無臭の花畑から沈黙の花畑へ
チューリップ、フヨウ、水仙、芍薬、アネモネ、カルミア、リコリス、山茶花、ストレリチア、トリトマ、躑躅、バーベナ、石楠花、薔薇、桔梗、カンナ、菖蒲、鈴蘭、なんでもよい。
Googleの画像検索エンジンに「芍薬」を打ち込む。ディスプレイ一面には整然と真四角に切り取られてそのまま貼り付けられた芍薬の画像がいくつも現れる。いくらスクロールしても延々と現れる平行に並列に並べられた画像群、それらは「芍薬」の花弁が白やピンク、赤色で八重咲きの、ひょっとすると柱頭は鮮やかな黄色である植物であることを示す。しかし、透き通る青さに鈍い甘い香りが顔を出したり、触れると潰れてしまいそうな柔らかさ、にもかかわらず側にいると背筋を伸ばしてくれるような凛とした感じは全くない。ピントの合った明瞭な輪郭と代償にポストモダン性が生み出した並列性と平面性は、カメラ・アイによって冷却保存された瞬間的「真実」に私たちを閉じ込める。
瞬間的「真実」の絶対性は、かつて神話や文学が担っていた引用の連鎖を断ち切って、フラット化された情報の新規性やエンターテインメントとしての刺激を追うように人々を駆り立てる。
現代社会は暴露社会である。週刊誌は読者がテレビというマスメディアからは知ることのできなかった意外性に満ちたスキャンダルを追い回している。ワンフレーズで紙面を埋め尽くす政治家の不祥事やアイドルの恋愛沙汰はその十八番であり、読者は「真実」の象徴である写真にその知的好奇心を満たす。
2013年香港。アメリカ国家安全保障局(National Security Agency=NSA)、そして中央情報局(Central Intelligence Agency=CIA)の元職員であるエドワード・スノーデンは、NSAによって多国間におけるインターネットや通話記録の盗聴行為がなされていると裏付ける機密資料を公開した。元来個人主義を性向するスノーデンは「独裁は許さない」と憤り、内部告発によって国家という権威が張り巡らせた根っこを照らし出し、それを引き抜こうとした。
さて、NSAへの通信傍受に関与していたと報じられたMicrosoftやSkype、Facebookなどのオンラインサービスが現代社会に咲くあののっぺりした花々の土壌であるならば、この果てのない土壌から芽生える無臭の蕾を見つめてさまよう我々は一体何を期待して、どこへ向かっているのだろうか。
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多くのロマン派の詩人がそうしたように、花は異界の象徴として文芸作品に度々登場する。
泉鏡花の『竜潭譚』の主人公が姉の忠告を無視して迷い込んだのは躑躅畑であり、ハイネの詩集『夢の絵』の献詩では天人花と木犀草が今や色あせたかつてのうつくしい夢に鮮やかで生き生きとした血脈を注いでいる。
英文学者の高橋英夫は『花から花へ : 引用の神話引用の現在』において、ローマの弁論家キケローが場所にまつわる記憶について言及したテクストを援用して場所(トポス)、言語、記憶の三者同士の相互貫通的な関係を指摘している。
……キケロは述べている。記憶力を鍛えたいと思う者は、場所を選び、覚えたいと思うものをイメージ化して、それを選んだ場所に蓄えておくがいい。場所の配列がものの配列を保ち、もののイメージがもの自身を示すようにだ。
(高橋英夫『花から花へ : 引用の神話引用の現在』より)
テクストに昇華された過去の記憶が、それ自体記憶を持たない場所に集って、体験として血肉化されたときに記憶は強く根付く。我々の実体験から言っても、キケロのこの主張にはうなずけるだろう。
そして、20世紀ドイツの文学研究者エルンスト・ローベルト・クルツィウスは「トポス論は貯蔵庫である。」と述べた。クルツィウスはトポス(ここでは弁論、表現そのものを指す)を形成するのが過去のテクストからの引用行為であると認識しており、そこでは過去のテクストの積累が現前の対象をいかに語るかという問題にあたってその答えを左右する。
ポール・ド・マンがかつて「苦境」と呼んだ、永遠に言語の内部から脱し得ないという宿命に定められて、我々は常に引用の連続によって世界と接触している。他界から現れる他者の存在を名付ける行為が引用であり、引用されたテクスト群が新たに織りなすトポスはアンソロジーのように部分に新たな意味を与える全体として現在に機能する。
もう一度繰り返すと、引用群が織りなす密集性こそがトポスなのであり、変容、移動、反復、置換された過去のテクスト群はその表彰として読者の眼前に現れる。そして、貯蔵された過去のテクストの「引用素」(高橋英夫)を胚珠のようなものとして捉えたとき、その引用群は暖かな光を浴びて見事な花を咲かせることがあるのだろう。
ところで、特に著者は、引用においてその規範を意識することになる。自分の語りたいことの文脈に合わせてテクストを切り取って貼り付ける、いわゆる断章取義的な引用を意図的に繰り返す著者であればなおさら、切り取ったテクストが意味しうるものとそのテクストが元来の文脈において意味しうるものの差異については意識せざるを得ない。読者においても、当該の倫理的問題は同様に生じうる。直面するテクストの部分から誘発される彼の貯蔵庫にあるテクストとの想起反応は制御不可能であることは自身の体験に照らし合わせても想像に難くない。
文芸批評家のJ・ヒリス・ミラーは倫理を論じようとする際に不可避的に介在する物語やアレゴリーの存在から、倫理は間接的な形態のその一例としてしか対峙できない、「我々が到達することも入ることもできない領域に存在する規範」であると述べた。しかし、ここでド・マンは注意深く、倫理そのものと言語の法則から生じる倫理性を指摘した。いまここで「倫理」と名付けられている概念とは「この世界の別の時空に存在する規範への敬意、恐怖」なのである。
我々は異界への好奇心で花に惹かれながらも、異界に対する恐怖によって倫理を盲信している。
そしてポストモダンの現在。精巧なカメラ・アイによって冷却保存され「ありのまま」に映し出された無臭の花々に思いを馳せようとしても、そもそも無機的な写真群の先に行くあてもないように感ぜられて虚しくなる。グローバルに蔓延したカメラ・アイへの微々たる反逆精神か、自身の眼差しを詩に仮託せんと試みることは、もし軽薄であったとしてもなんら不合理ではない。
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「華のかげ」は、北原白秋の初期詩集『邪宗門』に編纂された一篇である。
時は夏、血のごと濁る毒水の
鰐住む沼の真昼時、夢ともわかず、
日に嘆く無量の広葉かきわけて
ほのかに青き青蓮の白華咲けり。
ーこの旱何時かは止まむ。これやこれ、
饑に堕ちたる天竺の末期の苦患。
―見るからに気候風吹く空の果て
銅色のうろこ雲湿潤に燃えて
恒河の鰐の脊のごとはらばへど、
日は爛れ、大地はあはれ柚色の
熱黄疸の苦痛に吐息も得せず。
(北原白秋「華のかげ」 『邪宗門』より)
異国の恒河、息も遮られる日照りとその熱気に満ちて、頭は重くなり、夢を見ているかのごとくまどろむ。日も爛れんばかりのその熱気と血のごとく濁った毒水の香りは、白華の甘い純潔の味に官能の苦味に染まる。
「恒河の鰐」「槍揮ふ土人」「殖民兵の黒奴」「婆羅門の苦行の沙門」「生皮漁る旃陀羅」など、異国、異教の要素が多くちりばめられているという認識は『邪宗門』第一篇の「邪宗門秘曲」において、『邪宗門』全体に通じる特徴だという確信となる。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂ひ鋭きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍たの酒を。
ーいざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも
惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。
(北原白秋「邪宗門秘曲」 『邪宗門』より)
キリスト教の異教としてのミステリアスなイメジャリーを喚起する描写が、『邪宗門』中には度々登場する。官能的、唯美的な性向が一貫している一方で、キリスト教の信者ではなかった白秋は異教の儀式的な、言ってみれば形式的な面に魅力を感じていたのであろう。アラビアとインドのエキゾチックなイメージの延長線上に現れる「幻惑」「血」「霊」「魔法」などの幻想的なイメージを誘発させる一語一句。日常に垣間見える「色赤きびいどろ」のその鋭い匂いに誘われて、異世界への切れ目に引き摺り込まれる。
不敵なまでに異国のエキゾチックな固定観念を肯定して繰り広げられるその美枠で幻想的な世界に、キリスト教を信仰しない私は、決して自分には向けられない鋭くも重いうつくしい光を放つ刃を眺めているような恍惚を覚える。
だが、ここで善主麿つまりイエスとマリアに捧げられた「奇しき紅の夢」を語る白秋に疑いの眼差しを向けねばなるまい。白秋は、異教徒である自分自身体験することはできないはずのキリスト教徒にとっての夢を『邪宗門』中の詩に度々書き連ねている。この行為は切実な情念と体験に根ざさない、表層的な文字の戯れではあるまいか。
白秋は自身の詩の過剰性に対する非難を受けて、『邪宗門』冒頭に次のような例言を残している。
或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
(北原白秋『邪宗門』より)
『邪宗門』の読者が官能や幻惑、耽溺に満ちた白秋の情感の世界を描写の誇張であるように感じたとしても、白秋自身が認識した幻覚には事実、真として迫るものがあったのだというわけだ。
儀式という宗教の形式美と官能、疲労、耽溺といった情趣の世界に溺れた北原白秋が「百年を刹那に」縮めんとするキリスト教徒に見た夢、それは瞬間のトポスに他ならない。
ほのかにほのかに音色ぞ揺ゆる。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列立つわかき白楊、
その葉のくらみにこころ顫ふ。
ー さてしもゆるけくにほふ夢路、
したたりしたたる櫂のしづく、
薄らに沁みゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小舟ぞゆく。
ー ほのめく接吻、からむ頸、
いづれか恋慕の吐息ならぬ。
夢見てよりそふわれら、白楊、
水上透かしてこころ顫ふ。
(北原白秋「月の出」 『邪宗門』より)
『邪宗門』に収録された「月の出」において生じる理性的認識を転換させる強烈な体験に我々は息を飲む。
「音色ぞ揺ゆる」「にほひぞ鳴る」
聴覚と平衡感覚、嗅覚という理性的な感覚区分を揺るがすのは、「列立つわかき白楊」である。その「葉のくらみ」がもたらす強烈な情趣は『邪宗門』というトポスにおいて、情感の幻想をめぐる旅において巡り合った沈黙の瞬間そのものである。音色もにおいも、あまねく認識は我々の目の前を通り過ぎてしまうものである。しかし、それだからこそ、ポストモダニズムによって平面化され、写実主義によって視覚と真実が強烈に結びついた我々の単調な日常に、理性的認識に分割されずに発現する「葉のくらみ」が強烈な体験をとなり、ここから抜け出す夢路を見るのである。
私たちは今、「華のかげ」から「邪宗門秘曲」「月の出」を順々に論じてゆくことによって、体験として現前する一種のアンソロジー、トポスを作り上げた。しかし、その際に私は不可避的に『邪宗門』や三篇の詩がかつて構築していたあの完璧なコスモスを蹂躙したことになる。過去のテクストからの引用の集合が、我々に現前するトポスという場を作り上げるとは抽象論において述べた通りだが、テクストと対峙したその時生まれた既存のトポスを破壊したのちにしか、引用による新たなトポスを作り出すことはできない。アクチュアルなテクストの間で生きる私たちを、この喪失の痛みと自ずから変容するあの強烈な体験への恍惚が沈黙に誘う。
白秋自ら「幻覚」と呼んだ情趣の世界は「ここではないどこか」に向かってたどり着いた白秋のトポスである。平面化された情報の暴露の時代に、人々は咲いて枯れゆく花にただ見惚れる沈黙の瞬間を求めているのかもしれない。トポスが胚珠(引用素)を宿す土壌であるならば、「暖かい光」が指すのは読者の眼差しである。きっと沈黙のうちに俯いて見つめる胚珠に、いつか「葉のくらみ」を見出すのだろう。
我々の気づかぬうちにも、すっかり胚珠が育ってくれるといいのだが。
参照文献
ハイネ『歌の本』岩波文庫 井上正蔵訳
J.ヒリス・ミラー 『読むことの倫理』法政大学出版局 伊藤誓、大島由紀夫訳
泉鏡花『鏡花短編集』岩波文庫 川村二郎編
北原白秋『邪宗門』青空文庫
高橋英夫『花から花へ : 引用の神話引用の現在』新潮社
文字数:5225