一歩下がって師の影踏めず 〜定説今日的自己啓発書〜
◎幅広いカテゴリで読まれる自己啓発書
まず、導入として自己啓発書の面白さについて考えるところから始めようと思います。私が考える自己啓発書の面白さとは、その定義化の難しさに比べ、個別の書籍が自己啓発書であるか否かの判断は比較的簡単にできるところです。たとえばAmazonの検索窓に「自己啓発」と入力すると、40,530件の検索結果が得られ、カテゴリも「趣味・実用」「人文・思想」「ビジネス・経済」「ノンフィクション」「文学・評論」「コミック・ラノベ・BL」など、実に22カテゴリを数えています。一番少ないカテゴリは「楽譜・スコア・音楽書」で、およそ自己啓発から最も遠いと思われるこのカテゴリにおいても78冊の本が選出されていて、上位3冊の書籍名著者名を並べると、「愛の話 幸福の話」美輪明宏、『声の悩みを解決する本』文珠 敏郎、『発声と身体のレッスン』鴻上 尚史と、なるほど確かに自己啓発書らしいラインアップと頷いてしまうほど、一目見てそれとわかるわかりやすいタイトルが並びます。
さて、奇しくも今、私は「自己啓発書らしいラインアップだと頷いてしまう」と述べてしまったのですが、その根拠を具体的に取り上げると、それは「愛・幸福」「悩みを解決」といった単語であり、美輪明宏や鴻上尚史など、相談相手になってくれそうな「固有名」にあります。おそらく、こうした特徴的な単語や固有名が自己啓発というジャンルを括る柵の支柱になるのでしょう。そしてその柵は決して単純な形ではなく、その囲まれた面積に比較して遙かに長い柵を持つのだと思います。
◎自己啓発書のコアコンピタンスとは指南書にあり
こうしたいくつかの具体例を取り上げつつ自己啓発書を概観すると、自己啓発書の根底をなすイメージが見えてきます。それは偉人伝のような人物の生き様紹介的な読み物から始まったのでしょう。その後、一億総中流と呼ばれた横並び時代の到来とともに統計的/確率論的手法を伴った「こうすれば成功する」的な傾向と対策的書物が出始め、80年代、格差社会の台頭とともに成功者がその固有名をTVや雑誌で賑わすに従い成功者の成功体験を自叙伝的に綴る書物が現れ始めます。それが今では科学者や哲学者、研究者などが自身の研究成果や専門知を日常生活に応用するタイプの自己啓発書を出版し、百家争鳴とも百花繚乱ともいえるような状況が生み出されてきたといえそうです。
このようにしてある定度の数の自己啓発書を横並びで眺めることで、自己啓発書に特有の共通項を見付けることができます。それは自己啓発書が時に明示的に表明し、時に暗示的に描く「固有名」の存在です。自己啓発書はその多くでタイトルや副題に固有名を冠しています。それは人物名だったり、資格の名前だったりしますが、読者はその固有名を獲得し、追従したいと考え、その手段として自己啓発書を手にします。ここで注目すべきは、読者は単なる「あこがれ」の対象としては自己啓発書を手に取っていないということです。
◎アイドル本に感化されてもそれは自己啓発ではない
一つの例示をします。それにはアイドルの写真集が極端でわかりやすいでしょう。アイドルのファンが写真集に手を出すとき、その心中にはアイドルを身近に感じたい、その素顔を知りたい、いろいろな表情を見たい、などの理由があると思います。中にはそのアイドルのメイク術を盗みたいという理由から手にする方もいるかも知れません。ここで大事なことは、アイドルの一部(あるいはそのすべて)を自分のものにしたいという思いはあっても、アイドルとしての能力や機能を含めたすべてを自分のものにしたいとは自覚していない、ということです。自分がそのアイドルに成り代わって舞台に立ち、ファンと握手したいと考えるような人は、写真集は買わないでしょうし、その前にそれはファンの行為ではないと思うのです。
別の例示として矢沢永吉語録として知られる『成りあがり』矢沢永吉(糸井重里責任編集)を取り上げます。これもファンサービスとして発行された一冊ですが、アイドルの写真集と違うのは矢沢永吉をもっと身近に知りたいという気持ちで接したはずなのに、読了後には矢沢永吉的思考に感化されるという現象が起きます。この状態をしてこの本も自己啓発書だと指摘することは簡単ですが、厳密に言えばそれは違います。この現象を自己啓発書的効果と言ってしまうと、警察小説を読んで警官になったからという理由であらゆる警察小説が自己啓発書になってしまいます。このような線引きの難しさが、そのまま自己啓発書の線引きの難しさになっていると思います。
◎自己啓発書とそれ以外の線引きは難しい
では、冒頭に紹介した自己啓発書とアイドルの写真集、あるいは矢沢永吉の『成りあがり』との違いはどこにあるのでしょうか。その線引きとして重要なのが「それ以外の選択肢」の有無になります。たとえば自己啓発書とファン本の境界が曖昧なものとして堀江貴文の書物を取り上げます。ファンは堀江貴文の本をすべて揃えたくなりますが、自己啓発書として読む場合はどれを読めば良いかと迷うはずでしょう。この迷いの有無が自己啓発書かファン本かの区別になります。もちろん、すべてを読んでしまう猛者もいますが、そういう読者は努力家なので遅かれ早かれ自己啓発書に頼ることなく自身の力で方法論を確立させてしまうので自己啓発書かファン本かの区別は問題になりません。
ここまでの論考でいくつか見えてきたことがあります。自己啓発書の特徴として、読者が関心を寄せる固有名が掲げられており、なおかつ、どの書籍を選ぶかは読者に任されていることがあります。とくに選択の自由は大きな特徴です。言い換えれば、読者は固有名やその個人が持つ能力や機能ならなんでも良いと思ってはいないということです。読者は自身が手に入れたい能力なり機能なりを明確に知っている(と思っている)ことを示してもいます。この読者の「固有名が持つ能力や機能から自分に必要なものを選択している」という事実は非常に重要であり、鍵でもあります。それはファン本と自己啓発書との線引きであり、読者が自己啓発書に何を期待しているかを明示しているからです。
◎自己啓発書とキャラクター小説の類似性
かつて、大塚英志はキャラクター小説を取り上げ、「それは書き手自身がたとえ「私」と一人称で書き出したとしてもそれは作者からは全く切断され、徹底して仮構化されたキャラクターが語る「私」である小説です。言い換えれば作中のリアリティを「私」=作者である、ということに求めない小説です」と指摘しました(『物語の体操』大塚英志 p.204)。それと同じことが自己啓発書を選ぶ読者にも起きています。大塚が指摘するような「私」=作者という関係を、自己啓発書の読者は厳密には求めていません。読者は確かに固有名を求めて自己啓発書を手にしますが、読者が欲しいのは固有名が伝えるすべてではなく、固有名の能力なり機能の一部なのです。言い換えれば、読者が必要とする特定の能力なり機能をドンピシャで持っている「私」であれば十分で、それ以外の「固有名」たらしめる部分は不要なのです。その意味で、読者は自己啓発書について、特定の能力なり機能なりを仮構化したある種のキャラクター小説として捉えているという仮説を持ち出すことが可能になると思うのです。資格試験対策本などで資格が擬人化されている書物などは、まさにキャラクター小説的だと思うのです。
◎自己啓発書はゲーム的リアリズムを具現
その大塚が指摘したキャラクター小説ですが、その後東浩紀がゲーム的リアリズムという概念を用いて大塚の論理をさらに展開させました。東は大塚の説く文学史を「田山花袋の「私」は外国文学の主人公をモデルとして作られたが、新井素子の「あたし」はマンガの主人公をモデルとして作られた。(中略)だとすれば、主流文学の技法とライトノベルの技法は、前者が現実的で後者が虚構的だとして対立的に捉えるべきではなく、同じように現実から遊離した二つの虚構に過ぎないと考えるべきなのではないか(『文学環境論集essays』東浩紀p.18)」と総括し、その上で「小説はキャラクターしか描けないことを、主流文学は知らないが、ライトノベルは知っている(同 p.20)」と指摘し、ライトノベルの主流文学に対する優位性を訴えています。さらに東はこのライトノベルが持つリアリズムの優位性を引き受け、その論旨をノベルゲームに展開させていきます。そしてゲーム的リアリズムを提唱します。
東はギャルゲーを引き合いに、「小説とノベルゲームでは、物語と作品と感情移入の関係がまったく異なっている(同 p.35)」と指摘します。端的にいえば、小説は読者が現実から離れて小説世界に没入することで感情移入が果たせますが、小説を読む私という構造がその感情移入を妨げることがあります。一方でノベルゲームはゲームをプレイする現実世界から視点キャラクターに同一化するため、小説で妨げとなったメタフィクション的な構造が感情移入を補うように作用しているという指摘です。そこで私は東のこの指摘を自己啓発書に重ねてみようと思います。つまり自己啓発書とは、読者が選択した固有名の能力なり機能なりを、読者の立場から書物を読むことで獲得できるというゲームを体験していると捉えてみようと思うのです。そうすることで、先にお伝えした「自己啓発書はキャラクター小説である」という仮説を、自己啓発書は「プレーヤー的視点=メタ物語的な視点を組み込んだ小説を意味するもの(同 p.57)」としてのゲーム的リアリズムを体現する書物であるという仮説へとバージョンアップできると考えるのです。
◎ゲーム的リアリズムのその先に
このことをもう少し丁寧に考えてみましょう。東は「自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムはともに物語を閉ざす原理だが、ゲーム的リアリズムは物語の外部を招き入れる原理なのだ(同 p.58)」と繰り返ります。そして「ノベルゲームでは物語の外部は、ゲームのシステムによって要請された。小説ではそれは、ゲーム化した世界によって要請されている(同 p.59)」と舞城の『九十九十九』を例示します。では、自己啓発書はどのようにして外部を招き入れているのでしょうか。それは固有名が持つ能力なり機能を、現実世界を生きる読者が現実世界をよりよく生きるために必要としているという「今ここで」の切実性によって招き入れているのです。
今、私は「今ここで」と述べましたが、この自己啓発書が関与する「今ここで」について少し考えます。それは、「今ここで」が存在することで、東のゲーム的リアリズムを追い越しているのではないかという問いを再度立てたいからです。現実を虚構で上書きする経験が(いわゆるメタフィクショナルな経験が)、ゲーム的リアリズムのエンジンであるとするなら、自己啓発書はその「現実を虚構で上書きする経験」だけで終わらず、それをさらに現実に持ち帰ることを可能にしていると思うのです。「現実を虚構で上書き」とは読者の現実を自己啓発書を読むことで固有名が持つ知識で上書きすることを意味します。そしてその「経験」を現実に持ち帰ることとは、自己啓発書を読むことによって得た知識を現実世界で実際に使うということになります。この「経験」を現実に持ち帰る部分こそが、ゲーム的リアリズムを追い越している部分ではないかと思うのです。
◎自己啓発書とパラフィクションの出会い
しかし多くの気付きが既に知られていることの焼き直しであるように、この「現実を虚構で上書きする経験を現実に持ち帰る」という構造もまた既に指摘されている構造でもあります。それはパラフィクションという概念として佐々木敦が提唱しています(『あなたは今、この文章を読んでいる。』佐々木敦)。
パラフィクションとは何か。佐々木の言葉を借りれば、それは「読者の意識的無意識的な、だか明らかに能動的な関与によってはじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることのプロセスの中で、読者とともに駆動し、変異していくようなタイプのフィクションのことをパラフィクションと呼んでみたいと思うのだ。(同 p.222)」と定義されています。この「読者の読むという行為が、より能動的な読みを生成していく」ということはつまり、まさしく自己啓発書で行われていることではないのでしょうか。しかも佐々木は伊藤計劃の『屍者の帝国』を例示し、「物語の改変」と「私の改変」という更に二つの定義へと拡張しています。それは『屍者の帝国』とは、伊藤計劃が遺したプロットを円城塔がトレースするという構造によって書かれたという特殊性から明らかにされた定義であり、遺した者と残された者との間にある決定的な時間差を生きることによって生成されているものがあると一般化されています。この拡張された定義さえ自己啓発書は追従することができます。自己啓発書とはつまり、固有名が持つ能力なり機能なりを読者が固有名のやり方をトレースすることで獲得するという構造を持っており、『屍者の帝国』で「伊藤計劃=円城塔=私」の関係を作ったように、自己啓発書でも「固有名=読者=私」という関係を作っているのです。そこに「伊藤も円城はどちらも書き手だが、読者は読み手ではないか」という批判が出ることは承知しています。しかしこの批判に対して私は、読者は固有名の書きたいことを進んで受け入れる体制を持っているために「読むこと」=「書かれていく」の関係を生成していると反証します。つまり自己啓発書はその関係性のなかに佐々木が繰り返し提示する「あなたは今、この文章を、読んでいる。」という「「読むこと」を再起動し、いささかも抽象的な存在ではない、あくまで具体的で現実的な「読者(性)」なるものをしかとつかまえようとすること(同 p.280)」を見出すことができるのです。
◎ふたたびのパラフィクション
しかしいくらなんでも話がうまくできすぎていると思いませんか。私はここで「本当にそうなのでしょうか」と立ち止まってみようと思います。そこで、「自己啓発書はパラフィクションなのか」という問いを今一度立ててみようと思います。確かに自己啓発書は「あなたは今。この文章を、読んでいる」構造を持っています。それは疑いようがありません。しかし見落としていることが一つあります。それは自己啓発書が自己啓発書であるがゆえの限界でありメリットでもあること、つまり結論が既に提示されているという点です。自己啓発書は固有名が持つ能力なり機能なりの獲得を目的に書かれているため、このフィクションの結末を読者はあらかじめ知っているのです。このことを読者は「読むこと」を再起動し、具体的で現実的な「読者(性)」をつかまえることの駆動源にしています。整理しましょう。佐々木が指摘するパラフィクションでは、「あなたは今。この文章を、読んでいる」構造を、書物の中に予め埋め込むことで読者が内発的に発動できるようにしています。それに対して、自己啓発書の「あなたは今、この文章を、読んでいる」構造は、読者の目の前にニンジンをぶら下げることによって発動させています。この内発と外発の違いはどちらが優位という問題ではありません。ただ一つ言えることそれは、読者の目の前にぶら下がるニンジンを選んだのは(つまり固有名が持つ能力なり機能なりの何を選択したのかという意味ですが)他ならぬ読者自身であるという点です。自己啓発書が抱えるこの違いの意味を精査することで、「自己啓発書はパラフィクションなのか」という問いへの応答が可能になると思います。
◎自己啓発書と二人称の親和性
佐々木はパラフィクションについて「読まれるたびに新たに生成し、そして生成し続ける小説(同 p.224)」と伝えています。この引用は二人称の扱われ方との関連で述べられていて、そこでは「外部の作者」⇄「内部の作者」/「内部の読者」⇄「外部の読者」という構図を用い、二人称が扱われているときに「内部の作者」/「内部の読者」の対応関係が直結し、それにより「外部の作者」を「外部の読者」がその実存を直接認識するという状況が生まれると指摘します。それは「あなた」という表記を読む読者が、それを書く「私」を計らずとも発見してしまうことであり、そのことがつまり「読むこと」で「生成」されるフィクションの一例なのです。この生成されるフィクションとは「読む」読者にとってうっかり忘れていたことでもあります。リアルに足を付け読書する読者の読書体験はフィクションなのですが、その読書体験に感情移入している読者においてその瞬間の状況はリアリズムと呼べる行動だからです。リアルに立脚し「読むこと」でフィクションを「生成」できるのです。その行為のリアリズムの程度は書かれている内容によることなのでここではそれ以上の言及はしません。
では自己啓発書ではどうでしょうか。自己啓発書でも「あなた」が使われることが多々あります。むしろ読者は固有名である「私」に「あなた」と呼ばれることを期待すらしています。この状況が生まれてしまう理由を考えてみましょう。自己啓発書でもパラフィクションがなす「読むこと」で「生成」されることは同じように機能しています。異なるのは、何が「生成」されるかです。自己啓発書において読者は予め「固有名」を選択していたことは既に伝えました。そのことから帰結できること、それは、読者は「読むこと」で「固有名」の能力なり機能なりを現実に手にできたというリアルを「生成」(「想像」と言い換えるとわかりやすいかも知れません)しているとは考えてはどうでしょうか。これはどういうことでしょうか。まず、読者はなりたい自分を夢見、どの書物を手にするか迷い、これだという自己啓発書を購入しました。このとき読者は自己啓発書を購入することで「購入時の読者(自分自身)」を過去というフィクションに立脚する存在に置き換えてしまったのです。つまりこの本を読むことでなりたい自分になれるのだから、それがリアルになるのだから、今の自分は過去の自分でいいじゃないかと考えていたということです。それは今ここで自己啓発本を買うことによって将来のリアルを前借りする行為、あるいは現時点で自己否定を行うことで将来の自己啓発を確実化させたという言い方もできます。自己啓発書のパラフィクションとは、転倒されたパラフィクションだったのです。ついでに言えば、この場合のリアリズムは読者の気持ち次第でどうにでもなるともいえます。
◎自己啓発書とは、一歩下がって一歩進ませる機能を与えられた書物
最後にまとめてしまいますが、自己啓発書は確かにパラフィクションの構造を持っていますが、それはパラフィクションとはいいつつもリアルとフィクションを転倒させた、つまり自己否定を前提にすることで将来の自己啓発というリアルを生成させる装置であったのです。つまり、自己啓発書を読書する人は「念願の固有名を手に入れた」といい気になっているのかも知れませんが、外から見ている第三者にすればいつもの平穏な日々が展開しているだけです。ただ読者だけがその場所で一歩下がって一歩進むということを延々と繰り返しているだけなのです。ときにそれがやっかいな問題をもたらすことについてはまた別の機会に。
参考文献:
『成りあがり―矢沢永吉激論集』矢沢永吉(糸井重里責任編集) 1980
『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン』大塚英志 2003
『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』東浩紀 2007
『あなたは今、この文章を読んでいる。 –パラフィクションの誕生』佐々木敦 2014
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