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怪物の主題による変奏

 自分の行動を舐めるように見つめ回す自意識は、あらゆる求愛行為を牽制する。いま手を繋いで「キモくないか」「ウザくないか」「重くないか」などと警告する自意識は相手の恋愛感情を揺さぶりたいという願望や色男のこなれた手つきへの憧れとせめぎ合う。この時どちらが勝っても、結局帰りの電車で押し寄せる自意識の叱責には溺れることになるのだからこの葛藤には意味がないと言ってしまえばそれまでで、「黒歴史」やら「カン違い野郎」「イタイ」という言葉の地雷をどうにかすり抜けたいというささやかな望みを忘れていられる間にこそ心地よい求愛がなされうるのだから、疑惑から逃れた忘却の瞬間に生きる希望も託したくなる。
 手慣れた奴が恋愛上手なのは自意識から離れて相手の心情を観察できているんだから当たり前で、その意味において「恋がうまくなるためには心を捨てなきゃいけない」「夢を見せるためには夢から覚めていなければいけない」という言葉は実にもっともらしく響く。大量の反省点が記されたiPhoneのメモを食い入るように眺めながら、相手の体調を気遣う文面を考えているうちに早起きのしわ寄せでとてつもない眠気が襲う。その時初めて、投げかける言葉と心情の乖離、あなたと私の間に埋めようのなくなってしまった距離に気づくのだ。うまく演じ立ち振る舞うために心臓を捨てた彼は、愛する人に愛されるために始めたことなのに心から恋せないというパラドックスに気づいても知識や思考、知的好奇心で自己完結した甘い鏡像の世界に浸り続けてしまう。
 相対化した物語においてそこに生きる人間はより狡猾に立ち回り、その文化について多くを知りそして語ることができるかもしれないが、活動の目的を与える信仰を成り立たせる神話の体温はもはや残されていない。メタ的な視点によって自分の物語に冷めてしまった私たちから愛や信仰が失われていても、ひどい空腹には耐えられないし、ずっと一人ぼっちでいることにも耐えられないから飯を食うし呼びかけられた声にも振り返ってしまう。
 スタジオジブリの宮崎駿監督作品『ハウルの動く城』はこうしたナルシスティックな自意識をめぐった、現代における偶像崇拝の神話である。

  青白い霧に包まれてぶち込まれた煙突から蒸気を吹き出す、金属やら木製やらのガラクタをまとめてそのまま固めたようなグロテスクな容貌の居城がのしりのしりと歩くたびに金属同士の擦れた金切り声をあげる。霧が晴れると美しい一面の草原に群れる羊たちと峰の荒い山肌の向こうに見える青空が牧歌的な平和を物語る一方でそこに収斂されない動く城の存在感と違和感を匂わせつつ、この映画は始まる。
 『ハウルの動く城』に登場する若く美しい青年ハウルは優れた魔法使いであり、彼と街で出会った18歳の少女ソフィーはその美貌と振る舞いに心を奪われてしまう。その後ソフィーは荒地の魔女と呼ばれる魔法使いに90歳の老婆の姿になるという呪い(のろい)をかけられてしまい、その呪いを解くためにハウルの住む動く城へと向かう。ここから物語のストーリーが展開していくわけだが、耳がすっかり隠れるほどの長く色っぽい髪や紳士なソフィーへの対応、料理の手つきにも見えるように、劇中におけるハウルの振る舞いは洒脱でこなれており、それは自信に満ち溢れているようで格好いい。加えて彼は、内心不安で臆病なんだと弱虫な面を時折見せるために見る者はその弱さに共感を覚え、リアリティのある近さを感じながらも憧れの偶像としてハウルを認識し始める。
 掃除婦を名乗って城に住むことを受け入れられたソフィーは、廃墟と見紛うほどに大量の本や食べ物で散らかって汚れきった城を清掃したときにどうやら風呂場の清掃で棚の瓶の位置も動かしたようで、ハウルの髪の色は金からオレンジに染まってしまう。「ソフィーが棚をいじくって呪い(まじない)をメチャクチャにしちゃったんだ!」と大声を出して喚いたのちに「美しくなかったら生きていたって仕方がない」と絶望し、緑色の粘液を体から噴き出しながら失意に溺れて俯いてしまう。

 自信に満ち溢れたハウルの振る舞いの源泉は閉鎖した自己肯定である。鏡台の前で行われた呪いという強烈な自己暗示によって自己存在を肯定していたハウルは、その鏡像の美しさを肯定できなくなった途端に自身の生を肯定することができなくなる。確かに長い前髪で他者の眼差しを遮ってナルシシズムの鏡像に閉じこもり、円循環的に完結した自己肯定をなしていたハウルは自意識の叱責を容姿への自己愛でもって独力で押しのけたと言えるだろうが、それはシャボン玉のように円循環の世界に少しでも歪みが起きた時たやすく壊れてしまう、儚くて危うい自己肯定の形である。
 この鏡像に閉じこもり社会から切り離されたハウルの居城は、知識とその知的好奇心によってその独立を強固にしている。はじめソフィーがあのグロテスクな城のリビングを見回した時に見えた、あのとっちらかった本の山と火の悪魔カルシファーの存在は机上の知識に包まれた孤独と知識や理屈をこね回して接近してくる公的な社会から逃げ回っているハウルの動く城の姿の写し絵だろう。「あんたの魔法は一流ね!」とソフィーに賞賛されたカルシファーが真っ赤にして喜んだ様子を想起すればなおさら、知識と鏡像の世界に引きこもってナルシシズムに浸る理屈っぽいが繊細な人間を目の当たりにしているという実感は確信に近づく。まさにそれは恋愛で巧みに立ち回るために愛の熱を失っていった「彼」そのものではないか。彼らは知識によって肥大化し相対化された物語において、円循環的な鏡像という甘美でナルシスティックな空想に閉じこもっているのだ。

 

「ハウルっていったいいくつ名前があるの?」

「自由に生きるのにいるだけ」

 少女ソフィーの魔法使いハウルに対する恋物語から始まった『ハウルの動く城』は戦争というまさに公的な領域への強制的な連行によって戦争物語としての様相、裏文学から表文学への転換を見せるかに思われる。劇中では少なくとも「ペンドラゴン」「ジェンキンス」という名前を持っていることが具体的に描写されているが、「自由に生きる」という願望のもとで身分を複数持ち、戦争が始まってもどちらの軍隊にも力を貸さないハウルは空爆を起こす爆撃艦を味方的の区別なく「人殺し」と呼び、彼らへの殺略に加担するようになる。
 ハウルは敵味方というロールメントを要求する戦争という表社会の構造に引きずり込まれまいとしている。ソフィーの愛の告白を受けても、「もう遅い」とそれを拒否するハウルは知識で閉鎖された世界から飛び出してから、愛を知る前に傷つけることを知ってしまったのだ。爪で掻きあい、傷つけ合う戦争、戦いが溢れる世界を知ってしまったためにそれからは誰も信じることができず、手を取ることができない。実際ハウルは、夜中戦場に飛び出すときは禽獣の姿をしているが、最後の変身において腕は翼に飲み込まれてしまう。
 しかしながら、やがてソフィーを守るべき存在と考えるようになったハウルは自宅に降りかかってくる爆撃を指して「敵の空襲」と呼ぶようになる。彼は子供のように社会からの逃避をやめて、敵味方のある社会構造に組み込まれる一存在になることを受け入れたのだ。
 ハウルはここで自身の国のために戦う「戦士」という属性を獲得するが、ここで全体の秩序や幸福のために殺戮を犯す戦士という存在が不可避的に抱えざるを得ない「穢れ」について論じる上で、比較神話学者ジョルジュ·デュメジルが論じた戦士機能の宿命における罪、穢れの不可避性とそれを正当化する言説の一部を引用したい。

詩人も読者も、彼らが天則に一致しているかどうかを議論するつもりなどないのである。それはおそらく彼らが善良だからであるが、そのことは重要ではない。つまり、彼らの行動の筋書きは、われわれの西欧の伝説の善良で聖なる奇跡をなす人物の場合と同様、正義よりも慈悲の筋書きなのである。
(ジョルジュ·デュメジル『デュメジル·コレクション4』 丸山静,前田耕作 編, p.366)

 ここで天則と位置付けられている概念は、「宇宙的で儀礼的でもある道徳的秩序」つまり人は殺してはならない、という普遍的でありそうな規則を指している。デュメジルは、戦士が必然的に負う穢れの存在は、正義という至高者の道徳に代わって慈悲という英雄の道徳が称揚されることで人間の立場においては肯定されうる、と主張しているのだ。
 厳格な正義のもたらす冷酷な決定論から人間性を導入したのはインドのヴェーダ神話における英雄神インドラであったが、英雄の道徳による人間性の恩寵をハウルもまた享受していたと私たちは考えるべきだろうか。
 否。『ハウルの動く城』において、ハウルとソフィーの恋愛の成就と同時に戦争は終結を迎える。しかし戦争に終止符を打ったのはハウルではなく、かつての恩師であった王室付き魔法使いサリマンの「このバカげた戦争を終わらせましょう」という一言だった。戦争が勝ちも負けもなく誰かの手によって終わりそれ以降もハウルたちは空を飛ぶ城の中で悠々自適に暮らす、という結末はハウルが社会に参与する以前の子供であり続けることを許されたことを意味する。自己愛という鏡像の自己肯定から脱却して誰かを愛せれば公的な社会からは独立していられる『ハウルの動く城』の世界においては、もはや英雄の道徳すら欠如していると言わざる得ない。本来不可逆的な子供から大人への転移を遡り、子供であることを許されたハウルが生かされた神話規範をここで「若者の道徳」と呼びたい。

 例えば音楽メディアのセールスでメンバーの若さを打ち出す文句は枚挙に遑がないように、音楽以外の様々な文化領域で顕著に見られる若者崇拝の規範を偶像化した神話として『ハウルの動く城』が存在する。若く、穢れを知らない偶像を崇拝する現代神話。それは公的な社会の重圧から逃れ続ける理想図として、憧れという私的に独立した閉鎖空間へと誘う鏡像として観客の眼前で機能している。

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