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親切批評宣言

「親切批評」の宣言にあたって

 当論考「親切批評宣言」はおよそ2万字にわたる論考になります。この2万字というボリュームは筆者にとってのみならず、読者にとっても決して短いものではありません。のみならず「批評」それ自体がいま現在読者に必要とされていないと口々に囁かれる中で、インターネット上には日々膨大な情報が累積してゆく中で(現代社会が帯びる情報多寡社会としての様相を述べること自体に筆者自身もはや陳腐の響きを覚えます)、当論考がいまここで読まれるに値すると、どのように主張あるいは説得できるでしょうか。
 そこで私は「親切批評」なるものがいかなる目的、問題意識によって書かれているのかを記したこの前文を、読者であるあなたにとって一種の試験紙として、あるいは問題共有の場として設けることにしました。

 「親切批評」の内容を説明する前に、少しだけ回り道をします。まず広辞苑第六版における「学問」という単語の定義を引用させてください。

がくもん【学問・学文】

①(「学門」とも書いた)勉学すること。武芸などに対して、学芸を修めること。また、そうして得られた知識。

②(science(s))一定の理論に基づいて体系化された知識と方法。哲学・史学・文学・社会科学・自然科学などの総称。学。

 scienceの訳語である2番目の「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」という「学問」という語の定義にならえば、それぞれの学問はそれぞれの約束に則って積み重ねられた情報群とでも言い換えることができるでしょう。そうであるなら、その学問の間で約束とされていることとそれによって新しく位置付けられた情報をなるべくたくさん知るということが学問を極めるということになるはずです。
 知る喜びの一つの側面に、意外性への感動があります。そして、学問という知の探求において、その瞬間まで当然と思われていた論理をひっくり返すような意外性に満ちた情報の発見とその感動は、しばしば、誰かに聞いてほしい!という気持ちを呼び起こします。しかし、ここからが問題なのです。
 すでに知っている者にとって、自分の中に感動を呼び起こしたあの情報に対する、その意外性に満ちた感動は輝きを失っている、という問題です。あるいは、意外性を感じるために常識として設置された前提知識の共有が適切になされていない場合、感動を共有しようとする営みは、新しい知識の共有から始めるためにその意外性は比較的乏しくなります。共有したいけれど、聞いてもらえるに値することを書かなくてはならない。
 意外性に満ちた知の驚きと感動を共有したいという気持ちは、「つまらない人間だと思われたら」「勉強不足だと軽蔑されたらどうしよう」と他者たる読者の視線に怯えたときから「周知の通り」「いうまでもない」というフレーズで自己弁論を展開するようになります。そしてやがて前提知識を要求するプレッシャーは自身にのみならず読者の上にも投げかけられるのです。
 しかし知的素養の志向へ駆り立てるために発破をかけるこの行為は心理的な重圧という側面にとどまることなく、同時に憧れという「あるべき」もしくは「目指すべき」指針を読者に与えてきました。お約束さえ守れるのならば誰でも参入できるひとつのユートピア。読者に「あるべき」指針を与えて、導こうとするこの営みは啓蒙とも呼ばれてきました。ヨーロッパで啓蒙思想が主流となった17世紀後半から18世紀のまさにその時代潮流に生きたジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランが主著『美味礼讃』を上梓するか否かを巡った「著者とその友との対話」のその部分を見てみましょう。

友 実はけさ食事をしながら珍しく家内と意見が一致しましてね、こうしてお勧めにあがったわけなんですが、どうしても先生、『美味礼讃』Méditations Gastronomiquesはなるたけ早くお出しにならなくちゃいけませんよ……
著者 《婦人の欲するところは神の欲するところ》かね。なるほどこの数語の中にはパリっ子憲章がことごとく含まれているよ。だがこの僕には適用されまいて。僕はひとり者だからな。

(ブリア-サヴァラン『美味礼讃. 上』関根秀雄,戸部松実 訳. 岩波書店.1967. p.25)

……

著者 だって君、僕はこれでも職業がら相当まじめな研究をしてるつもりなんだが、あんなものが出た日には、世間のやつらは僕の本の表題を見ただけで、「あいつは案外くだらんことばかり詮索してるんだな」なんて、思い込まんともかぎらんからね。
友 そいつはちとご心配がすぎますよ。三十六年にわたって先生がたゆまずに公共のためにお尽くしになって先生のご本を愛読するだろうことを、妻といい私といい、信じて疑わんですよ。
著者 そうかなあ……

(同上, p.26)

 やりとりのこれら二つの断片に見られるような著者の自己否定的なエクスキューズと友人のおべっかはいくども作中で繰り返されます。それは、憧れを抱く読者と知識を顕示する者のあいだで互いに怯えあいながらも承認し合う共依存関係が結ばれてきたことを端的に語っていると言えるでしょう。知に憧れる読者が求め、著者は読者の熱意に自らの存在意義を見出すのです。全ての学問が歩む道と同様に、啓蒙が象徴しているこの「お約束」の空間においてはすべての参入者がそれに忠実に従うことが要求されています。そして、自らの教養を試されるように進んでいくロジックにあって「いうまでもない」そのささやきにスムーズなスピードで読者が頷いたとき、かつての無知な自分を切り離した優越に浸ることができるというわけです。
 もちろん、ここで私たちを知へと駆り立てる好奇心や知の純粋な喜び、意外性の感動をもなかったことにするつもりはありません。しかしながら、前述のように聞いてもらえるに値するようなことを語ろうとするなら、いわゆる「他者」たる読者の視線は、知的好奇心をどこまでも延長するべきだという目の眩むようなストイシズムの倫理を要求しています。そして倫理が無限の知的好奇心を要求するなかで人々の瞳には、控えめに言って少しばかり疲労と絶望の色が差しているように見えるのです。ここで、いわば延長され続ける倫理のありかたを論じたモーリス・ブランショの一部分の著作を引用します。

 

自己が他者を認知し他者のうちにおのれを認知するということに満足するのではなく、自己が他者によって疑問に付されていると感じ、限定されえず涸れることなくおのれを超えてあふれ出る責任によってしか、それに答えることができないというほどまでに疑問に付されていると感じるような、そうしたある先行する関係がはっきりと宣明されうるのでなかったら、倫理の可能性はありえない。(モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修 訳. 筑摩書房. 1997. p.92)

 ここでブランショが述べる倫理に従うならば、ただ好奇心のままに楽しいと思ったことを書くナイーヴで天真爛漫な気質が成せることは極めて限られているでしょう。倫理はつねに、ここからここまで責任を取れば充分だという境界線を撤回させるような懐疑的な視点にたって、主体が抱える責任の範疇を拡散していきます。
 それに、「他者」の要求に応ずるためにも好奇心を無限に延長せねばならない以上、何が語るに値すると思われるのかについて、著者はけして確信をいだけないことになるでしょう。ブランショの倫理の範疇で、他者という得体の知れない存在に監視されながら。
 ここで、倫理の名において「他者」への責任を追及する言説に付随している無垢なる者としての他者像に注目しましょう。ブランショが掲げた倫理はその必要性の根拠づけにあたって、言葉をもたない傷つきし者としての他者の存在を前提としています。言葉をもたない、というのは、表立って権利を標榜することができないということです。一体何をどう言えば無垢なる他者を傷つけずにすむのだろうか、という悩ましき問いは他者の不可視性という鎖によって宙吊りにされたまま解決されることはありません。つまり、いつ加害者になるか知れないという、いわば地雷原を突き進むように生きる覚悟がブランショの「倫理」の延長線上に要求されているのです。

 著書『無垢の誘惑』において哲学者で小説家のパスカル・ブリュックネールは、無垢なる者が奮う強固な自己正当性を利用して人々が被害者あるいは無垢なる者としての自己を標榜するようになったと主張しました。著書の中で痛切な批判を度々吹聴するブリュックネールにして「赤ん坊は人類の未来か?」と言わせる無垢への信仰、加害者であることから回避して正義の名の下に復讐を繰り返す被害者の仮面を脱ぎ捨てるため、目に見えぬ他者の視線にひそむ軽蔑に怯えあうあの共同体における無知の叩き合いが学問の発展に帰依してきたというその功績はひとまず横に置きましょう。いまここではテクストを隔てた隣人に聞いてもらうために選んだ言葉でねんごろに読者に語りかける批評、私はそれを試みたいのです。
 電車で老人に席を譲るときには彼らが喜んでくれるだろうと思いながら譲るように、親切は他者を対象にできません。ブランショによる他者を対象とした倫理から遠く離れて、隣人を対象にした読者に寄り添う言語活動として「親切批評」があるというわけです。

 親切批評によって当論考で目指すのひとまずの目標は、利己主義との決別です。憧れと劣等感、無垢の崇拝、虚栄心へと派生していった個人主義的な上昇志向を抱える利己主義は、親切という心理傾向が隣人つまり水平方向へ向けられているという点において、互いに対極のベクトルにある営みであると言えるでしょう。隣人にとっての「親切」の内奥はわからないままであるにしても、無垢の崇拝者たちが向かう何かしらの結末や決別に、「親切」の境界線がみえるかもしれません。
 赤子のように愛される無垢なる者が、成人を模倣して変容してゆくにつれて崩壊していく周囲の人々の社会構造を巧みに描いたジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の映画作品『イヴの総て(All about Eve)』(1950)に沿いながら、主人公のイヴ・ハリントンが演劇批評家のアディソン・ドゥイットに尋ねられた折に、身元の詳細をはぐらかすように鳴り響かせたシャワーの音、そして、イヴの身元の虚偽がついに暴かれ逃げ込み顔を埋めたベッドから溢れたその慟哭、つまり涙の流れる音が覆い隠そうとしたイヴの「総て」に至るまで、この物語の道筋を辿っていきましょう。

 1.どこからどこまでが総て(All)なのか?

 オープニング・クレジットを締めくくった暗転からゆっくりと照らされていくかすみ草やバラの花々が取り囲んでいるのは、イギリスの画家ジョシュア・レイノルズ『悲劇のミューズを演じるサラ・シドンズ』に描かれた、肘掛に左ひじを立て容易に揺らぐことのない風格を匂わせるシドンズの姿をそのまま金属に写し込んだような銅像を載せたトロフィーです。トロフィーの土台に取り付けられたプレートには、壮麗な印象を与えるゴシック書体で「Miss Eve Harrington」と刻まれています。暗転があけて照らされたトロフィーの登場と時を同じくして、「サラ・シドンズ賞のことは多分ご存知あるまい(The Sarah Siddons Award for Distinguished Achievement is perhaps unknown to you. )」という演劇批評家アディソン・ドゥイットのナレーションで『イヴの総て』は幕を開けます。
 「演劇界最高の栄誉」と称されるほどに権威ある、第39回サラ・シドンズ賞授賞式はいま、年間最優秀女優賞というメインタイトルのみ残されている状況で終盤を迎えているのです。緩やかなテンポで流れるヴァイオリンやフルートの柔らかい音色と相まって、受賞が決定づけられているなかでメインキャラクターの一人一人に言及していくドゥイットのナレーションは平穏な空気と保証されたハッピーエンドの展開を予感させます。シドンズ協会会長の受賞発表を皮切りに演劇関係者たちの盛大な拍手に迎えられたイヴは、その頬にえくぼを浮かばせながらゆっくりと頭を下げます。「食うものも着るものも、毎日の動静がすべて報道されるイヴ」はすべてを知られているように見えますが、未だ隠れたイヴの秘密があるとドゥイットは主張します。のちにそれを語ることを予言したままドゥイットのナレーションは脚本家ロイド・リチャーズの妻カレン・リチャーズにバトンを渡し、そしてカレンの回想をきっかけにイヴ・ハリントンの物語は展開してゆきます。

 毎晩劇場の楽屋口の前に立っているレインコートを着た女の子の存在にカレンは気にかかっていました。ある霧雨の降る夜、その女の子つまりイヴは礼儀正しく謙虚な調子でカレンに声をかけます。大女優マーゴ・チャニング、演出家ビル・サンプソン、劇作家ロイド・リチャーズの熱烈なファンを名乗り、サンフランシスコから追いかけてから毎晩立ち見でマーゴ主演の演劇『老齢の森』を見ているのだと話すと感銘を受けたカレンの手でマーゴとロイドのいる楽屋に連れ込まれたイヴは、子供の頃から演劇の魅力のとりこだったこと、夫の死やビール工場での単調な労働も乗り越えてマーゴとロイドの演劇に大変感動して救われたのだと話します。(なおこのシーンでは、使用人がバスルームのドアを開けてイヴの話に耳を傾ける3人とイヴの間を通り過ぎるまでの間に、妙に緊迫した沈黙が訪れるのですが、その謎はこの論考の最後に回したいと思います。)イヴが語る苦難を聞いた4人は、夢を追う純粋無垢な悲劇の少女としてイヴに同情を寄せます。イヴへの好感と共に「私たちあの子にとって神様よ」と自慢げに口にしながら、マーゴは自分の付き人としてイヴを雇うことに決めます。
 イヴの成功が約束された未来の結末に加え、かつて大変に苦しんだという過去によって、イヴにはハッピーエンドの物語の主人公として正当な資格が与えられます。マーゴは無垢なる者であるイヴに「母性が目覚めた(big protective feeling)」と言い、彼女にとっての「神」として君臨することを受け入れるのです。
 イヴはマーゴに友人、母、妹、弁護士、医者の役目を果たしたと言わせるほど、神であるマーゴのためにあらゆる仕事を働きました。舞台裏で人知れず鏡の前に立ってドレスを合わせるシーンに、イヴが抱くマーゴへの憧れが見えます。マーゴを神のごとく憧れるイヴは、やがて一挙一動、マーゴの振る舞いを模倣するようになるのです。
 無垢なる者による模倣は、心地よい優越感から、ある一点を機にしてイヴへの嫌悪を募らせるようになります。若さ、というその一点です。詳しく説明していきます。40歳になったマーゴはかつてより、舞台の上で演じる役との年齢差や恋人であり劇作家のビルとの8歳の年齢差に悩まされていました。それは老いることも、死ぬこともない「神」が決して抱えることのできない悩みです。ここで逆説めいた問いを立てましょう。マーゴが神としての優越感を感じるに至ったのはマーゴに対してイヴがどのような位置にあったからだと言えるでしょうか。
 ここで、目的と手段が逆転し、コマーシャル化した慈善行為を批判しながら、貧しい者が一般大衆に愛される理由を指摘したブリュックネールのテクストを一部引用します。

たとえば、バイドアの憔悴しきった子供たちの傍らでポーズをとったソフィア・ローレンを想起してほしい。その時、悪徳カメラマンたちは彼女の写真を撮るために、疲れ切ったソマリアの子供たちをためらうことなく押し除けたのである。(中略)…

ひとはこの飢えた者たち、この身体障害者たちを愛する。ただし、彼らが弱く、無防備で、まったくわれわれの意のままになる限りにおいて愛するのであり、彼らが子供のように純真で、無力で感謝の念を示すよう望むのだ。われわれにたいして心から感謝しないような貧しいものほど、われわれの自尊心を傷つけるようなものはあるまい。……

貧しい者は一人の人間には違いないが、しかし生物学的な欲求に還元され、どうにか生きている状態なのだから、いくらか人間以下の存在でもあるのだ。

(パスカル・ブリュックネール『無垢の誘惑』小倉孝誠,下澤和義 訳. 法政大学出版局, 1999. p.281)

 本筋に戻る前にひとつだけ注意していただきたいことを書いておきます。それは、ブリュックネールは利権を追求するために過去の苦しみを引き合いに出して声高に叫ぶ、無垢を名乗る者たちが存在するために本当に苦しんでいる人々の声が聞こえないという現状を嘆く主張を繰り返しおこなっているということです。決して弱者を切り捨てる論理を擁護しているわけではないという点を強調しておきたいと思います。では、本題に戻りましょう。
 イヴが崇拝者であり続けること、それがマーゴの望んだことでした。ブリュックネールの言葉になぞらえば、「彼らが弱く、無防備で、まったくわれわれの意のままになる」ことをイヴに要求していたのです。それはマーゴが神でもない限り、イヴに「人間以下の存在」であることを押し付ける営みではあるのですが。
 イヴが徹底した模倣の営みは子供のように純真で無力な存在から、徐々にひとりの人間として社会における役割を獲得するようになります。老いという必然に悩むマーゴが二つの社会(舞台上と私生活)で果たしている主演女優、ビルの恋人という役割をゆっくりと奪っていくのです。
 私生活でも舞台上でも自分の役を奪われるのではないかという不安は、批評家ドゥイットにして「マーゴ以来の大天才」「音楽のような火のような演技」と言わせるマーゴの代役として現れたイヴの演技が、オーディションを終えた舞台上で再び賛美を受けた時に最高潮に達します。新人女優ミス・カズウェルのオーディションに大幅に遅刻したマーゴは、ホールの待合室でドゥイットから、マーゴが演じるはずだった役をイヴが巧みに演じたことを聞き、役を奪われてしまったことに絶望します。その絶望を覆い隠すように、何も聞いていないかのような芝居をしてホールに入り舞台に上がるマーゴ。既にビル、イヴ、ロイドの3人が立っている舞台の上に上がると上機嫌なふりで遅刻を謝りながら、イヴが代役を務めたことに驚いたふりをします。やがておべっかや皮肉を織り交ぜた話の途中でロイドに演技がバレて叱責されると、マーゴは怒り狂い、若いイヴに対する嫉妬の感情をあらわにします。また始まったよ、といったような呆れ返った表情を浮かべてタバコをくわえるビルともうひとり、この二人の口論を舞台上に立たされた人物の振る舞いに注目せねばなりません。
 『イヴの総て』は、女優、脚本家、演出家が集って演劇を題材にしているにもかかわらず、観客の姿が一度も映りません。ビルは「観客と演者がいればそれはなんだって演劇だ」と冒頭で言及していましたが、それに従えば、今まで画面上に映っていたすべての人間が演者であり、観客はスクリーンを眺める人々ということになります。
 そして物語上に登場する女優が舞台の上で演じられる場面というのも、このオーディションが終わった後に繰り広げられる自発的なマーゴの演技だけなのです。このシーンに至るまでスクリーンによって隔てられていた演者と観客の関係に、ゆっくりと亀裂が生じます。

 どういうことでしょうか。カメラの前でたった一度彼女が演じたシーン、そこで現実を覆い隠す演技という営みが暴かれてしまうのですがその時まで、マーゴの演技を疑いなく受け入れるビル、イヴ、ロイドの3人は観客の立場にあったのです。ここで、今まで固定されていた演者と観客の関係に相対的な視点が導入されることになります。もしかしたら今もスクリーンの中で、誰かが誰かを観客にとって演じているのかもしれないという懐疑をもたらすような視点です。
 マーゴの演技がバレたとき、誰が演者で誰が観客なのか不確かになったその舞台装置に居合わせたイヴは、舞台上の壁に張り付きながら俯いて、後ろ足でそっと舞台袖へ降りようとします。視線や注目を徹底して避けようとするような振る舞いを見せるのです。
 冒頭のドゥイットのナレーションでのほのめかされた「秘密」が苦境を乗り越えて純粋無垢で謙虚な、誰も傷つけることのない、夢を追いかけたる無実の「イヴ」のハッピーエンドを根拠づける単なる過去ではなく、無垢な少女という役回りよってイヴが覆い隠してきたなにかなのではないか、と思わせるのです。
 結果的にイヴはオーディションだけでなく本番でマーゴの代役を獲得し、大好評のうちにその大女優という名声への架け橋を登ることになります。代役をやり遂げたのちの楽屋で、マーゴの恋人であるビルを誘惑するのですが、ビルは「欲しければ追って取る、寄ってくるのは嫌いだ」と淡々とした様子でイヴを拒絶します。ビルが楽屋から早々に出ていくと、被っていたカツラをむしり取って引きちぎり、鏡台に叩きつけるイヴは今まで見せたことのない怒り狂った表情を浮かべました。半分開いていたドアの向こうで、イヴの二面性つまり無垢の仮面の存在を目の当たりにしたドゥイットは少しばかり得意な表情を浮かべると、ドアにノックをして、今まで何も見ていなかったかのように振る舞います。イヴの演技に対する賞賛ののちに、かつて楽屋でマーゴと執事とリチャーズ夫妻の前で話したイヴの悲劇的な身の上について尋ねるようになるのです。死んだ夫の名前、マーゴを初めて観たという劇場の名前についていくつ聞かれるも、シャワールームの扉の向こうで気まずそうな沈黙を数秒挟んだのちに”That’s right.”、”…Yes.”という返事が返ってくるのみです。戦死した主人の名前を聞かれて少々の沈黙を置いて”Eddy”、名字を聞かれると「シャワーを浴びますから」と話題をすり替える。文字通り、都合の悪い話題を「水に流した」わけです。シャワーヘッドから流れる水の音は、沈黙が語ろうとした真実を覆い隠すように鳴り響きます。映画の終盤になるともう一度だけ、シャワーの音で水に流した真理をもう一度蒸し返されたために、真実を覆い隠そうとする水の音が流れる場面があります。同時にそのワンシーンに、純粋無垢なイヴのイメージに象徴的な決別が起きるのです。
 マーゴがビルとの結婚を受け入れ家庭を持つことを決めたとき、主演女優を同時に引退したために、ロイドの新作劇『天井の足音(Footstep on the ceiling)』でマーゴが演じるはずだった「コーラ」という主演女優の役をイヴは獲得します。今夜の演技を成功させればサラ・シドンズ賞の受賞は間違いない、と思われる中で、いい役を獲得しようとする自らの画策の成就に浮かれ、私生活でもロイドとの結婚が約束されたかに見えることをイヴに打ち明けられたドゥイットは、「今まで騙してきた奴らと一緒にして、俺をなめているんじゃないのか」と脅迫めいた物言いをします。自分が今まで名前を売るために利用してきたと思い込んでいたドゥイットが、予期しない反抗的な発言をしたので、あざ笑うかのような態度を見せたイヴでしたが、かつてシャワールームの扉越しにあるいはマーゴの楽屋でイヴが語ったマーゴの演技に魅了されたサンフランシスコの劇場、戦死した夫、死んだはずの両親、ビール工場を去ったきっかけ、それら一つ一つの虚偽がドゥイットによって暴かれていきます。「エディも 出征も 結婚も嘘だ(There was no eddy, no pirates, you’ve never been married. )」。「サンフランシスコにシューバート劇場はない。(Sanfrancinco has no Shubert thertre.)」。
 元勤めていたビール工場で不倫の関係にあった社長との手切れ金の500ドルのありかを聞かれると、泣き崩れた様子でベッドの上に倒れこむ。ドゥイットの詰問にいくら強い調子で”No!(違う!)””She was a lier!(彼女は嘘つきなの!)”と叫んでも、その場でドゥイットは「おれは立ち聞きしてたんだ」「さっき本人から聞いた」と論駁しようのないレベルでイヴを追い詰めていきます。嘘を演じる気力を徹底的に奪って無力感を突きつけた後に、最終的にイヴに「俺のものだということを認めるな?」という脅迫に同意させるのです。

 先ほど、「真実を覆い隠そうとする水の音が流れる場面」としてシーンの導入としましたが、厳密にいうとこれは少し間違いです。泣き崩れる形でベッドに倒れこんだイヴですが、時折強い調子でドゥイットの詰問を否定する時に、ベッドから振り返るイヴの瞳からは一粒の涙も流れてはいないのです。ドゥイットが冒頭の授与式におけるナレーションにおいて語っていた「イヴの総て」とは結局、悲劇的な過去を背負ったヒロインが名誉を獲得するまでのプロセスという物語を指したものではなく、演者と観客の関係性が揺らぎ続けるなかで演者として隠しきった過去や心境、つまり社会が要求する役割の裏にあるプレイヤーの姿だったのです。しかし、批評家であるドゥイットの語る「表と裏」は、彼のナレーションの範疇を超えたとき、彼の手に負えるものではなくなっています。先に進みましょう。
 「俺のものだということを認めるな?」というドゥイットの脅迫に従ったその日の夜に『天井の足音』でコーラを演じきったイヴは冒頭のシーン通り、サラ・シドンズ賞の年間最優秀女優賞を受け取ります。ここで彼のナレーションは終わります。
 授賞式のあと、一人でホテルに帰ったイヴはグラスにウイスキーを注いでいると鏡ごしに自室のソファに眠っている若い女の姿を見ます。イヴの熱烈なファンを名乗るフィービーという女子学生は、イヴの服や香水を調べるために、清掃員の目の隙間を縫って侵入したといい、その無礼を丁寧に詫びながらイヴへの敬愛を伝えます。その後ウィスキーを注ぎ直したり、玄関で応対をするなど、かつてイヴ自身がマーゴの付き人として働いていたように振る舞いながら、フィービーはこっそりと、イヴが授賞式で着ていたケープを羽織ってサラ・シドンズ賞のトロフィーを抱えながら、多面鏡の前でなんどもお辞儀するシーンで、映画『イヴの総て』は幕を閉じます。多面鏡の奥に反射して増幅する何人ものフィービーが、視界に収まりきらない数多の女優がマーゴとイヴの演じている役柄を演じていくという果てのない物語の連鎖を象徴しています。『イヴの総て』において、先導者への憧れを掲げてやってくる、無垢を名乗る若い人々はその夢を雄弁に語っています。シャワールームの扉の奥で流れた沈黙が真実を語っていたとするならば、果たして、無垢なる者とは雄弁に語りうる存在なのでしょうか?
 無垢なるものの言葉と『イヴの総て』では流れることのなかった「涙」が意味するところを探るため、ソフィア・コッポラ監督の映画作品『SOMEWHERE』にその題材を移しましょう。

 

 2.3度だけ流れる背景音楽と無垢との決別

 ソフィア・コッポラ監督の映画『SOMEWHERE』は「音」を拾い上げた映画です。ここでいう「音」とは、ありふれたものとして日々溢れ、過ぎ去っていく日常の中で幾度も失われてきた「音」です。それは物語の展開をドラマチックに、ダイナミックに描くために、何かを強調するために用意された踏み台ではありません。実際、『SOMEWHERE』では、緊張感を煽ったり落ち着かせたり、場面の雰囲気や意味を強調するために度々使用される背景音楽が劇中3回しか流れません。そのため観客は、日常にこぼれ落ちた音を拾い上げるように耳をすまします。まるで映画にある日常の音と今まさに身の回りでこぼれ落ちている音が、どれだけ異なったものであるか主張せねばなるまい、と宿命づけられているかのようです。まずは、実際に作品中に登場する音の数々を取り上げてみましょう。
 ロサンゼルスの青い空を映すショットの外側から聴こえてくる飛行機の音、高級ホテル“シャトー・マーモント”のエアコンの音、赤いカーペットの上をハイヒールのソールが沈む音、木のそばでゴールデン・レトリバーの子犬が前胸を少女に抱えられて漏れた息の音、風船ガムの割れる音で暗転するベッドルームのショットなど、人々が、動物が生活をしている時の音がなっているのです。これらの音やそれぞれの生活のショットはほとんどが次のショットに事件の必然的な要因となって悲劇や喜劇となることはありません。『SOMEWHERE』にあるのは事件や偶然、必然といった、物語という巨視的な視座に立ったときに見える抽象的な論理ではなく、1日1日、1秒1秒がただ時の流れという必然の中で、ゆっくりと流れていく、その大気なのです。
 日常とは主人公ジョニー・マルコの日常であり、大気とはジョニー・マルコの周囲を漂う大気です。灰色の空の下、薄赤色の砂が覆うコンクリートは、何度も車が通った後の痕跡にしかその色を見せない。コンクリートの黒色の上を走るのは、それもまた黒色の車で、カメラの前を過ぎ去ったかと思えば、徐々に大きくなるエンジンの音が黒い車が行き場を無くしたようにカメラの前に戻ってくることを物語ってくれます。カメラの前で車が停まり、ドアを開けてゆっくりと降りたジョニーがバンパーの前に立ち止まったところで、オープニング・クレジットと全部で3回のうち1回の背景音楽が流れます。

 オープニング・クレジットのブラックアウトが解けると、ホームパーティーの会場でジョニーが階段を踏み外すショットが映ります。白い包帯を巻いたジョニーの日常はそれによって何か大きく変化するということもありません。ホームパーティ、記者会見、車の運転、シャワー、自室ですするウイスキーの味、生活をかたどる全てがジョニーの周りで単調なままこぼれ落ちていきます。『SOMEWHERE』には合計10回、(それぞれ上映開始から27分,33分,38分,45分,48分,54分,70分,86分,90分)電話で会話するショットがあります。仕事やルームサービスの連絡などビジネスに関わる電話はかかってきますが、元妻のレイラなどにかける電話はいつも自分からかけています。ジョニーはハリウッド俳優で甘い顔立ちの色男なので、女性にしばしば手を出しています。一夜限りの愛を続けて自己承認欲求を満たしながらも、ケータイからメールを受診する着信音が鳴るときは、必ずそれは関係を持った女性からの怒りの文言なのです。

8:48
Why are you such an asshole?
“どんだけ嫌なヤツなわけ?”

22:33
You think you’re such hot shit, don’t you?
“イケてる男気取り?”

54:57
What’s your fucking problem?
“あんた どうかしてる”

 メールだけでなく直接にも、一夜限りで関係を断つジョニーに幾人かの女性が憤る場面があります。イタリアのホテルで偶然居合わせた女性に「これっきりで終わりにするつもり?」と詰問されたシーンや、持ち家を持たずホテル暮らしを転々と繰り返す生き方にも、インスタントにやり過ごして生きてきたジョニーの有様が見てとれるでしょう。使い捨てのような1日1日を過ごしていると、別れた妻が二人の間にある娘クレオを置き去りにしてロサンゼルスから去ってしまいます。「一人になりたい」と言い、二週間キャンプまでの間クレオの面倒を見るように一方的に押し付けたまま、切られた電話から、ジョニーと娘がそれぞれ乗り越えるべき「無垢の誘惑」という障壁と立ち向かうようになるのです。ひとまず、ジョニーが何を無垢に求めているのかを探っていくことにします。
 白いシャツ、黒いジレ、太くて黒いネクタイを首元までかっちり閉めた50代半ばを思わせるメガネをかけたハゲかけのおじさんが、フォークギターを抱えてエルヴィス・プレスリーの「(Let Me Be Your) Teddy Bear」を歌う。ジョニーが「最高なんだ」と珍しく褒める、この歌の詞の一部分になります。

Baby let me be,

your lovin’ Teddy Bear

Put a chain around my neck,

and lead me anywhere

Oh let me be

Your teddy bear.

(ベイビー 僕を君のテディベアにして

首に鎖を巻き、何処へでも連れてって

君の大事なテディベアにしてよ)

Baby let me be, around you every night

Run your fingers through my hair,

And cuddle me real tight

(毎晩 君の隣で眠りにつかせて

髪を撫でてぎゅっと抱きしめて)

Elvis Presley ’(Let Me Be Your) Teddy Bear’

 鎖に繋がれたテディベアのように、他人に求められるがまま、誰にも責められず、誰かに所有されていたい。ジョニーは責任を恐れているのです。それは過去の労苦を持ち出して被害者を名乗るものたちが常に避けているものです。彼らは成熟することでいつ加害者になるかしれないという状態を恐れています。ジョニーが被害者として悲鳴をあげないのは、すでに彼が複数のメールで「加害者」としてのレッテルを貼られているからです。加害者のレッテルを貼られたものは、常にその返済に駆り立てられます。
 ジョニーにとっての鎖、それは左腕のギプスです。クレオを始め多くの知り合いが白いギプスの上にマーカーでサインを記しています。ジョニーは左腕のギプスによって、誰かのものであり続けるという無垢な自己アイデンティティを達成したのです。骨折が完治し、そのギプスを外したときに、甘い無垢の誘惑から抜け出すことを求められます。母を恋しく思う娘のクレオも同様に、母のものであり続けたいという無垢への願望を抱いています。二人がそれぞれの無垢に別れを告げたシーンに注目してみましょう。
アメリカのロックバンドThe Strokesの一曲”I’ll Try Anything Once”がボーカルのジュリアンの少ししゃがれた声色で、悩ましげに囁くように鳴り響いている。角の取れた柔らかい電子音が一息に伸びるたび、夢の中に音もなく吸い込まれていくようです。この一曲が鳴り響くのは、ジョニーとクレオが二人きりしかいないプールの中でお茶会ごっこをするシーンです。ここには水の流れる音はありません。ただ水の中で泡の音以外に、この曲が流れるのです。オープニングとエンディングを除くと一度だけここで流れる背景音楽は、水中のシーンから切り替わると、プールサイドでロイヤルブルーのビーチソファに仰向けで日光を浴びる二人のショットになります。ここでゆっくりカメラは遠ざかっていきます。隣のビーチソファに座るおじさんやおばさん、プールサイドを歩く若い女性を映しながら。被害者と加害者同士の息苦しい、無垢だけが救いのあの世界から、隣人のいる世界に舞い戻ったのです。

 無垢に救われる被害者意識の世界から、隣人同士の世界へ。

 

参照文献

パスカル・ブリュックネール『無垢の誘惑』小倉孝誠,下澤和義 訳. 法政大学出版局, 1999.

ブリア-サヴァラン『美味礼讃. 上』関根秀雄,戸部松実 訳. 岩波書店.1967.

モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修 訳. 筑摩書房. 1997.

『広辞苑 第6版』新村出 編, 岩波書店, 2008

文字数:14432

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