びとが連帯することの可能性は一気に見えにくくなってしまいます。(大澤真幸「未来の他者との連帯はいかにして可能か」 atプラス 09号 シンポジウム「震災・原発と新たな社会運動」)

その理由を、大澤は、現在に存在している人たち同士の連帯でなく、存在していない他者、つまり「不在の他者」といかにして連帯できるのかという難問だと述べる。原発がもたらす災難でいちばん大きな被害を受ける人たちは、未来の人たちだから。「未来の他者」とわたしたちは果たして連帯することができるのかという問題なのだ。加えて、3・11はその他の大災害と異なり、現在生きる人たちへの差別的視線の問題もはらんで、連帯をより困難にしている。

 

リアス・アーク美術館に常設されている「東日本大震災の記録と津波の災害史」での現場写真や被災物の展示方法は、記録や記憶を「物語化」することによって、来場者を連帯へといざなう試みである。*1

震災での(匿名の)死の向こうに、固有名の普通の日常生活があったことを想像させ、誰にでも起こりうることを気づかせる。

「なぜ」その人が死んだのか、そこに「根源的な」理由などない、いや、なくていいのだ。なぜなら、あなたは私でもあり得たのだから、という納得を、皆が分かちあう機能を果たす。

 

中沢新一が『アースダイバー』で説く「大災害に見舞われても、もう次の日の朝になれば、ふたたび鯰や龍の背中の上に、自分達の新しい生活を立て直すべく、せっせと働きはじめた」 前近代の感覚を、「日常生活の時代=昭和」を経たわたしたちが取り戻すことは、もはや不可能である。

つまり、上北が結論部分で中沢を引いたあとに続けて述べる「すべてが擬似的な日常でしかないという感覚を取り戻すところから考える」=「擬日常」の提案は、容易には叶わぬ夢ではないだろうか。

かつては、国家の内部に国家とは無縁の領域が宗教の力によって確保されていた。ところが、近代国民国家が全地球を覆い、国民国家が民主制を標榜するようになって、国家世間の外部はどこにも存在しないという妄想が発生した。近代の神話的暴力は、このようにして神の暴力が発現する場所を封鎖してきたのである。だからこそ近代人は、自然の掟を飲み込むことができない。(小泉義之『弔いの哲学』)

3・11 のあとに人々が日常を取り戻そうとする努力は、揺れる大地という大きな非日常性を記憶しつつ、その上に再び、ささやかな非日常的体験の計画を組み込んだ「日常―非日常」の入れ子構造を、「意味」の網の目のなかに修復し、再構築しようとする営為でもあろう。

震災で「ばらばらになってしまったこと」もしくは「ばらばらだったことを知ってしまったこと」は、わたしたちそれぞれの想像力が、他者との交換可能性にまで及ばぬ証でもある。

つまりは、わたしたちの日常が制御不能な非日常と共にあること、つまりは「擬日常」を常として生きていくことの難しさを示している。

ならば、いったい誰が「擬日常」に足場を固め、警鐘を鳴らし続けられるのか。

ここでもう一度、「不法侵入」を待ちわびる変わり者たちを呼び出そう。とことん考えることを楽しめる者、むしろそうせずにはいられない少数者こそ、その任に適してはいないだろうか。その警鐘を「批評」と名づけてみたい。批評家たらんとする者は、世界への「思想の不法侵入者」の役割を引き受けるしかない。

物語る私は、物語ることのできない私=他の誰でもありえた(匿名の)無数の私に支えられて生きている。匿名の私が現れる非日常が、固有の私の日常を支えているように。地下深く揺れる大地が、地上のコンクリートのユートピアを支えているように。

 

生きるというのは

だれかと 共にあるということ。

近くても 遠くても 今いなくても、

同じものを想い

共にあると いうこと。

生まれて、名前を付けてもらった時の幸せ。

生きていること。繰り返されること。

その幸せ。

 ――高橋しん『花と奥たん』第8話

 

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*1  リアス・アーク美術館のリンク先には、「ガレキ」という表現を拒否する理由が説明されている。http://rias-ark.sakura.ne.jp/2/sinsai/

瓦礫(ガレキ)とは、瓦片と小石とを意味する。また価値のない者、つまらない者を意味する。被災した私たちにとって「ガレキ」などというものはない。大切なだれかの遺体を死体、遺骸とは表現しないだろう。ならば、あれをガレキと表現するべきではない。ガレキという言葉を使わず、被災物と表現してほしい。

しかし、上北が『花と奥たん』から最後に引用した箇所には、「ガレキ」が重要な役目を果たす。あえてそうしたのならば、ひとこと断り書きが欲しいところだ。

文字数:7844

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