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「スタローンが死ぬはずがない、だってスタローンの映画なんだから」

 「あれだけ撃たれてるのに全くトム・クルーズに当たらないのはおかしい」

 スティーヴン・セガールの『沈黙』シリーズ、ジェイソン・ステイサムの『トランスポーター』、ヒュー・ジャックマンの『X-MEN』、 ミラ・ジョヴォビッチの『バイオハザード』、ヴィン・ディーゼル、ブライアン・オコナーの『ワイルド・スピード』、ジャッキー・チェン、クリス・タッカーの『ラッシュアワー』、メル・ギブソンの『リーサル・ウェポン』など枚挙にいとまがないが世界にはシリーズ化する数多のアクションムービーが存在する。

 しかしシリーズ化というパターナリズムによって、アクションムービーの醍醐味ともいえる主人公の絶体絶命の危機に伴うサスペンスが失われてしまう。どんな高さから飛び降りてもジャッキーは助かるし、誰に追われてもステイサムは逃げ切る。もちろんどんな生物を敵に回してもセガールは傷一つ負わない。シリーズ化に伴って我々のマインドセットに植えつけられた、ベテラン主演俳優の不死神話。観客はこの神話によって登場人物の生死に関する緊張感を失っていった。我々は「間違いなくセガールは勝つ」安心とともにお昼時、テレ東のセガール特集を眼前に垂れ流している。

 『ミッション:インポッシブル』(1996)はトム・クルーズ自身がプロデューサー兼監督を務めたアクションスパイ映画であり、現在『ミッション:インポッシブル』(以下、『M:I』)シリーズは最新作の『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(2015)まで、計5作が公開されている。

 IMF(Impossible Mission Force、不可能作戦部隊)のエージェントであるトム・クルーズ演じるイーサン・ハントが、サングラスやインスタントカメラの形をした近未来的な装置を介してミッションの指示を受け取る、というシーンから『M:I』シリーズの冒頭は始まる。

 イーサンは自身に対する疑惑を晴らすため、もしくは目的遂行のために、各地を転々として標的と鳴った人物を追うが、追跡対象となっていた人物がトムの存在とその意図に気がつくと物語は加速、そして銃撃戦が始まるというわけだ。

 竹田青嗣はメルロ=ポンティの言及した〈私〉の規定として現れる〈身体〉のありようを説明するために次のように述べる。

ふつう〈知覚〉は、世界の客観的空間性(その内部の事物の配列)を受け取る座として考えられる。. . . しかし、実はもともと客観的世界(空間性)が存在しているわけではない。むしろ空間性は、〈知覚=身体〉が、いわば〈欲望〉として存在要請を発し、そのことにおいてつぎつぎと「地」と「図」の配置を変えていくような「現象野」である。だからむしろ客観的空間という考えはひとつの理念なのである。(竹田青嗣『意味とエロス』p.118)

 IMFからのミッション通知はハイテクノロジーを駆使したサングラスやインスタントカメラなどの装置のディスプレイ上に二次元化されている。つまり平面化したこのミッション通知とそれに伴う追跡行為は「現象野」に基づいて行われる。

 しかし、追うイーサン・ハントと追われるターゲット、見るイーサン・ハントと見られるターゲットという関係をターゲットによって認識された時、見ていたイーサン・ハントが見られた時、この平面の「現象野」が奥行きを持つ三次元の「空間」として革命的な変容を遂げる。ターゲットの気づきによって平面に隠されていた物質性が露呈されるのだ。ここで指している物質性は、ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルが『重力の美学』で述べた暴力的な現実性や容赦ない独自性を抱える物理的エネルギーが重なるが、「自分以外の世界が独自の法則にしたがって動いている」(ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子編 鈴木直訳 p.168)概念、つまり「時間」を『M:I』のサスペンスの枢軸とし、当論考を進めていきたい。

 シリーズ化した『M:I』のサスペンスを機能させる「時間」はトム・クルーズの主要武器であるBeretta Cougar(ハンドガン)によって、その不可逆性と有限性を顕示する。トム・クルーズを始めとするアクションムービーの主人公は火力や射撃精度で勝るアサルトライフルやサブマシンガンではなくハンドガンを使用しているが、ハンドガンという残弾数の明確な武器の導入によって観客は、一弾打つたびに主人公の生存の可能性がじわじわと狭められていく緊張感を覚える。

 ハンドガンの存在によって不可逆性と有限性が顕示する『M:I』の物語中に「空間」がターゲットの気づきによって生じるが、そこには同時に音が生まれる。銃撃戦である。

 銃弾戦。「気づかれてしまった」あとに生じた物語の不可逆性とが重なった騒音の中で、人々が次々と弾丸に倒れていく。

 だが、シリーズ第1作目の『M:I』のジャン・レノ演じるフランツ・クリーガーとイーサン・ハントがデータを盗むために施設に潜入するシーンにおいて警備員をナイフで殺そうとしたフランツ・クリーガーに「殺すな」と言ったように、イーサン・ハントはミッションにおいてむやみに人を殺さない人物として描かれている。

 ここで、銃弾の雨を浴びるイーサン・ハントを始めとするアクション映画の主人公たちが何故か一弾も命中しない謎を説明する。アクション映画において、引き金を一度引けばたくさんの弾丸が発射されるアサルトライフルやマシンガンのような連射銃は、個人ではなく「大勢」を殺害するための武器として設定されている。一方の主人公が関与する戦闘シーンにおいて、敵のボスのような主要キャラクターを殺すのは一弾一弾に引き金を引かねばならないハンドガンの機能である、というわけだ。

 イーサン・ハントがハンドガンを使用する時、その被弾者は一人に一弾という主要キャラクターとしての扱いを受ける、つまり兵士一人一人に背景を、物語を授けられた存在として見なされるということだ。撃たれて倒れていった兵士らに対する観客の同情からイーサン・ハントの正義の絶対性を保護するために、「むやみに人を殺さない」という彼の信条が機能している。

 さて、私は先ほど、アクション映画の主人公はハンドガンを多用する、と述べたが、そのルールが通用しない映画も存在する。『エクスペンダブルズ』(2010)がそれだ。

 『エクスペンダブルズ』はベテラン俳優シルヴェスター・スタローンが自ら監督、脚本を担当し、スタローンのお友達である数多くのベテランアクション俳優(ジェット・リー、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレンなど)を起用したことで話題をさらったアクション映画である。

 最新作の『エクスペンダブルズ3』に至るまで、「俺たちに殺されることを光栄に思え。」と言わんばかりの敵兵士に対する扱いの荒さは貫徹している。スタローン演じるバーニー・ロス率いる傭兵部隊「エクスペンダブルズ」は戦車、マシンガン、ランチャー、ライフル、ナイフ、ハンドガンなど人を殺せるあらゆる武器を使用するが、連射の標的となる敵兵士らに対しての同情は観客の中に生まれない。登場する敵は場面に応じて黒いベレー帽、軍服といったように画一化された服装で登場するため、兵士らはその個別性、あるいは物語を排除されているのだ。

 もちろん、この平面の「現象野」で起こる殺戮では、時間の有限性や物語の不可逆性が意識できない。スタローンめっちゃ殴られてるけど大丈夫?とは思うが、物語自体に緊張感、もといサスペンスが感じられないのだ。

 戦闘中、スタローンが「弾切れだ」と叫んで建物の柱の陰に隠れると、エクスペンダブルズの一員がロケットランチャーを一発ぶっ放して解決する、というシーンがある。一般的にエンディングシーンのクライマックスに用いられる装置である爆発であるが、『エクスペンダブルズ』では頻繁に爆発が起こる。『エクスペンダブルズ2』では上映開始から4分後、『エクスペンダブルズ3』では5分後に起こる。

 そもそも、爆発という現象は着火点から着して、上昇する、という反重力的な動きを持っている。この反重力の動きは行き詰まった現実もしくは物語からの逆転、脱出と捉えることができるが、開始から4分後、5分後に起きる爆発、もしくは頻繁に生じる爆発とは単純に考えればサスペンスの解決に生じる快楽を提言してしまう。いったい『エクスペンダブルズ』では爆発はどのような機能を果たしているのだろうか。

 ここで、先ほど言及した『エクスペンダブルズ』シリーズにおける物語としてのサスペンスの弱さに戻ろう。観客はエクスペンダブルズを編成するベテラン俳優は絶対死なない、と思っている。それは『エクスペンダブルズ』シリーズがスタローンとその仲間たちの映画だからだ。そして実際エクスペンダブルズのベテラン俳優メンバーは誰も死なない。しかし、『M:I』シリーズはトム・クルーズが絶対に死なない、という観客の安心感を時間の有限性の明示によってサスペンスを起こしている。『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』では核ミサイル装置の起動、『M:i:III』ではイーサン・ハントの脳内に埋め込まれた爆破装置の起動までの残り時間を脅迫的な顕示によってサスペンスを生んでいる。有限の時間の枠の限界ギリギリで脱出する、という観客の緊張感誘うプロットによって『M:I』シリーズが構成されているわけだ。

 だが、なんということか。最新作『エクスペンダブルズ3』において、物語のクライマックスに廃墟に爆発物が設置されたという展開が盛り込まれた。敵のボス(メル・ギブソン)との戦闘を終わらせたスタローンは、爆破が始まりつつある建物の階段を登り、屋上に停めてあるヘリコプターに向かって全力で走り、飛び乗る。だが陥落しつつある廃墟の屋上を全力で走り抜けるスタローンには、こっちが突っ込みたくなってしまうほどに不自然な合成と早送りのCG加工がされている。イーサン・ハントが有限の時間の中で健闘する一方、彼は時を加速させる、という暴挙に出た。

 『エクスペンダブルズ』シリーズでは、平面の現象野が奥行きを持つ空間として変容することはない。この二次元の中で反重力という物語の展開を逆転させる爆発は純粋なエネルギーの発露として現れている。爆発という反重力の非日常的な現象を多発させることによって時間の有限性と物語のサスペンスを否定し、暴力的な現実性や容赦ない独自性を抱える物理的エネルギーから解放された無重力の空間を作り出した。イーサン・ハントが葛藤する時間は不可逆的なものだが、スタローンが葛藤していたバッテリーの残量は充電可能で、可逆的である。

 『エクスペンダブルズ』シリーズのポスターやジャケットでは、登場する大物アクション俳優たちは記念撮影のようにみんなきれいに整列している。しかし、ここでもCG技術によって彼らの顔が合成されていることを忘れてはならない。

錚錚たるベテラン俳優陣で結成されたエクスペンダブルズのメンバーは、劇中においてその役に関わる文脈やバックグラウンドをほとんど与えられていない。『エクスペンダブルズ』はバーニー・ロスたちの物語ではなく、シルヴェスタースタローンらの俳優史の延長線上に存在している。もっとわかりやすくいうならば『エクスペンダブルズ』はシルヴェスタースタローンとその仲間達の映画なのだ。
シルヴェスター・スタローン、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレン、ジェット・リー、ランディ・クートゥア、テリー・クルーズ、アーノルド・シュワルツネッガーなど、主役級のベテラン俳優陣には過去のヒット作によって観客に植え付けられた「勝つ人」というマインドセットがある。そのイメージをストーリーという文脈に乗せてそのまま語らせる、という構図を抱える『エクスペンダブルズ』シリーズは同じことをずっと続けられる、という可能性を秘めている。

 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)は、複数の主人公という相対化された語り軸を持って、ポストモダン的な絶対的な正義の不可能性、正義という抽象的な概念の多面性、虚弱性を描いた。

 『エクスペンダブルズ』は集大成である。エクスペンダブルズ(消耗品のヤツら)は歴史から学ばない成長も変化もしない愚か者ではなく、物語(時間)を捨てて相対性の共存する空間に生きようとした人々を描いている。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』が否定した絶対的な正義の物語の正当性にはもはや依存できない我々は、ポジティブな自己肯定をなす手段として一貫性、論理性、物語の拒否という道を『エクスペンダブルズ』に見出した。

 しかし、『エクスペンダブルズ』は一億ドルを超える大ヒットにより3作に続くシリーズ化を遂げており、すでに『エクスペンダブルズ4』が2017年に公開予定となっている。充電を繰り返すコンテンツ『エクスペンダブルズ』シリーズはexpendable(使い捨て)ではない。作品中の緊張感をスタローンらの体力の限界にサスペンスさせたまま、観客は無重力の夢を見ている。

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