仮想他者の必然と限界
2013年頃から多くのまとめサイトやニュースサイトでは、大学生が引き起こすTwitterでの炎上騒ぎが取り上げられるようになった。彼らは自己承認を求めて「ウケる」行動に走ったが、ネットに潜む予期せぬ他者の広報活動によって退学や退職などの大きなしっぺ返しを食らった。ここでそもそも彼らが狙っていた笑いそのものの性質について考えておきたい。ベルクソンが『笑い』のなかで次のように述べている。
我々の笑いは常に集団の笑いである。
多くの滑稽な効果は一つの言語から他の言語に翻訳することのできないものであり、従って一つの特殊社会の習俗なり観念なりと相関的なものであるということを、幾度となく人は注意しなかったであろうか。
ベルクソンはここで、笑いが共有されるのは同一社会内に限ってのことであり、その社会の外部ではおかしみが共有されないという性質を指摘している。あらゆる社会と個々人が分断されたポストモダニズム後のユビキタス社会において、笑いは特定社会外部における脆弱さをあらわにする。所属する集団内で通用する「お約束」が、ネットを通じて想定しない他者の目に触れた時に、笑いの暴力性やナンセンスを指弾されることになった。彼らにとってインターネットが生み出した想定しない他者との遭遇は、顔なじみの隣人と繰り返す日常から唐突に起こる、いわば災害であっただろう。
不用意な発言で炎上した大学生たちはTwitterを自身が所属する特殊社会のみに対する情報発信手段として認識しており、自己の言動の機能や性質を憂慮せぬままに発信している。そのため、彼らは他者から唐突に要求される自らの言動に対するエクスキューズとして求められる思想の必要に答えることができない。自己による価値判断基準のよりどころを一体いかにして求めるべきであろうか。他者の視線に容易に揺らぐことのない安定した思想、言葉を紡ぐために何が求められるのか。
そこで求められるものが批評である。自己承認を他者に求めて生きるならば、ポストモダニズム後の世界で自身の言動がいかにして社会に受け止められるのか批判的な目線から考察する批評精神が万人に不可欠であるといえる。
佐々木敦が述べるように作品が常に作者を超えたところに存在しているとしても、作者は社会に見捨てられないために自己の作品が社会でいかに機能しうるかを想定するべきだ。それは知性と熱意ある読者に対する真心か、自己批判に対する恐怖が抱える強迫性から逃れるためか、あるいは大澤聡の言う「書き進める快楽」のためか。いずれにしても、批評家の仕事が批評であるならば批評家には自身の文章が社会に放たれる前に自ら批評する試みが求められるだろう。当課題の前文で東浩紀が語っているように、自己批評のない批評家は必ず堕落する。タフな読者の読解に耐える批評を書こうとするならば、徹底した自己批評が求められるのだ。予期した仮想他者との対話を通じた他者の視線の先取りによって、批判的目線に耐えうるタフな批評を書くことができる。では批評家は常に仮想自己により一秒前の自己を批評しつづけるべきなのだろうか。
* * * * *
批評再生塾第一期15回において大澤聡が提示した課題のテーマは「対話の批評、批評の対話」であった。上北千明の批評では、猫と上北との対話という形式のなかで、両者から投げかけられる質問とその回答そして両者の語りが交錯し、上北自身の心情や願望が表出している。猫が話すというフィクション的な表層の下に存在する、自己批評のために設けた理性ある仮想他者としての猫と批評対象となる自身を対置されていることをここで強調したい。
猫:一生をかけて一つの問いに取り組むのが批評家なんだという言い方を柄谷行人はするけれど、そこに東浩紀という批評家の固有の問いがあるのかもしれないね。せっかくだから、きみが批評を書く理由も聞いてみようか。
えっと……正直、あまり良い答えは思いつけそうにないです。再生塾もそろそろ終わるわけで、その後のことを考えなきゃとは思っていますが。
猫:すぐに答えを出す必要はないさ。大澤聡の課題にあるように、「書き進める悦楽」があるうちはそれを楽しめばいい。
上北は自身が批評の目的に不明瞭な感情を抱いていることを、仮想他者からの問いに応じて打ち明ける。自身の抱く違和感や疑問を仮想他者に投げかけさせるこの図式は、自己批評の営みそのものだ。仮想他者である猫は上北の不明瞭な感情に対し大澤の引用でもって肯定する。
上北は『擬日常論』と題した最終課題の批評中で『花と奥たん』と『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を題材に、東日本大震災という非日常を機に日常が機能していないことを指摘し、従来の日常と非日常の連続という枠組みではなく、日常が非日常とつねにともにあるということ、つまりすべてが擬似的な日常でしかないという感覚を取り戻すところから考えるべきだと主張している。ここで、最終講評会において東浩記が投げかけた「震災後の人々が日常を取り戻そうとする努力についていいと思っているのか悪いと思っているのか」という問いを切り出しにして上北が提起した、まだ結論が出ていない試みに対してどう取り組むかという問題に向き合ってみたい。上北は『擬日常論』の最終部分では日常が取り戻されている現状に違和感はあるが否定できない感覚を抱きつつ、『アースダイバー』(2005年)を引用して、前述した擬日常の必然性を主張する。上北はまだ結論が出ていない試みに対しては、読者に対し暫定的にでも結末を提示する義務があると感じたと語っている。『擬日常論』では読者に誠実であろうと価値観が成熟する以前の段階で結論を提示してしまったことで、テクスト内の価値観は一貫せず、最終部では現状に対する違和感を述べるのみで締めくくられてしまった。
何が読者に対し誠実であるかを考えるために、まずは批評が果たしうる機能について考察しよう。佐々木が述べたように批評が読者にとってそれぞれ次に歩む一歩を決断するための反省という営みであるとすれば、なにより現在の地平を明らかにする試みが必要であろう。なぜなら、批評は常に今現在語る自己から発信する物であり、到着地点も現在地平であるべきだからだ。もちろん対象というカオスがすべてを語り終えるまで辛抱強く耳を傾ける営みこそがもっとも好ましく批評的であろうが、しかし今語らねばならないという必然性を要求される場合においてカオスがすべてを語り終える様子を見せない事態に我々はいかにして向かい合うべきか。
ここで判断保留の必然性を提起したい。思考という営みにおいて肯定しきれない価値観や事件に遭遇したとき、少なくとも辿り着いた現在の地平を述べた上で判断保留の態度を明示するべきだ。なぜなら同一テクスト内における価値観の齟齬という批評の基盤自体のちぐはぐさは読者を混乱させるからだ。現在の地平を注意深い観察を持ってもういちど振り返れば、再び対象が批評家に語りだすこともあるだろう。
序盤にて提起した批評家は仮想自己により一秒前の自己を批評するべきかという問題に向き合いたい。批評的であることは懐疑的であり、反批評的であることが妄信的であるとするならば、批評家は批評を公表する時に少なからず妄信的である必要がある。自分の批評がいかに機能するか完全に予測することは不可能であり、予期せぬ他者との遭遇可能性は抹消しうるものではないからだ。であるにもかかわらず社会に向けて批評を書き続けようと思うならば、批評家は妄信的に自身の言葉のマジックを信じ続けねばならないだろう。ここに批評家が反批評的たらねばならない理由がある。
* * * * *
最後に批評再生塾という場が批評を学ぶ塾生に対しいかに機能していたかについて考えを巡らせたい。批評再生塾はその名の通り批評を学ぶ塾であり、塾生は提示された課題に沿う批評を提出し、講義とその講評をうける。その一連のプログラムを10ヶ月繰り返し、各々が批評の修行に専念する。批評再生塾に提出した批評はネットに公開され誰にでも閲覧できるようになっているが、このシステムは自身の批評が自己外部においてどのように機能するのか塾生に体感させる働きを持っていることを強調したい。この経験は文章が意図したところと離れて機能する事態を受け入れる想像力を鍛え、他者の存在を脅迫的に感じるようになる。予期せぬ他者の存在を認め、その読解への恐怖に立ち向かい続ける塾生は結果として塾生は「批判や誤解に耐えるタフさ」を手に入れるために、他者との粘り強い対話が求められる。
上北の最終批評を通じて考察したように、次の一歩を進むために現在地平を明らかにする批評を書くために判断保留というストッパーを用いたとしても、インスタントな代替主張を避けねばならない。同一批評内で統一されない価値観は批評においてもっとも肝要な現在地平そのものを不安定にするものでしかないからだ。
第一期生が仮想他者との対話を通じて確立した主張を目指す批評家であったならば、第二期生は仮想他者との対話を通じて対象と歩んできた道筋を振り返ることで、常に思想とテクストの地平を一貫させた批評を試みる批評家になるべきだろう。もっとも自己の思想に忠実であろうとするなら、判断しなければならないという強迫観念から回避する態度が求められるだろう。誰より批評家は正直であらねばならないから。
文字数:3847