印刷

読者による感情の吹き替え、そしてコンテクスチュアリティの檻

【課題1】

160805_2106_001

【課題2】

 歴史上、弱者は常に言語をもって立ち上がってきた。民主主義のルーツの地である古代ギリシャでは弁証法(哲学)と演劇が時を同じくして生まれた事は、他者の感情を探って共感しようとする試みとお互いの欲求を摺り合わせようとする試みが同じくして生まれた事を意味する。黒人解放運動におけるキング牧師やインドの独立を志したマハトマガンディーの例を挙げるまでもないが、巨大な権力に押しつぶされまいとする社会的弱者たちは言葉をもって抗ってきた。安定を追求する社会は今までの社会が与えてきた人々の役割を踏襲しようとする。そこで、与えられた役割に懐疑の視線を投げ掛けて社会を改革しようとする試みが言語によっておこなわれるという事だ。

 言語によって社会的弱者たちが社会的強者に立ち向かい、その社会構造を破壊するという物語の原型を机上で何度も確認した私達は、今現在弾圧されている人間の言葉に耳を傾けようと試みる。

 しかし、完全な社会的弱者とは言語をもたない存在である。自身を取り巻く苦難や貧困を認識して問題意識をもつ事は少なからず知識や相対化された世界の観念を必要とするからだ。引っ込み思案な性格の幼児は他の幼児や大人の要求に抗う事ができず、「あれが欲しい」「これが欲しい」などの自身の感情をひた隠しにするようになる。

 それゆえ、「弱者の言葉に耳を傾けたい」という欲求は「弱者の声を吹き替えたい」という欲求に取って代わる。言語という力を持たない他者に欲求を見出すために、形式化された感情表現のツールである言語を吹き替える行為がたとえ社会的強者の傲慢であっても許されるのであれば、批評に携わるものはその良心として何が踏まざるべき轍なのか。藤子・F・不二雄の漫画『コロリころげた木の根っ子』と『老雄大いに語る』を題材にとって、これらの作品の登場人物である二組の夫婦が強い愛情に結ばれていると解釈する、という切り口からこの問題を考えてみたい。

 まずはじめに、漫画という感情表現の媒体において、読者はいかに登場人物たちの感情を掴んでいるか考えたい。小説や詩などの文字のみを媒体とする感情表現の媒体に比べて、漫画は絵というもう一つの媒体を得る。台詞や作品全体の文脈などによるだけではなく、絵によって描かれた登場人物の表情を読み取ることからの解釈が可能になる。そこで我々は眉をひそめてうつむいていたら不快感を抱いているし、えくぼができて目尻が下がっていたら喜んでいる、などといったように表情の断片同士を組み合わせて感情を推測する。

 『コロリころげた木の根っ子』では、作家である夫の暴力にさらされる妻に対して読者は妻は夫を恨んでいるはずだ、と考える。その後、夫を殺そうと画策している妻の行動の断片を目にした読者は「やっぱりな」と言わんばかりに妻への共感と物語の帳尻をあわせる。しかしながら実際は物語の最終地点になるまで妻から夫を殺害しようとしているような表情や言葉、素振りは全く確認できないし、妻はあまりにも従順に夫に従っている。つまり、読者は物語上に表面的に現れる言葉や表情、行動からは描ききれない感情を見いだそうとしているのである。

 ここで『コロリころげた木の根っ子』に潜む「きわめて強い愛情に結ばれてる可能性」について考えを巡らせたい。夫は家庭内での不祥事の責任をすべて妻にあるとして、何か不手際が起きた際には必ず妻を暴行している。物語終盤に主人公の編集者が妻の新聞のスクラップを見て、夫を殺害する意図がある事に気づく。階段の上に空瓶のウイスキーを置く妻の絵でこの漫画は締めくくられる。ここで注目したいのは妻がほとんどのシーンで目をつむっているという事だ。夫に殴り掛かられる直前でも、主人公の編集者に話しかける場面においても目をつむっている。しかし、ただ3つだけ妻が目を開いている場面がある。一つ目は電話を切って振り向いた主人公が「わっ」と叫ぶシーン。二つ目は妻が主人公に新聞の切り取りをしている現場を目撃されるシーン。三つ目は最終コマにおいてウイスキーの瓶を階段の上にそっと置こうとするシーンである。この三つの場面に共通しているのは、いずれもこの場面においては非日常性が存在する点である。

 逆説的に考えるならば、目をつむるという行為は驚きや偶然を否定する行為である。夫が「ちょっとおもしろい子」という女性ルミに対して旅行に行こうと一方的に持ちかけるが、彼女は「あたいって一方的にいわれるのキライなんだ」とその誘いを拒否する。このようにルミは気のままに生きて偶然を好む。そして彼女の前髪は長く、一度も瞳を見せない。彼女は去り際に「先生いつか奥さんに殺されるよ」と予言する。瞳を見せないという行為は、日常は眼差しに値しないと宣言する行為なのであり、偶然つまり非日常を求める彼女はそれが現前に現れたときのみ瞳を開くのだ。

 『老雄大いに語る』では妻が夫の話そうとする事や計画に多弁をもって反対し、憤る。夫は不都合が生じて何か話そうとしても、妻に「いいえ お飲みにならなくちゃいけません」「いーえおだまんなさい!!」「いーえそうにきまってます!!」と言葉を遮られてしまう。仕舞には憤る妻は「なぜ早くおっしゃらないの!」「ほんとにあなたの無口にもあきれたわ!」と夫が言葉を発さない事にも憤る。妻は夫がまだ何も言葉で伝えていないにもかかわらず、まるで夫の言葉を否定するように「いいえ」「いーえ」と否定の意を表す。夫ははじめは口を開いて意思を伝えようとするが、妻の勢いにのまれてすぐに口をつぐんでしまう。地球から口を閉じた妻の画像が送られてくる最後のシーンで初めて、妻の圧力による受動と能動という固定化されたロールメントの解放と変化が生まれようとしたのだ。夫は「沈黙しているおまえに向かってひと言以上しゃべる機会をどんなにかユメ見て来たことか……」と液晶に映る妻にこぼすが、反対するべき妻からの言葉がないために、夫は「わしは… わしは…」と今伝えたいメッセージがないことに悶える。

 ここで妻は自身の圧力によって夫と自身のロールメントを固定している。そしてようやく口を開く側、口を閉じる側の行為が逆転した事によって、夫は自身のそして妻の役割を更新しようとする欲求を満たそうと試みたのだ。

 『コロリころげた木の根っ子』における殺害を試みる妻の行為と『老雄大いに語る』における夫の役割転換の願望を果たそうとする行為は、口と目と言う点で表現方法は対比的だが、共に日常を非日常によってひっくり返そうとする試みである。それだけではなく、『コロリころげた木の根っ子』における夫を殺そうという試みは、死によって夫の目を瞑らせるという行為であり、ここでも『老雄大いに語る』と同じく役割転換の願望が確認できる。死と言葉によって他者を塗り替えようとする欲望は愛情と結びつきうるものなのであろうか。現代美術作家の柴田英里が述べているように、「わたしはAが好き」という好意には「Aには私を好きになってほしい」という他者を塗り替えようとする願望が存在する。柴田は本質的に好意と殺意は他者を塗り替えようとする欲求という観点に置いて同質であるとも言及している。加えて、日常を甘んじて受け入れる姿勢には相手(妻、もしくは夫)を認めて、受け入れており、決して二組とも夫婦という役割を放棄しようとしていないのだ。

 つまり、日常に生きて、他者を塗り替えたいという願望の成就(非日常)を待ち望む彼らの関係はつよい愛情によって構築されている。

 

* 

 『コロリころげた木の根っ子』と『老雄大いに語る』を題材にして「きわめて強い愛情に結ばれてる可能性」を考慮した批評をおこなった。『コロリころげた木の根っ子』の批評箇所で述べたように、漫画の読者は絵や断片から登場人物の共感を通じて、登場人物たちの感情を吹き替える。もちろん明言されていない情報について解釈が異なるのが批評の魅力ではあるのだが、批評対象へのコンテクスチュアリティ、もしくは批評を読む読者への敬意を示す行為として共感による感情の吹き替えを一コマ(点)だけではなく、複数点を並べて考察する物語(線)を解釈に利用するべきであろう。そして明言されている表層に映る情報、テクストを否定する感情の吹き替えは認められるべきではない。たとえ社会的弱者が言えなかった言葉がそこにあったとしても、言語をふるう社会的強者の特権は発せられた言葉のメッセージが失われないように、コンテクストの檻に閉じこもらねばならないからだ。

文字数:3509

課題提出者一覧