論理・時間・空間、ピースの欠けたパズルの果てに
「それでどうしたの?」
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Ⅰ Grimes – Flesh without Blood/Life in the Vivid Dream
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「天使は実在するが、翼はなく、光の筋のような存在だ」
ローマ・カトリック教会の最上位である、天使学者のレンゾ・ラバトーリ。彼は天使が明確な姿を持たない「純粋な霊魂」であると主張した。
翻って、現今のスピリチュアルブームに隆盛を誇るパワースポット、神話、占いが吹聴する天使は汚れを知らぬ純白の翼を携えて現れる。2005年フランシス・ローレンス監督の『コンスタンティン』では、大天使ガブリエルが暖炉の炎を後光に大きな白い翼を広げる。リュック・ベッソン監督の『アンジェラ』、借金やギャンブルに堕落したアンドレをギャングから救った天使アンジェラは白い翼で天界に向けて羽ばたく。
2015年、クレア・ブーシェことGrimesは4作目のアルバム『Art Angels』をリリースした。『Art Angels』とはまさに天使!でもタイトルと結びつけて終わりなんて、そんな退屈なことはしない。言いたいこと、楽しいこともたくさんあるからね!
『Art Angels』のミュージック・ヴィデオ第一弾となる”Flesh Without Blood/Life in the Vivid Dream”(以下、”Flesh/Life”)ではGrimesの抱える変身願望が表出してる。荒野、もしくは一面ピンクの壁紙のベッドルームに佇む白い翼を持つ天使(ほらね、さっき言ったでしょ!)、青空のもとテニスコートで踊るマリー・アントワネットを思わせる中世の貴族、指揮棒を振り回す燕尾風の黒いロングジャケットでクールにキメてるマフィア、真鍮の燭台が照らす洞窟の中でペイズリー柄のソファにもたれてゲーム・コントローラーを握る悪魔。
”Flesh/Life”でGrimesはひとりで4人のキャラクターを演じ、彼女(ら)は入れ替わり立ち替わり登場して歌って踊る。
ACT Ⅰの”Flesh Without Blood”では、白い翼の天使がまっピンクのベッドルームのキングベッドの上で踊ったり札束で首元をあおいでる。まるで自分の思い通りにならないことなんて知らないみたいに。次のシーンでは、バドミントンラケットもしくは日傘を手にしたマリー・アントワネットがテニスコートで自由気ままにくるくると踊る。マリーの様子はさながらわがままでおてんばな貴族の娘。
つづいて黒いロングジャケットのマフィア、ゲーム・コントローラーを握る悪魔も登場するけれど、いったいどうして、皆まなざしから日光を遮断するのだろう。
「このころから、シモーヌは自分の尻で卵を割るという奇妙な遊びに熱中し始めました」
「あまりの恐ろしさに私の目玉は勃起するかと思われたほどでした」(中条省平訳)という二文が体現するように、フランスの小説家ジョルジュ・バタイユの『目玉の話』では睾丸、卵、目玉という楕円形の3つのオブジェが、ビリヤードの玉の連鎖的に転がるように次々と性的なイメジャリーを獲得する。太陽のまなざしから眼球を遠ざける行為によって、クレア・ブーシェは性の社会的な本質を拒否している。
さて、私はさきほどGrimesの変身欲望が”Flesh/Life”に表出している、と述べた。
それでは変身願望以前、現実のGrimesとはどこにいるのか。
それは独学で作曲を学び宅録で作品をつくり始めたカナダ出身のソロミュージシャンである。彼女の音楽にはAphex TwinやNIN、David Lynch、『AKIRA』などから影響を受けたという多面的な文化的背景がある。
”Flesh/Life”の話に戻ろう。”Flesh/Life”という作品における平行世界を複合した世界に度々起こる「タイムスリップ」を取り上げたい。4人のクレア・ブーシェが代わる代わる現れるが、現れる映像に因果はおろか、時間という縦軸の一貫性(不可逆性)がたびたび突き崩されている。我々は4つの平行した諸世界が互いに関わり合わないように設定されていると考えているが、時間もしくは論理という縦軸の理解枠組みの不透明性は「平行した諸世界」という前提も突き崩す。縦軸(時間)の不明瞭性は対象の概念である平行の信頼をも不確かにするからだ。拠り所を失った4つの世界はどこへ向かうのか。”Flesh/Life”はエンディングでオープニングと同じシーンを使用している、つまりこの作品はループものである。
腹部にナイフが突き刺さり、腹部から口元まで血でまみれたマリー・アントワネットは唐突に出現した。しかしその後にも無傷のマリーは度々登場するため、我々は時間、因果、論理といった縦軸の思考の枠組みを放棄せざるを得ない。
赤と白の薔薇の花びらが撒き散らされたピンクのベッドルームで踊る白い翼の天使。次に映るとき、天使の手にした二輪の薔薇の散るさまが逆再生される。白い薔薇の花言葉は純潔、赤い薔薇の花言葉は情熱である。純潔と情熱を失って死にゆくマリーが依拠するはずの不可逆性が放棄されて、可能性への回帰という形で”Flesh/Life”の世界はループする。
しかし、変身願望の夢のなかで可能性、仮想世界を謳歌していたクレア・ブーシェは、パラレルな世界観の中でも不可避的に訪れる時間に可能性を奪われて、自身が「何者か」であらねばならぬと突きつけられてしまう。
東浩紀がオタク文化におけるループものの親和性を成熟拒否的で幼児性に固執しがちだと指摘されるオタクの特質との関係性を指摘したように、縦軸に流れる世界の動きを止めたり、ループさせる試みは成熟を拒否する試みと類似している。
成熟を拒否する行為は「何者でもありたくない」という願望、つまり世界の誰によっても拒否し得ない自分でありたいと望む感情に起因する。ポップソングのミュージック・ヴィデオという媒体のもつ高い理解可能性によって「世界の誰によっても拒否し得ない自分」のイメージを獲得しているかのように見えるが、社会に所属することによって誰もが誰かに非難されうる「何者か」にならざるを得ないのだ。
成熟への拒否は他者存在の拒否である。
ACT Ⅱの”Life in the Vivid Dream”でクレアの演じるマフィアの隣で踊っていた男の額に一部分だけ、生々しい金属が顔を出している。加えて首をもたげたまま動かない、まさに彼は我々に人間ではなく機械であったと思わせる。
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは生け贄の流血行為がもたらす不連続な個体性の侵犯、つまり共同体内部におこる存在の連続性を指摘した。腹部から口元まで、大量の血に塗れたマリー・アントワネットの周りに誰一人いないこと。流血行為において逆説的に発見された孤独にさいなまれるマリー。
あなたはここで思い出す。口元の血に塗れた天使が、あなたと目を合わせたときのこと。
オープニング(エンディング)のカットに映る、荒れ地にひとり真っ赤に染まったドレスを膝に乗せる白い翼の天使。流血行為とそのまなざしの先に存在するわれわれ鑑賞者の存在が、”Flesh/Life”という自分の世界に引きこもろうとする試みの不可能性を明示した。
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Ⅱ Tacocat – “I Hate the Weekend”
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”Flesh/Life”は動画という媒体を持って時間の論理性(空間性)を突き崩そうとした。ではここで置き去りにされた「動画の身体性」に目を向けよう。
2016年、アメリカはシアトルのバンドTacocatは同郷のレーベルであるHardly Art Recordsから『Lost Time』をリリースした。収録曲である”I Hate the Weekend”のミュージック・ヴィデオでは10畳ほどのワンルームで演奏するTacocatのまえで、カラフルなファッションを身にまとうオーディエンスが目を瞑って首を振ったり降らなかったり、踊ったり踊らなかったりする。オーディエンスはTacocatには目もくれず、クラッカーの紙テープに狂気狂乱、奪い合い、かじりつく。40センチほどもあろう大きさのゴールドベアとトローリのグミを引っ張り合い、かじりつく。30センチ大の虹色ぺろぺろキャンディを舐めたばかりでもすぐに噛み砕く女。目を瞑りながら唇をこすり合わせる恋人たち。Tacocatの4人のメンバーがそれぞれ被っている大きなかぶり物に衝撃があたると、クラッカーのようにキラキラした大量の紙テープを勢いよく頭上からぶちまけられる。Tacocat全員の仮面が取れて演奏を終えたとき、オーディエンスは皆床に横たわって眠りについていた。
スタンリー・キューブリック監督の遺作である『アイズ・ワイド・シャット』は仮面と裸の生け贄をもって宗教的な供犠を行う共同体を描いている。個を覆い隠す仮面と裸という肉体の開示のもとで行われる集団のエロティックな行為が関わるものたちの深淵を溶解させる。
仮面のもつ匿名性は個を覆い隠す。つまり、”I Hate the Weekend”における仮面を破壊する行為は個を露呈する行為であると同時に、現行の共同体に対する否定なのだ。
At the end of every week
They flood into our streets
Homogenized and oh so bleak
Got a hall pass from your job
Just to act like a fucking slob
(毎週末街に出てくるあの人たちは
みんな同じツラしてるし、絶望しきってる
仕事から抜け出せたと思っても
クソ間抜け野郎にしかなれない)
このようにTacocatはシステム化された単一の非日常性を批判しているにも関わらず、パーティにおいて非日常的な高揚を生み出している張本人である。Tacocatの生み出す非日常にはどのような機能があるのだろう。
ところで、仮面の脳みそのあたりからクラッカーのごとく勢いよく飛び出した紙テープ、つまり物質化された情報や物語が放出されきった区切られたと感じたときにオーディエンスは眠りに落ちた。食や性の快楽が結びつけていた共同体が崩壊した今となっては、眠りに落ちた人々は誰も同じ夢を見ることはできない。彼らを結びつけていた共通の物質である紙テープが途切れたために、彼らはその身体性を離れて夢という個々の想像の中に新たな快楽を追い求めるのだ。
身体性とは想像の外部領域にある。
Tacocatが放出した、物質化されたテクストによって共同体が生まれた。一方、オーディエンスの眠りの先にある夢は他者との交換は不可能なのか。眠りの先にある諸共同体間の断絶、つまりGrimesがいたあの想像の諸世界や人々の夢はいかにしてその非身体性を乗り越えて共有可能になるのか。
ここでGrimesが否定しようと試みた時間(ロジック)の概念に立ち返りたい。”Flesh/Life”で我々は各カットの間に因果関係もしくは並列関係を見いだすことができなかった。しかしながらすべてのカット内部(逆再生含め)では、確かに時間が流れていたのだ。”I Hate the Weekend”のミュージック・ヴィデオにおいても、オーディエンスの間には「”I Hate the Weekend”(私は週末が嫌い)」という価値判断をベースにした共同体が存在した。固定した単一のシステムではなく、時間(論理・言語)の流れで更新されてゆく価値判断形態によってweekend(週末)を更新する試みが必要とされている。
身体性が共同体内部の連続へと導くweekend(週末)は非日常の共同体、いわば儀式である。いま我々は毎週末の儀式によって更新されていく自己破壊的な非日常の共同体を追っている。
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「それでどうしたの?」
「擬態」を試みたポイント: 並列的もしくは逆転した位置感覚
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