プラットホーム上の熱狂
視覚芸術を享受するとき、写真であれ絵画であれ、あるいは文学であれ、概して眼球から水平もしくはそれより下の位置に対象を位置させる。絵画展に訪れたと想定してほしい。最前列で鑑賞しているあいだ、あなたは自分の身体の後ろから眺めようとする他の鑑賞者を作品から遠ざけてしまう。ライブハウスに訪れた時のことを想像してほしい。あなたより身長の高い人物が前に立っていたらステージの上に立つミュージシャンの姿は見えない。しかし、きっと演奏している音楽は聞こえるだろう。つまり、視覚芸術の媒体である光は前方の障害物によって容易く遮られてしまうが、聴覚芸術の媒体である音は私たちに届きやすい。
ホイヘンス=フレネルの原理は波動の伝播問題を解決する手法である。密室にも関わらず、隣の部屋で起こった衝動的な殺人事件に伴って棚から落ちた花瓶の割れた音が自室のドアのあたりから聞こえる、といったケースを想像してほしい。この現象は「回折」の概念をもって、あなたの部屋のドアのあたりで振動する空気があなたが聴いた音の音源であった、と説明できる。一方、可視光は波長の短さが原因となり回折を観測しづらいため、隣室で何が起きたかを目視することはできない。物理学の理論的見地からも、音は光と比べても比較的遮りがたい空間的な広がりをもつといえる。
音楽についても同様だ。ドイツを中心に活躍した名指揮者フェルッチョ・ブゾーニが言うように、音楽は「鳴り響く大気」なのである。
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朝8時、鴬谷駅から上野駅に着く前の京浜東北線の車内。イヤホンを通じて聴く音楽に混じる、列車の車輪がレールの継ぎ目を通過するたびに鳴る「ガタンゴトン」という音。イヤホンから流れる音楽をすり抜けて、私達の鼓膜に届くTSUTAYAの店内放送で繰り返し流れるヒットソング。聴きたくない音楽や騒音の中で聴く音楽は心地悪いものだ。
イヤホンをつけて、客がひとりもいない喫茶店に入る。やがて席に座ってメニューを眺めていると、音楽以外何も聞こえないことに気づく。音楽かかってないんだ、と気がついて、気分が良くなってイヤホンをとってしまう。
文学研究家エドワード・W・サイードはアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニストであるダニエル・バレンボイムとの対談本『バレンボイム/サイード 音楽と社会』で、音楽の「アットホーム」な感覚を指摘している。どこで音楽を聴いても、音楽はその潮流に載せて聞き手をさらっていってしまう、というわけだ。
しかしながら、“home”という単語が「帰るべき場所」を意味しているように、アットホームな感覚とは既視感に基づく、もう一度あの感覚が味わえたらという再現を望ませる感覚である。喫茶店に蔓延していた静寂は確かに我々に安定感のあるアットホームな感覚を呼び起こし、騒音の中で生きる私たち現代人に一抹の安心を植え付ける。
では、どうしてサイードは音楽にアットホームを感じたのか。簡単である。キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれたサイードはレバノン、エジプト、そしてアメリカへ移住した。つまり、サイードにとっては移行の感覚こそがアットホームだったのである。
音楽は我々をどこかへ移行させる。果たして、音楽は帰りがたい安定を望む私達をどこへ連れ去っていくのだろうか。
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ディオニュソスは古代ギリシャ神話に登場する東洋起源の神である。一般には酒の神として知られているが、実際は狂気、反利他的な伝染性の熱狂を司っている。ディオニュソスはバッコス(複数の女性を指す場合はバッカイ)と呼ばれる神に憑かれた男たちを仲間として引き連れる集団のイメジャリーが強く、その際にバッコスはリズミカルに「エウ・ハイ!」「エウ・ホイ!」との叫び声を挙げる。(参照『バッカイ』エウリーピデース作 逸身喜一郎訳)
ギリシア演劇では必ずと言っていいほどコロス(合唱団)がナレーターや市民などの役で舞台に現れる。エウリーピデースはギリシア演劇後期におけるコロスの役割の縮小傾向をさらに押し進めた革新的な作風で有名なのだが、『バッカイ』に関してはエウリーピデース最晩年の作品にも関わらず、コロスは劇中全体を通して大きな役割を果たしている。加えて俳優自身も劇中で頻繁に歌うことから確認できるように、熱狂を演出するために音楽が非常に強い役割を果たしている。集団の熱狂は人々がみな同じ方向に注目しているが故に生じるのだ。
当論考では便宜的に、音楽が向かう先は熱狂である、と位置づけておこう。
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電車のチャイムのメロディーが思い出せない。指で数えるほどしか訪れたことのない駅はもちろん、15年乗り続けている京浜東北線の最寄り駅で毎朝毎晩鳴っている音楽が思い出せない。もう少なくとも5000回は聴いているはずなのに思い出せない。高田馬場駅ではアトムが流れている、ということは知ってはいるが、曲の箇所やメロディーは思い出せない。
赤羽駅、埼京線のホームでチャイムが鳴る
池袋駅で山手線に乗り換え(転調)る
高田馬場駅でアトムを聴きながら降りる
神田駅、京浜東北線のホームでチャイムが鳴る
上野駅で常磐線に乗り換え(転調)る
我孫子駅でチャイムを聴きながら降りる
飯田橋駅、総武線のホームでチャイムが鳴る
新宿駅で山手線に乗り換え(転調)る
渋谷駅でチャイムを聴きながら降りる
プラットホームでは、電車が出発するときの合図のためにその駅ごと異なったメロディーのチャイムが鳴る。赤羽駅から埼京線に乗り込んで池袋駅で乗り換えて山手線で高田馬場駅に着く人と、神田駅から京浜東北線に乗り込んで上野駅で常磐線に乗り換えて我孫子駅で降りる人の聴くチャイムはそのメロディーも数も違う。自分の家の最寄り駅と会社や学校の最寄り駅は基本的に変わるものではないから、毎朝毎晩通勤のたびに同じチャイムを聴くことになる。
他の乗客が自分と同じ時間に同じ電車に乗ったとしても、自分と同じ駅で同じ電車に乗り換えて同じ駅に着こうとしているかはわからない。自分が降りる駅までは、ひとつひとつの駅に着くたびにどの人がいま降りたかを確認できる。しかし、自分が降りた時にまだ乗っている乗客がどこまでこの電車に乗り続けて、どれだけのチャイムをそれぞれのプラットホームで聴くのかを確認する術はない。私たちは自分の乗った駅から自分の降りる駅まで、それぞれのプラットホームで発車を予告するチャイムをひとつひとつ聴いている。このチャイムの連続は、ひとりひとりの乗客のそれぞれの乗車駅、乗り換える駅、降車駅によって、その順番だけではなくメロディーそのものも変化する。チャイムは連続するがそれぞれ一つ一つが流れ行くもので、みんな降りる駅も乗る駅も違うので、今鳴っている音楽の行き先も、度重なる転調(乗り換え)でたどり着く駅もそこで鳴る音楽も変化する。
ここで、同じ駅から乗車して、同じ駅で乗り換えて、同じ駅に降りる人に思いをやる。もし同じドアから乗って、同じドアから降りて、また同じドアから乗り換える電車に乗って、そして同じドアからまた降りる乗客の存在にあなたが気づいたとき、その乗客に対し得体の知れない、ひょっとしたら奇妙な連帯感を覚える。
先ほどディオニュソスの例に挙げた音楽と熱狂の隣接になぞらえて、電車のチャイムを位置づけようとするならば、私たち乗客は同じ音楽(チャイム)を聴く人々との間に一種の連帯感を覚えるはずだ。しかし電車の通勤通学が習慣となったことで、電車に乗る人々の間に存在する熱狂の存在が忘れさられている。しかし電車が出発する前のわずか数秒の間、確かにここには熱狂があるのだ。
紀元後5世紀古代キリスト教の神学者アウグスティヌスはカトリックの日課であった旧約聖書の詩篇の音読を大きな声を上げて行うように奨励した。「声を高らかに上げた方が神もお喜びになる」と彼は言ったそうだ。金澤正剛の『キリスト教と音楽』では、とある神父の「キリスト教は歌う宗教である」との言葉に金澤が驚いた、というエピソードが冒頭に語られている。ローマ期から始まったキリスト教の伝播と隆盛、世界宗教人口の第一位がいまなおキリスト教であることなどを鑑みても、「歌う」ことによる能動的な共同体への参加が、人々の精神に非常に大きな影響を与えたことは疑いえない。
そもそも「歌う」ために、私たちはその歌の詩が読める必要がある。歌うことが共同体の参加の条件なのだとすれば、その言語の習得が非常に大きな条件になっているともいえる。この条件はキリスト教徒の音読の習慣だけではなく、バッコスたちの「エウ・ハイ!」「エウ・ホイ!」の定型化した叫び声にも共通してみられる条件だ。
しかし、叫びや詩などの言葉がつくり出す熱狂の集団はその運動にかこつけて信仰の行き先、つまり神を忘却している。私はこの忘却を非難するためにそれを指摘したわけではない。熱狂と足並み揃った定型化された言葉には「あなたと私が同じ方向に向かっている」という意思表明の意義があるのだ。
熱狂と詩との卑近を明らかにした、といっても明日から電車のチャイムが鳴るたびにメロディーに合わせてみんなで歌おうというのは非現実的な提案だ。私は先ほど、チャイムの鳴っている数秒の間に熱狂がある、と述べたが、乗車している間は乗客の間に距離感や息苦しさが存在していることも当然ながらまた事実である。乗客全員が共有している音楽が流れているのに、私たちは能動的に参加できない。
プラットホームでは時刻表に従って同じ場所、同じ時間に、同じ音楽が鳴らされる。だが、定められたはずのこの三層が揺るがされ、狂う瞬間がある。
遅延である。強風や大雪などの天候や線路内人立ち入りなど、あらゆる制御不能な事故によってチャイムのタイミングがずれてしまう。大雪で早朝の埼京線が止まり、ようやく停止していた電車が動き出すと言って、チャイムが流れ出したその時。乗客である私たちは「誰が最初の電車で出勤するか」という問題を内包した競争、一種のゲームに巻き込まれることになる。今出発する電車を諦めるにせよ、諦めないにせよ、プラットホームに立っているすべての者たちがチャイムという名のゴングによってこのゲームに参加させられるのだ。
到着を目的とする習慣化された「通勤」が、出発を目的とする「出勤」に変化した時、もう一度熱狂が生じる、いや、再発見されるのだ。私たちは遅延によって気づかされる。我々が待っていた電車の出発が眼前に迫った時、ここに言葉はないが熱狂がある。我々は孤独ではなかったのだ。
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