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Welcome to the UNKO world

 高校三年生の春から塾に通い始めた。その塾にはホワイエのような飲食スペースがあったが、不気味なほど静かなので、あまりそこで飲食をしている人はいなかった。だけどたまたま菓子パンなんかを食べている人がいると通り過ぎながらどうしても見つめてしまう。
 ある時、河合塾の鮮やかなカラーのチラシに大きく載っていた過去の受験生のアンケートのデータで構成された勉強時間のグラフは大学受験を制覇するには1日平均8時間勉強する必要があると残酷に語っているぞという担当教員の脅し文句に「もっと勉強時間が必要ですね」と思いつめたように囁きながら、確かに私は1日3時間だけ勉強した7%にはなれない気がする、と思った。時間をかけないのに成績がいい人間こそがかっこいいと思っていた当時の私は、新しいかっこつけ方を探さなくてはならなかった。そこで私は「ご飯を食べるところを見られない」という
 かっこつけ方を思いついたのだった。高校三年生という多感な時期だったということもあり、当時の私は基本的にご飯を食べているところを見られるのは恥ずかしいことだ、と考えていた。『ハウルの動く城』のハウルにもご飯を食べるシーンはないし、「本当にかっこいい人はご飯を食べない」とも思っていた。
 こうして私は一年間「誰にも見られないところで晩御飯を食べる」というミッションに奔走する。

 ボードリヤール曰く、消費活動は欲求の単なる充足ではなく、記号化されたモノを通じた差異化の行動である。特定のコードを所属員が共有する社会において、コードを通じて記号化された消費の意味に基づき、消費を実践して所属員との差別化を図る。ボードリヤールのこの図式に依ってみると「ご飯を食べているところを見られない」という行為は、特定のコードに基づいた差別化の営みに他ならない。豊かさの記号としての「ピアノ」等等。差異化の消費活動の具体例は枚挙にいとまがない。
 人並みの水準に達することが社会的価値であり尚且つ人々の目標とみなされていた、いわゆる大きな物語的な「画一型消費」の資本主義形態はその資産の普及によって階級社会における意味を失い、ボードリヤールの「差異化の消費資本主義」というフェイズに移行したと、ひとまずはそういうことにしよう。コンビニエンスストア、インターネット発達以後の消費者主権的な資本主義において人々の消費活動の実態は大きく変化したとはいえ、人々がそれそれの消費に特定のコードを持っていることは共通している。たとえそのコードが現代においてどれだけ分化してしまったとしても、である。
 ただ、少なくとも現代先進工業国においてほぼ共有しているかと思われるコードが存在する。「糞尿への忌避」である。

 人々は用を足してのち、水洗トイレのレバーひとつでそのモノを眼前から消失させることができる。しかし当然ながら、うんこ(当論考にはこの単語が多出する。ご容赦願いたい。)は物理的に消滅し、世界から消え去ったわけではない。それは下水道を流れ、水再生センター(かつての下水処理場である)へと流れつき、そこで初めて、沈殿などのプロセスを経て水が清浄化されるのである。当然ながら、このプロセスにはエネルギーもコストもかかる。剰余価値の拡大を目指す資本主義が抱える問題の一つに、人類の重ねた絶え間ない搾取の歴史が生み出した環境汚染や自然資本の減少があるが、本当に人類は自然に対して搾取するのみなのであろうか。
 否。ここで糞尿である。糞尿は人類学的ないし精神分析学的なアプローチから人間のイデオロギーの核を突くような意義を度々抱える点で非常に興味深いが、ここではあくまでも生物学的なアプローチにとどまることとする。それにしても糞尿は臭く、汚い、どうしても近寄りがたいもののように思われる。
 伊沢正名のエッセー『くう・ねる・のぐそ』において、伊沢はキノコの与える森林の生態系への大きな影響に感銘を受けたと記している。キノコやカビなどの菌類は動物の死骸や枯れた植物の腐敗を促進させデンプン質など有機物を分解したのち、ビタミン類など無機物を作り出す。死や腐敗という個の終焉の先に新しい生命を紡ぐキノコの生体に大きな感銘を受けた伊沢は自然という一つの大きなサイクル、共同体への参入手段として「野糞」を選択した。糞尿は植物の育成のみならず、キノコが育つための貴重な土壌なのである。(ちなみにナキウサギに食糞(しょくふん)という習性があるように、動物においても糞は生きていくために貴重な資源となりうる)
 キノコが有機物を分解し、無機物を作り出すことで世界の生態系を循環させる動きに一役買っていることがわかる。既存の資本をどれだけ多く搾取し、そこからどれだけ剰余を生み出すかという加速のみの競争になってしまいがちな私的所有制度にもたらされた人間中心主義の消費資本主義において人間のうんこが抜け落ちた理由。それはうんこをすることが「恥ずかしいこと」だからである。これこそ、糞尿への忌避というコードを支える感情(慣習といったほうがいいだろうか)であり、画一的に糞尿は恥ずかしいことだと考えることで共同体の慣習を生み出していくこの方式は、差異化の消費の前段階である大きな物語形式の画一型消費そのものだということに注意しておきたい。

 では、未だ画一型消費のフェイズに滞っている糞尿のイデオロギーをステップアップ、もしくはモードチェンジするために消費資本主義が辿ってきた道筋と人々の価値観の変化を振り返ろう。
 まず、消費社会主義におけるボードリヤールの記号型消費に説明されるコード(体系)に支えられる消費活動の意味が、「こうではない状態」でありたいという否定のニュアンスを抱えている点に注目したい。画一型消費の場合は、豊かさの記号であるピアノを持っていないために豊かであることを証明できない現状への抵抗、差異化消費の場合は、「みんなと同じでは嫌だ」という現状の否定性を帯びている。それは常に、未来を今よりも良いものとして捉えるために生じる自己否定の精神である。ここで、産業技術の発展にしたがって変化していった、第一次産業、第二次産業、第三次産業の割合も説明することができる。平成22年国勢調査時点においてすでに、第三次産業の全就労者の割合は7割を超えている。一方の第一次産業の4.2%という数字は、やはり労働者の第一次産業への抵抗感を抜きにして説明することは難しいだろう。生産に関わることへの抵抗感の分析はここでは深く立ち入らないとして、言うまでもないことかもしれないが、消費を促す「恥ずかしい」という感情と同様に、「職業」においてもやはり「恥ずかしい」という感情が強いファクターとして働いている。
 ここで野糞の話に戻ろう。伊沢は誰に野糞を見られてもいいという吹っ切れた価値観の持ち主ではない。野糞の際、彼は必ず野糞に最適な場所探しをする。そして野糞をしている最中でさえ、常に「バレるかもしれない」というサスペンスと背中合わせなのである。彼は野糞の趣味(?)を公表してから「ウンチの伊沢さん」と呼ばれるようになって野糞をし続ける覚悟がより固まったそうだが、彼にも若い頃があったし脱糞を見られて恥ずかしいと思う感情はある、ということだ。ここで問題になるのは、誰しもうんこをする、という事実である。我々はあたかも「私はうんこしませんよ」という顔をしてうんこから目を背けている。日常生活においてほとんど語られることはなく忌避されている「うんこ」を饒舌に語る描写にこそ、資本主義の次のステップのヒントが隠されているとみて、ここで伊沢の野糞体験を一つ引用したい。

身も心も解放され、のんびり快楽に浸っていると、はるか下の方からパタパタパタパタ……という音が聞こえてきた。(…)とにかく、ヘリコプターに乗っている人がわかるくらいの近さだった。私も度肝を抜かれたが、ヘリの方も相当慌てたに違いない。谷から尾根に出たとたん、目の前にスキー板を立てて尻をまくり、ウンコをしている奴がいた。心なしかヘリコプターもぐらついていたように見えた。

(伊沢正名『くう・ねる・のぐそ : 自然に「愛」のお返しを』山と渓谷社, p.126)

 ここで注目して欲しいのは、彼の体験描写の範疇である。ヘリコプター越しにうんこを見られる、という刺激的な体験を冷静な筆先でもって、驚きや恥ずかしさといった主観的な感情のみに頼らず、その状況全体の描写を描くというその視点の広さである。
 資本主義は画一化、差異化のプロセスを経て、ライフスタイル志向の消費へと移行したと言われる。ライフスタイル志向の消費とは『anan』『BRUTUS』『クロワッサン』などに挙げられる雑誌が「売り手が買い手に製品コンセプトを提案し」( 松原隆一郎『消費資本主義のゆくえ : コンビニから見た日本経済』p.120)売り手の向く方向に買い手を操作するという狙いと重なりながら現れた、生活と密接につながった消費スタイルである。野糞とは、一つのライフスタイルの提案とは言えないだろうか。今まで汚くて臭いからと無視してきたところに、生活全体に内包されるスタイルを作り上げることで部分がまた新しいポジティブな意味を持つ。もちろん、うんこはどこでしても許されるべきだ、と主張したいわけではない。うんこが受容されるためには、人目につかないところで、少しずつバラバラに置く必要がある。(糞尿は同じ土壌に重ねすぎると土壌それ自体の分解能力を超えてしまい、土壌自体が再生不可能なほど黒く腐敗してしまう)素いう、それは消費者主体に移行した後のコンビニエンスストア的な消費資本主義の形態そのものなのである。うんこ、という日常を新たに支える資本主義からのアイデアとしてのコンビニエンスストア的分散消費形式。我々は皆うんこの産み手であり、その意味で第一次産業の担い手であることを避けえない。資本主義が要求してきたのはいかに多く剰余、利益を生むかという問題であった。うんこによって今、いかに分散して資産の土壌を育むかという資本家としての問いが全人類に投げかけられている。つまり、うんこという観点においてのみ、全資本家時代なのである。糞尿の処分に対する回答が側近の消費資本主義への回答となる。

参考資料

伊沢正名『くう・ねる・のぐそ : 自然に「愛」のお返しを』山と渓谷社、2008

松原隆一郎『消費資本主義のゆくえ : コンビニから見た日本経済』筑摩書房、2000

「第8章 産業」 総務省統計局、cited from http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf

文字数:4347

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