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『表層批評宣言』、再び 〜 閉じた読書体験から遠く離れて 〜

序章

旅に出ると気になることがある。それが車のマナーだ。実は私が高校時代を過ごした地域では右折優先というローカルルールがあった。どういうことかといえば、右折のウインカーを付けた車が交差点に新入してきた場合、その車は直進する車が過ぎるのを待たずに右折しようと決意していることを誰も疑わないということだ。隙あらば直進する車よりも先に交差点に新入し、鼻先を突っ込むのだ。その地方都市におけるその行為は誰もが期待することだった。

最初のうち、ドーフィヌの若い娘はどれくらい遅れたか時間を計ってやるわと息巻いていたが、プジョー404の技師はもうどうでもいいという気持ちになっていた。時計はいつでも見られるが、右手首に縛り付けられた時間やラジオの時報の音がもはや自分たちとは何の関わりもないものに思えた。あれはつまり、日曜日の午後に、南部高速道路を通ってパリに戻ろうなどというばかげた考えを起こさなかった人たちの時間なのだ。
『南部高速道路』フリオ・コルタサル P.179

コルタサルが描く南部高速道路でもやはり同じようなローカルルールが描かれる。ただし、それは少しも動かず、しかも週末中続くというひどい大渋滞という惨事に出くわした人々が突発的に共有したルールだ。その渋滞に出会った人々は、目前で連なる渋滞をそれほど長くは続かないだろうと楽観的に構え、とりあえずとしてお互いを車に乗った人として車名で認識する。しかし渋滞が長引くに従い彼らは車名ではなく個人名で呼び合うようになる。それは図式化すれば、ドライバーがハンドルを握る車が渋滞にはまった高速道路で同じく渋滞にはまった車のハンドルを握るドライバーという関係として描かれる。当初、ドライバーは相手の車を単に車としか認識しない。それがやがて車に乗った誰某という認識へと変わっていく。認識の変化を促すのは時間や環境などさまざまである。この作品は、人は道路という世界で車という言語を使って会話をしているという構造を内在する。言語としての車は使い始めこそその存在を認識してしまうが、慣れてくるとその存在を忘れ、あたかも人と人とが直接対面するように錯覚する。ところが人は車という言語を使っていることを思い出すことで、彼らは高速道路を走る一台の車に過ぎなかったことを突き付けられてしまう。錯覚から覚醒してしまうのだ。ところが今、この南部高速道路という作品がなす構造を人々が理解できなくなる世界が現れつつある。その鍵となるのが自動運転というテクノロジーだ。

今やAppleやGoogleといったIT企業が開発競争に明け暮れる自動運転について、先進国を生きる私たちに知らぬ者などいないだろう。むしろいま問うべきはその自動運転なるものを私たちがいかような存在として認識しているのかという点だ。自動運転に対する一般的な認識と問えばそれは便利な道具とという無邪気な反応が返ってくるだろう。たとえば前を走る自動車との車間距離を見計らって動作する自動ブレーキやセンターラインをトレースして走る自動操舵などの話を聞く私たちは「そうね、便利ね」と頷く。そしてそれらの機能を社会も私たちに好意的に受け入れさせようとし、私たちはそれを好意的に受け入れつつある。それはなぜか。便利だからなのか。一意的にはそうなるのだろう。安全性の確保以外、特に反対する理由はない。そして社会的にはどうだろうか。それは一言で言えは都合がいいということになる。交通事故を減らせ、渋滞も少なくなる。社会がスムーズに機能する。
その一方で自動運転が奪っていくものについての私たちの想像力はほとんど機能していない。便利の背景にある不便は確かに不便であるがだからといってそれは切り捨ててしまってよい不便なのか。この不便と不要の違いについて私たちは、考えていない。自動運転に移行したい社会はそもそもそのようなことを私たちに考えるようには仕向けない。そこで社会の代わりに私が不便と不要の違いについて考えてみようと思う。たとえば、自動運転が普及する少し前の世界を想定する。その世界では自動運転車と非自動運転車が同じ道路を共有している。ここで注目するのはドライバーの意識だ。自動運転車のドライバーと非自動運転車のドライバーの意識に端的に現れているもの、それが他の車が何をしようとしているのかという想像力だ。極論すれば自動運転車のドライバーは他車に対する想像力を必要としない。一方で非自動運転車のドライバーは他車に対する想像力を必要とする。この不均衡が何をもたらすのかということだ。その不均衡は、間違いなくすべての車を自動運転車に変えていく方向に動き、均衡を得ようとするだろう。
私たちの想像力は道路の使い方を決めるために欠かせない。だからこそ交通マナーには地域差があるし、地域差があるということはそこで想像力が行き交っていると換言できる。自動運転車の普及はその想像力を不要なものとしてしまう。自動運転車が普及する世界で自動車は公共交通機関にはならないだろう。あくまでも個人の所有物としての自動運転車となるはずだ。であるならば、やはりその世界でも自動車は多種多様なサイズや種類が用意され、ユーザは自分の好みや用途に応じて選択するのだろう。しかし、想像力を持たないドライバーは自車のことには関心があっても他車の事には関心を持たない。それがスポーツカーであろうとも社用車であろうともお構いなしである。かつてはスポーツカーであれば追い越されることの危険性を考えたがこの世界ではそんな想像力は不要だ。そうした心配はテクノロジーがすべて担ってくれる。しかしドライバーは自分の車には強い関心がある。スポーツカーを選ぶ彼はスポーツカーを選ぶ理由を両手で余るほど持っているのだ。だからこそ彼はたとえば引っ越しのときにはそれに見合った車を、すなわちトラックを選ぶ。子どもの引っ越しには2トン車を選び、家族の引っ越しでは4トンロング車を選ぶ。自分の都合で車種を選ぶだけなのだ。道の狭さや運転時の交通状況などはすべて自動運転がカバーしてくれる。慣れない4トンロングで狭い道は恐いから2トン車にしようといった、道路の状況への考慮はもちろん、他車への配慮などもはやチリほどにも存在しない。その世界では道路というインフラを多数の自動運転車が行き交っているが、道路と自動運転車は100%間違えない意思疎通をしており、その場で行われてる関係らしい関係といえばドライバーと自動運転車とがなす閉じた関係があるだけだ。

この自動運転車が普及する世界はまた見ぬ近未来の想像であるが、それと似たような構造を持つ現実世界がそこかしこで生まれつつある。たとえばTwitterやSNSといった表現形で、だ。テクノロジーは外部への接続性という開けた関係を構築する一方で蓄積された情報へのアクセスという閉じた関係も用意する。本来、というか、想定された使い方は蓄積された知識を手に外界に飛び出すという用途であったそれが、今では蓄積された知識を集めて鎧を作り外界から身を守るシステムとして使われている。そうなのだ、今や自らの意見を補強する意見をネットワークから探すことはたやすい。さらに賛同者を見付け、ローカルなネットワークを作ることもお手のものだ。ローカルに属さないネットワークを単なるモノとして関係を閉ざすことも難しくないし、あるいは外部となるネットワークを見出して攻撃することも、あるいは外部を見付けてローカル化することもやり方次第だ。不便なものは不要にしてまう力がそこかしこで生まれている。そしてそれは批評においても同じではないか、と今、思うのだ。
テクノロジーの/ネットワークの進化は知識の外部データベース化を可能にした。それは本来であれば理解度と引き替えに享受できる機能であったのだが、理解度さえも外部記憶されつつある今となっては検索能力のみが求められるだけだ。そのことが何を意味するのかといえば、それは批評対象に対して何を引くのかという選択が「必然」だけでなく「試行錯誤」によってなされる可能性だ。もちろん「必然」という選択がなくなることはないだろう。しかし「試行錯誤」が簡単にできることにより、それが「必然」の仮面を纏って引かれる未来がこないとも限らない。いや、それは今私たちが出会っている現実かも知れない。

最初にあったのは、同じではありたくないという意思であり、その意思の実現として諸々の作品が書かれてきたのだが、より正確にいうなら、こうした文学的な自意識の働きは、それじたいとして故のない妄想をあたりに波及させてきたわけだ。
『小説から遠く離れて IV同じであることの誘惑』蓮實重彦 P.57

蓮實重彦は作家らの「同じではありたくない」という共通の強迫観念が結果として作品の「同一性」をきわだたせてしまうと指摘する。この指摘は批評においても同じ事が言えるのではないか。批評を語る者たちの「同じではありたくない」という共通の脅迫観念が結果として批評の「過接続性」をきわだたせている。そしてそれをテクノロジーが加速する。もちろん、その「過接続性」が批評対象に有効に機能するのであれば何も言うことはない。しかしそれが「同じでありたくない」がための奇策であったり無理や無茶であってはならないし、なにより「同じでありたくはない」ということを突き詰めることの享楽さがきわだってしまうことだけは避けたい。

そこで私は今一度「表層批評宣言」を声高に宣言しようと思うのだ。テクノロジーがあらゆるものを接続可能にしてしまう今、「同じでありたくない」ことの追求よりもむしろ「同じであること」を目指すことで偶発的に生まれる差異を結果的に発見してしまう「かもしれない」冒険の旅に出ようと思う。この冒険の旅の羅針盤として私が選ぶのは『風の歌を聴け』(村上春樹)である。この『風の歌を聴け』については、石原千秋が自身の著作『謎解き村上春樹』において、平野芳信の『村上春樹と《最初の夫が死ぬ物語》』、ならびに斎藤美奈子の『妊娠小説』の両著作による批評がほぼ最終形として定着していると指摘している。そして石原氏は両者の批評を先行研究として捉えた上でさらに「ホモソーシャル」という概念を接続してその先の読みを展開する。本論で私は、この石原が行った「ホモソーシャル」による接続を解こうと思う。そして平野が『風の歌を聴け」で行った表層批評に立ち戻り、平野が明らかにした「深層の《構造》を覆い隠すために、表層の<語り>を意識的に乖離させている(同P.49)」という指摘を足がかりにさらなる表層批評を展開していこうと思う。またこの『風の歌を聴け』の隠蔽と乖離の構造が『君の名は。』にも見て取れることも合わせて指摘しようとも思う。蓮實は同時代の小説が同じ構造を持つことを指摘したが、私は構造の類似性は時代を超えた作品においても発見可能であることを確認しつつ、ともに同じ構造を持つことの意味を紐解き、当然ある両者の違いについても言及していきたい。
私は本論を通し、表層批評の有効性を再評価するとともに、平凡な批評による非凡な批評を目指す。テクノロジーが表層批評を駆逐してしまう前に。

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