同位体との絶縁 ー『ポッピンQ』を巡って
生意気とか欲望は老人よりもむしろ青年のものではあるが、しかし全ての青年のものではなく、たちの悪い青年のものであるのと同じで、一般に耄碌と呼ばれるあの老人特有の愚かさも、軽薄な老人のものではあるが、全ての老人のものではないのだ。(キケロー『老年について』中務哲郎 訳、岩波文庫、p.39)
執政官を輩出していない父祖に生まれた新人(Novus homo)でありながら、元老院の執政官、弁論家として名を残したマルクス・トゥッリウス・キケローは大カトーの口を借りて「老年は悪しきものにあらず」と主張してその饒舌をふるう。老年を嘆き批判する者たちを愚か者と切り捨てて、思慮、権威、見識によって老年は老年にふさわしき恵みと喜びを初めて享受するのだ、とキケローは語る。「肉体を弱め」「公の活動から遠ざけ」「ほとんど全ての快楽を奪い去り」「死から遠く離れていない」ために惨めであるとしばしば咎められる老年は、熱意や勤勉、配慮といった個人の努力によって獲得されるのだ。その個人主義的なストイシズムと道徳の称揚はキケローのみならず当時のストア派の哲学者には広く見られるが、不可避的に過ぎ行く時間の中で、幼少期、若年期、中年期、老年期にそれぞれ適した自然の恵みをその都度取り入れようと試みるキケローの思想は、死の恐怖の克服のために性の喜びを犠牲にする旧来のキリスト教的なストイシズムと、何よりもある一つの点で大きく異なっている。生きる自分に罪悪感を抱いているか、という点である。
人間の存在を悪として捉えるならば、救世主への信仰と自らの生への抵抗は当然の帰結である。19世紀末のイギリス・ヴィクトリア朝の小説家ウォルター・ペイター『享楽主義者マリウス』(1885年)において死の間際にようやく友愛に目覚めストア派哲学者からキリスト教信者への転向を果たした主人公マリウスの思索を辿れば、異教徒として生まれてキリスト教に信仰を捧げるためには死への恐怖が死との融合(つまり当人の死)に取って替えられなくてはならないことがわかる。
では、キリスト教徒にも生まれず、死への恐怖も生の罪悪感も未だ知らない今現在の私にとって問題となるのは何か。それは「どれだけ禁欲を避けてどれだけ生の喜びを謳歌することができるか」これである。
前述したように、キケローは時間の不可逆性という自然法則に則って生の喜びを享受した。熱意、勤勉、配慮というキケロー本人の個人主義的営為でもって、彼は老年の問題を解決したのだ。それでも幾分禁欲的なキケローのストイシズムに私は抵抗を感じる。もしかすると禁欲を抜きにしては社会で生きること自体不可能なのかもしれない。それでは、如何にして禁欲を禁欲と感じずに、社会への参入をなしうるのだろうか。
ダンスによって、である。映画『ポッピンQ』は社会への参入と老いへの恐怖をダンスで、達成し克服した物語である。
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春から父親の転勤で東京に行くことが決まっている、高知に住む中学三年生の小湊伊純は陸上部の最後の県大会での敗北を卒業式間近になっても認められない。得意だった短距離での敗北という現実を受け止めることができず、学校にも、家庭にも心地いい居場所を見つけられない。卒業式の日、彼女は学校の逆に向かう列車に乗る。通勤ラッシュとは無縁のガラガラの列車で伊純が目を覚ました時、背中の大きな窓ガラスには星々が弾けたような美しい海と青空が広がっていた。
駅を降りて砂浜を歩いているとガラスでできたような透明のブロックを拾う。「青春って案外短いがですよ」という後輩からのLINEに駆り立てられて、伊純はブロックをポケットに突っ込みながら駅の改札に向かう。定期券を改札にかざすと、通り過ぎた改札機は突然煙を吐いて、雷がはためく。慌てて向きなおして前方一面に広がった光は伊純を包み込んで、やがてアリゾナ州セドナのボイントンキャニオンを思わせるいくつもの赤土色の岩山と地平線の向こう側まで広がる乾いた大地が眼前に広がる。土俵ほどの大きさと数十メートルの高さを思わせる古びたトーテムポールの塔に乗っていた伊純は「同位体」を名乗るポコンという一匹のポッピン族に出会う。ポッピン族は時の種がバラバラに別れた時から生まれた「キグルミ」という怪物から逃げ回りつつ、時の谷の平和を再び取り戻すために、5人の女子中学生の力を求める。キグルミに捕まえられてしまうと二度とポッピンには戻れないというポッピン族たちは仲間を失いつつも、世界を救う旅と踊ることをやめない。
通学圏外への旅という、中学三年生にしては思い切った逃避行の旅が「時の谷」という異世界の入り口として働き、伊純ともう4人の女子中学生たちは崩壊を迎えつつある時の谷を救うためにダンスの練習を始める。ポコンたち含むポッピン族の長老によれば、海で拾ったガラスの塊は6つ全て集めると「時の種」となり、その大きな力はポッピン族のレミィの祈りとダンスによって世界の救済へと導くらしい。
世界を救うのは5人全員のダンスである。5人それぞれのパートナーである同位体は常に彼女たちの考えていることを知っている。そのため劇中では、それぞれが偽りなく心を開く強制装置として、同位体は短期的に親睦を深める大きな役割を果たしている。お互いの心を打ち明け合う5人は、全員元いた世界に何らかの不満を抱えており、本当は帰ることすら望んでいないことに気づく。時の谷の緩やかな時空の流れで拡張された、10日間という卒業式までの時間を過ぎてしまえば、彼女たちは元いた世界には戻れなくなってしまう。5人はそれぞれ抱えていた悩みを打ち明けたのちに、元いた世界に戻ってそれぞれの問題を乗り越えることを誓う。
彼女たちは時の谷という外界から独立した私的空間の中でかつての自分を振り返っている。孤独にふけって振り返る時間が長すぎてしまうと、もう元の社会には戻れなくなってしまう。一度は時の谷の逃避に心地よい安堵を覚えていた彼女たちであったが、ダンスという共同作業によって、再び前を向いて歩くことを志すのだ。
みんなでリズムを合わせて調和を作るために、音楽と振りを覚える「ダンス」。集団でのダンスという営みの中で必要とされる協調性は、メンバーとの間の音楽と動作の共有で達成される。時の谷の服を身にまとい、特定の音楽と振り付けを覚え、繰り返す練習で完成させていくダンス。それは外国語の習得と、まさに本質を同じくする。バーナキュラー(vernacular)としてのダンス。そして常に即興的な、既存の動作への適合の営みは、すべての言語がそれぞれの音声に意味を持ち、意味の連続が織りなす文脈、そして文脈が喚起する派生的な意味が常に即興として生まれることを示唆する。4分間のダンスにおいてすべての動作に意味がある。瞬間生まれるダイナミズムのみならずすべての動作が前後関係を持ち、常にそれぞれのポーズはその規範から新たに意味を派生させてしまう。ダンスは常にその瞬間の意味を生み続け、規範の境界を横溢するバーナキュラーとして機能する。
練習を通じて自分を見つめ、共に踊る喜びを覚えた少女たちは「勇気のダンス」を完成させ、すべての時のカケラを集めて時の種を完成させる。その瞬間、時の種は光を放って姿を消してしまうため、それが奉納されているという時の谷の中心地「時の城」へ向かうことになる。
時の城へ侵入するため、伊純は今までの自分を認めるだけでなく自分を変える覚悟を要求される。城の裏口から侵入しなければならない彼女たちは、非常用の橋を掛けるために100mの老朽した橋を11秒88で渡らなければならない。伊純の脳裏に浮かんだのは、県大会のレースでライバルが出した100m11秒89のタイムボードを部員たちで囲む記念写真だった。自分自身を見つめるというステージを乗り越えた伊純は、「自分を変えられるのは自分だけだぞ」「他に誰がやるっていうのよ」と激励を投げかける仲間の信頼によって、かつての自分を認めるだけでなく、それを乗り越える勇気を得る。100mを時間内に走りきり、彼女たちは時の城の頂上に到着する。
そこにいたのは姿を消した5人の女子中学生の一人、都久井沙紀ともう一人の未来の沙紀だった。未来の沙紀はかつてダンスチームの仲間からつま弾きにされた経験から他人を信じられないまま大人になってしまい、「永遠の今」によって変わることのない美しさと、時の掟からの解放による自由な生き方を謳う。現実を目の前にすれば自信が必要になる、現実を知らない奴に現実を知らしめてやりたいと叫ぶ未来の沙紀は、時の種の力を利用して伊純を急激に成長させ老人にしてしまう。老人になった伊純は「一緒に踊ろう」となお、沙紀の手に手を伸ばす。「ひとりぼっちは嫌」と、伊純の勇気に感化されて再び人を信じる決心をした沙紀を合わせた5人は、振りや音楽だけではなく、心も合わせる「奇跡のダンス」を踊りきる。奇跡のダンスとポッピン族のレミィの祈りによって時の谷は崩壊を回避し、世界は平穏を取り戻した。
ポッピン族たちを追い詰め、駆り立てるキグルミの正体はかつてのポッピンたちだった。踊りを忘れたポッピンたちはキグルミの執拗な圧力によって、キグルミに姿を変えてしまう。私はいつキグルミでいつポッピンなのかわからないが、なるべくポッピンでありたいと思う。
日常をダンスのように生きること、それは既存の振る舞いに適合するためだけでなく、心を通じ合わせるために隣人とつながることである。
時の谷で5人の女子中学生が出会った、5人それぞれの同位体に、自分の考えをいつでも察してくれて、受け止めて、鼓舞してくれる人間に出会うことも望まない。同位体はもう一人の自分、歩みを止めて振り返った時に自分に語りかけるメタ自己に他ならない。自分の鏡像に溺れる心地よさから踵を返す決断の先に、ダンスの喜びがあるのだ。
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