ロマン派の残響
私たちの行為は全て断片で終る。たえず、ひとつの断片から他の場所へと移っていく。(福田恆存『人間、この劇的なるもの』新潮文庫 p.12)
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青年は甘美な妄想に耽るうちに、いつしか迷い込んだ。はじめに夢に見たのは、はてしなく遠い国、荒涼とした未知の土地だった。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫 p.15)
どうやら青年は暗い森をひとりで歩いていくところだった。ほんのときおり陽光が緑の網目を通してほんのり差し込んできた。やがてごつごつとした岩の峡谷が目の前に迫ってきて、そこからは登りとなった。かつて渓流が押し流してきた苔むす石を、いくつも越えていかねばならず、上へ上へと行くほどに、森は次第に明るくなり、やっと山の斜面にある小さな草原にたどりついた。草原のさきに高い絶壁がそそりたち、その付け根のところに岩をくり抜いて掘られた地下道の入り口とおぼしきものがあった。その地下道に入っていくと、行く手はしばらくなだらかで、やがて先方に大きく切り開かれた空間が見え、そこからまばゆい光が差してきた。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫 p.16)
このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体に触れた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱいに咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫 p.16)
青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花はつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐん伸びる茎にぴたりとまとわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、中にほっそりとした顔がほのかに揺らいで見えた。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫 p.18)
彼は青い花にほっそりとした瓜実顔と、乳の色した白い肌のうえに一閃に輝くふたつの瞳をみた。
「美しい、やさしいお客さま。どうしてこんなみすぼらしい小屋へいらしたの?ここにいらっしゃる迄には、ずいぶん永いあいだお歩きになりましたのでしょう?あの暗い森の中からいらしったのでしょう?」(フーケー『水妖記(ウンディーネ)』柴田治三郎訳 岩波文庫 p.14)
銀世界のごとく白い肌のうえにそっと乗っている唇は、そのほんのり赤く染まった頬の照らし出す光のなかにほほえんだ。
いきいきとした唇、健康そうな若々しい頬に、ぼくの心全体がつかまえられてしまった。(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳 新潮文庫 p.34)
なにより、口元のぼくろがなんとも言えぬ、愛らしさとひとなつっこさを物語っていた。
青年はやがて夢から覚めるが、二度と目にすることのないこのうつくしい夢を、花々に囲まれた中でどれよりも生き生きと輝くこの青い花を忘れ去ることは叶わなかった。
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大概の人は生きんがために一生の大部分を使ってしまう。それでもいくらか手によどんだ自由な時間が少しばかりあると、さあ心配でたまらなくなって、なんとかしてこいつを埋めようとして大騒ぎだ。(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳 p.13)
みんな自分に生きる意味があるって証明したがるんだな。
『青い花』
宝物への執着心なんて、およそ僕には無縁なことだ。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫 p.16)
どうしてって、僕には嘘がつけないんだから。ほんとさ。過去に生きるなんてまっぴらだね。宝物なんてインチキ野郎のでまかせなんだ。みんなそうやって自分をごまかしてるんだ。
いうまでもなく自分の物さしで他人を計ることの愚はぼくも次第に認めつつある。(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳 新潮文庫 p.106)
だからもうインチキ野郎と顔を合わせないために、絶対この部屋から出ないって決めたのさ。
ぼくはひとりだ、そうしてぼくみたいな人間のために作られたこの土地での生活をたのしんでいるんだ。幸福この上もない。(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳 新潮文庫 p.8)
僕にわかってることといえば、話に出てきた連中がいまここにいないのが寂しいということだけさ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.332)
誰かに会えるかもしれないと思うと、もう家にはいられなくなっちまうんだな。
僕はこの間寂しさでやりきれなくて死んじまうところだったんで、久々に家を出て映画館にいったんだな。
変態や低脳がいっぱいだったんだ。そこらじゅうが変人だらけなんだよ。おそらくあそこで正常な人間は僕だけだったろうーそういっても言い過ぎじゃないな。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.101)
映画のインチキな話なんか見て目を泣きはらすような人は、十中八九、心の中は意地悪な連中なもんさ。決していいかげんなことを言ってんじゃない。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.216)
僕がその日に見た映画はよかったよ。むやみに人情に訴えかけない映画でね。ただ、観客の笑い声でもう完全に狂っちまいそうになって映画の途中で帰っちまったんだな。
君には想像もできないほど気が滅入っちまったんだ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.154)
もう十分も坐ってたら、死んじゃったよ、きっと。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.27)
僕は誰もいない映画館で静かに見たいんだ。
僕には忘れられない思い出ってやつがあるんだ。ふつう想像もつかないようなやつがね。あの素敵な女の子が忘れられないんだ。
神に誓っていうけど、きっと君の気に入るよ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.108)
あのころは幸福に無邪気に、ぼくは未知の世界をあこがれて、ぼくのあこがれはやる胸を満たし満足させるゆたかな養分、ゆたかな享楽を未知の世界のうちに期待したのだった。(ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳 岩波文庫)
ただいつも僕の周りに顔を出すのはインチキ野郎ばかりでね。
やぼな人間といっしょのときは、きまって僕もやぼになるんだな。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.96)
おやじは勉強に集中できないなら働き口を探せっていうけど、そんなの見つかりっこないさ。そういうことは、気が乗らないと、できるもんじゃないよ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.181)
大人ってのは、いつだって、全く自分たちの言う通りと思うものなんだ。こっちは知っちゃいないやね。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.17)
そうして勝手に不機嫌になっちまう。困ったもんさ、ほんと。
落ちついて静かな気持ちのいいとこなんて、絶対に見つかりっこないんだから。だって、そんなとこはないんだもの。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.317)
高貴な人物ってのはいつだって自分の好きにやれるって思ってるんだな。自分の好む時に、現世という牢獄を去ることができるという自由感さ。(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳 新潮文庫 p.18)
僕もいつだって一人になれるんだよ。今はちょっと無理だけどさ。そういうことは、気が乗らないと、できるもんじゃないよ。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.181)
いつだって先延ばしにしてきたんだ、僕は。本当は、夢から覚めてすぐにおやじの拳銃で死んじまうべきだったんだよ。すっかり取り残されちまったんだ。
僕だけが本当の馬鹿なんだな。(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳 白水Uブックス p.106)
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Nec tecum possum vivere, nec sine te.
私はおまえの隣で生きていけない、おまえなしに生きていけない
(Marcus Valerius Martialis XLVI)
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