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ネ甲話批評宣言

 結末がテクストを規定する。エウリピデスの『ヒッポリュトス』は社会に所属する個々人が成熟にともなって純潔を失わねばならないその必然を純潔を貫いた主人公の死によって語り、安部公房の『砂の女』は更新された日常がかつての希望を覆い尽くすその生の無常を語る。結末は必ずしも主人公の変容や作品の最終行を指すわけではない、それは編集者の締文、あるいはため息とともに紡がれる読者の感嘆である。テクストは読まれたそのとき世界と接続して、そのレイヤーを移行、新たなテクストを紡ぐと言ってしまえば「テクストの全体」は常に更新される広大な視水平線の彼方で神の住処である天(空)との間の境界に溶ける太陽である。

 太陽は一点に留まることを知らない。常に動き続け、姿を消したと思えば我々の背中を照らす。「陽はまた昇る」という80年代メロドラマの香り漂う文言はその効力を失効して久しい。陽が昇るたびに太陽を名付けねばならなかったというのに我々は。 

 *

Elle est retrouvée.

Quoi ? – L’Eternité.

C’est la mer allée

Avec le soleil.

(見つけた。

それは何か、永遠。

太陽に溶ける海。)

(’L’Eternité’. Arthur RIMBAUD (1854-1891), cited from “Une saison en enfer”)

 「天(空)との間の境界に溶ける太陽」は言うまでもなく、アルチュール・ランボーの「永遠」を想起させる。太陽に溶ける海は瞬間でありながら、今ここにしかありえない「永遠」である。「永遠(を感じさせる瞬間)」は1日に一度、日が登るたびにのみ瞬間が訪れるわけではない。それは間隙の暇を縫うように日常に表出する、その瞬間は死である!
 連綿と続く日常と退屈は瞬間という時空間の有機体に生じる死によって新たに息を吹き返す。復活によって再び、その生は新たな彩と輝きを放つ。瞬間をのぞみ、瞬間に意味付けられる人間の生。この文脈においても人間は受難を運命付けられた存在である。
 「人間は」と言った。神はどうだろう。神の子イエスだけではない、古代エジプト神話のオシリスは弟セットに殺められたのち幽界の王として復活した。古代ギリシャ神話の狂気の神ディオニュソスはその母セメレーの死後、ゼウスに母胎から取り出されて父神の股のうちから産まれた、いわば受難の神である。かの有名なカラヴァッジォの『バッカス』がぶどう酒を携えているように(ぶどう酒はキリスト教以前から血とその受難を度々物語っている)。エウリピデスの『バッカイ』において、人間に化けたディオニュソスがテーバイの王ペンテウスに追放されたのちに訪れたペンテウスの死と同時に訪れたものはなんであったか。狂乱である。狂乱こそがデュオニュソスの司る領域であり、常にその狂乱は集団的で伝染的だ。付け加えるならば、ディオニュソスの異称「バッコス」は神自身のみならず神に憑かれた男を指す。(「バッカイ」はその女性複数形である)正気を捨て狂気となったバッコスは神になるのだ。そしてこの変容は仮面(πρόσωπον)において表出する。
 仮面は、その奥にある表情を蔽いかくす。それはまるで分裂症患者が「にせ」自己(『ひき裂かれた自己』R・D・レイン)によって内的自己をひた隠しにするように。分裂症患者は仮面によって自己完結した世界を作り出し、本来は他者に依存するアイデンティティを独力で統御する。その意味で彼らは自由である。と同時に、孤立する内的自己を抱える彼らは孤独に苛まれる。内的自己の孤独は不能感や空虚感を生む一方で同時並列的に生じる他者の眼差しへの恐怖に脅されながら分裂は加速する。
 要するに、仮面はその奥にひそむ「もの」との断絶を生む。生じた断絶は私という「存在」がそれ自体で完全に統一されない、その残酷な事実を提示する。マルクス・ガブリエルは「反省」の主体が常に反省において構築された世界から除外された存在であり、その反省の論理から除外され必然性を享受し得ないという「偶然性の必然性」の土壌を神話と呼んだ。ガブリエルによれば、「偶然性を取り消す究極的なやり方、つまり、全領域の領域というパラドクスを抹消する究極的な方法は存在しない」。(『神話・狂気・哄笑――ドイツ観念論における主体性』マルクス・ガブリエル , スラヴォイ・ジジェク, p.126, Ν´υξ叢書)「神話とは、我々が信念の網の目へと、つまり、その内部からのみアクセスできる信念の体系へと投げ入れられているという無情な事実である。」要するに、神話を完璧に分析し、論理的に解体しようとする試みは必ず失敗する。どんな「経験」も「言説」も信念の体系に内包される。であるならば、我々は仮面の断絶において改めて生きるすべを探さねばなるまい。

 しかし「にせ」自己という仮面を被った分裂症患者が見たあの孤独に勝る快楽などあるのだろうか。ここで受難の神である。ディオニュソスの狂乱にあるバッカイの装着する仮面はその神への変容を物語る。反利他的でありながら集団的なあの狂乱が生じるのである。仮面によって人間は神となる。仮面において分裂にあった人間が仮面を共有して集団の快楽にあずかる。
 テクストにテーマとなる神、モチーフを見つける、神を論駁し、殺す。そのテーマがテーマたり得ないそのテーマの死を語った上で、もう一度神を蘇らせる。

参考資料

エウリーピデース『バッカイ : バッコスに憑かれた女たち』逸身喜一郎 訳、岩波書店、(2013)

マルクス・ガブリエル, スラヴォイ・ジジェク『神話・狂気・哄笑――ドイツ観念論における主体性』 大河内泰樹 (監修), 斎藤幸平 (監修), 飯泉佑介 (翻訳), 池松辰男 (翻訳), 岡崎佑香 (翻訳), 岡崎龍 (翻訳), Ν´υξ叢書(2015)

R・D・レイン『ひき裂かれた自己: 分裂病と分裂病質の実存的研究』阪本健二,志貴春彦,笠原嘉 共訳、みすず書房(1971)

丹生谷貴志『光の国 : あるいはvoyageenvain』朝日出版社、(1984)

『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』ロゴヴィスタ、(2010)

文字数:2498

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