だから批評は再生しなくてはならない!
◎芸術とは、芸術家とは
芸術とは、近代の感覚でいえば、人間の内部を描くことであり、内部が叫ぶ声を聞くこと、内部の動きを見ることといえよう。その意味では、芸術は一人の人間による閉じた行為であってもよいはずだ。しかし現実にはその行為は思念行為に留まらず、人間の外部によって出力されてしまう。ここでいう外部とは文字や線、発話、身体活動である。なぜ人間は内部を外部によって出力しようとするのだろうか。文字や線、発話、身体活動ほど不自由なものはない。自らの内面を描き、聞き、見ることを自らのためだけに行うのであれば外部による出力は不要ではないのか。半歩譲ったとしても習作で十分ではないのか。その先の完成度を求める必要があるのだろうか。芸術と技術を磨くことは果たしてイコールなのか。その時間を新たな関心へと向けることの方がよほど有意義ではないのだろうか。
しかし人は外部による出力を試みる。完成度を高める営みを止めない。なぜだ。
それが私だからだ。
そこには“それが私”に対応する他者の存在が透けて見える。
芸術は人間の内面を描くことであるとは冒頭で伝えた。そして多くの人間が外部によって出力しようとしているとも記した。しかしそれは人類のすべてではない。出力していない人間は何をしているのか。彼らの内部にも芸術は存在する。芸術は特別な存在だけが持つような種類のものではない。芸術は誰にでもある。いつでもある。どこにいてもある。
しかし出力することをしない。なぜだ
しないのではない、誰かのようにはできないと思っているからだ。
ここにも“誰か”に対応する他者がいる。
こう考えてみよう。芸術はすべての人の内部にある。だからこそ人は芸術を理解できるし、理解しようともする。そして人々の中から出力する者が現れる。人々は彼らを芸術家と「呼ぶ」。人々の言葉で。そして彼らは人々に芸術家と「呼ばれる」。彼らに伝わる言葉で。人々と彼らは間に共通のルールを挟んで「呼び−呼ばれる」関係を構築する。
では批評はどうだろう。批評もまた人間の外部によって出力される。が、その対象は人間の内面“だけ”ではない。人間の内面が人間の外部によって出力されて他者が受け取るまでの「呼び−呼ばれる」関係が対象となる。そして批評家はこの「呼び−呼ばれる」関係をむしろ外部から構築する。批評は人間の内部にはない。批評は常に外側にあり、内部をうかがうものだ。
そして使命とは、できると思っていることをすることだ。
◎舞台という装置
表現において芸術家や批評家は観客と対峙するために舞台に立つ。その中でも演劇の特殊性は際立っている。あるいはそれ以外の表現、絵画や彫刻、活字、映画、音楽表現の限定性を指摘すべきかも知れない。絵画表現は奥行き概念を持たず、彫刻は時間概念をもだない。活字表現は時間概念を取り込みつつあるがその制御を放棄している。映画表現は時間制御に成功しているがカメラによって観客の視点を縛る。音楽表現はさらに観客の視点を自由にしたが、観客に背を向けて立つ指揮者の存在が観客の前に立ちはだかる。なぜ指揮者は観客に向き合わないのか。指揮者の背を向ける行為は観客を信用してのことなのか、無視しているのではなく。そして指揮者が舞台から降り、演劇が始まる。
演劇は舞台に立つ表現者と観客とがその場を共有することで生まれる。こうした状況について、鈴木忠志は舞台は共同体を仮構していると指摘する。
たとえばいま、国家という共同体があります。そうしたものが成立しているときに、わざわざもうひとつの集団のルールをつくるということは、それ自体がすでにフィクショナルな行為だと言わなければならないでしょう。近代芸術観的な二元論で言えば、このフィクショナルな集団が共同体のルールと対立する位相になります。そうした集団の行為の上に、一人の孤人の身体を動かしたり声を出したりする表現行為があります。そして個性を発揮するのです。
『演劇とは』鈴木忠志 1988 P112
鈴木はフィクショナルな集団は演劇だけの特殊性ではないと続ける。例えば会社組織も利潤を上げるために国家とは別のフィクショナルな共同体を作り、実戦していると続ける。では演劇がフィクショナルな集団をつくる目的は何か。鈴木はこの問いに以下のように答える。
ですから、あらためて演劇の基本とは何かといえば、戯曲でもなければ、俳優が舞台上で演技をすることでもない。孤がフィクショナルな集団、仮構されたルールをつくり、それと関係を持つことなのです。(中略)これを一人の人間のレベルで言い直しますと、個人が集団の一員となるのではなく、一人の人間=孤が集団そのものになる、つまりまず集団のルールを通過することによって一人の個人になるということです。これが演劇という表現行為の手続きです。
『演劇とは』鈴木忠志 1988 P112
先に、私は演劇の特殊性とは、指揮者が舞台から降りているところにあると指摘した。それはつまり「一人の人間=孤が集団そのものになる」という鈴木が仮構する演劇と重なる。舞台に立つすべての者が集団のルールを自覚して自立的に動けるからこそである。しかしそれだけであろうか。私はその先のことを考えている。指揮者(演出家)が舞台に立たないことの意味。それは役者のみならず、観客にとっても大きな意味を持っている。例えば音楽において指揮者は都度都度各パートへの指示を行う。その指示が観客にも見えているということの意味、すなわち観客の視線は十分に自由ではないということだ。一方で演劇では演出家は舞台に立たない。このことの意味は深い。
舞台に立たない演出家は、演出家が伝えるフィクショナルな共同体という制度から俳優を自由にするとともに、俳優が個人として共同体に参加する自由を与えていることになる。これは既に鈴木が伝えていることだ。その先とは観客のことである。観客はこの演劇というフィクショナルな共同体のルールの外側に追いやっていいのか。いやそうではあるまい。それが教育的な、例えば交通法規を守ることを伝えるために警察官らが行う寸劇であったとしても、観客はそのフィクショナルな共同体のルールを獲得し、そのフィクショナルな共同体に個人としての立場を獲得することは可能だ。もちろん、そうする自由を放棄し、いついかなる時も交通法規を遵守するということだけを覚えて帰るということもあるだろう。演劇は演出家の手を離れて初めて演劇となる。
では演劇をコントロールするのは何か。それはフィクショナルな共同体のルールだ。そのルールは演出家によって俳優に受け継がれ、俳優は舞台の上でそのルールに従って表現する。そしてルールは俳優を通して観客に引き渡される。演出家の解釈が俳優の解釈となりそれが観客に還元される。ここに演劇の特殊性がある。演出家は俳優らに自由を与え、俳優らは与えられた自由を観客のために使う。観客のために使われる自由をどう扱うかは観客に一任されている。このことが意味すること、それは解釈の拡散を意味する。すべての観客が同一の解釈を持って劇場を去るということの不可能性である。そう、演劇とは劇場という箱の中で観客それぞれの解釈が折り重なった状態で存在するのだ。ついでに言えば、その重なり合っている状況そのものを確かめる術は誰も持っていない。劇場で起きていること、それはシュレーディンガーの猫に起きた状況に酷似している。
「シュレーディンガーの猫」とは何か。それは量子論の文脈で使われる概念である。量子論的世界において箱の中に閉じ込められた猫は、生きてもいるし、死んでもいるという二つの状況が重ね合わされた状態で置かれており、猫の生死を決定するのは観察者の“猫の様子をみる”という行為である、というものだ。重要なのは箱の中ではあらゆる状況が重なり合うように存在しているにも関わらず、その状況に観察者が介入することで重なり合う状況が損なわれてしまう。
劇場で舞台を見る観客は舞台に立つ俳優らを通してそれぞれがそれぞれのやり方でルールを再構築する。200人の観客がいれば劇場内部には200通りのルールが生まれ、それは目前の観劇体験としてそれぞれの観客の手元に降りていく。その解釈はただその場を共有する観客の胸の中で小さく灯る。ところがその灯火は隣り合う観客同士との出会いによって姿を変えてしまう。今そこで行われた表現について観客同士が話合うことでかつて観客の胸の中にあった灯火はわずかに形を変える。正確にいえば、話しかけた観客の言葉を聞いた観客はその印象を受けて「私はこう思った」という解釈を返す。その「私はこう思った」であるが、別の人から話かけられればそれとは別の「私はこう思った」を返すだろう。そのようにして当初、胸中にあった灯火は観客と言葉を交わす毎に変化していく。その結果、灯火が大きなたき火になることもあれば、そこかしこを照らす無数のあかりになることもあるだろう。それはどちらが良いとか悪いとかではない。重要なことそれは、そこで起きていたことを確かめようとすることで当初の観客の胸中にあった灯火はもはやどこにも見当たらなくなってしまうということだ。これがギリシアの昔から行われてきた営みである。今にしてようやく量子論が演劇論に追いついたのだ。ところで現代演劇ではその営みが今もなお行われていると信じて良いのだろうか。
◎21世紀を生きる私たちの演劇表現
もちろん、同じ演劇表現を見た観客らにそれぞれ異なるルールを感じさせ、個別の解釈を与えることで、観劇後の混乱を招くという演劇表現もないわけではないが、それはともあれ演出家は観客をゼロの状態においたまま俳優らを舞台に解き放つというような無茶はしない。演劇がフィクショナルな集団であったとしても実存する共同体との接点をなにひとつ持たせずに俳優らを舞台に解き放つようなことはしない。多くの場合、観客には接点が与えられ、それをよりどころに俳優らの動きを見ながらルールを再構築していくのだ。ではその接点とは何か。小道具だ。
それは階段であったり、扉であったりする。時にそれは言葉遣いや仕草であったりもする。いずれにしても小道具そのものに深い意味は無い。重要なのは小道具の汎用的で普遍的な特性にある。階段の先には別のフロアがあり、扉の向こうには別の空間があるというように、だ。観客はそうした小道具をよりどころに俳優らが会得している演出家のルールに気付いていく。
ところが先日一つの状況に出会った。それは高校演劇だった。『透明なフレームの外にある』という東京都立世田谷総合高等学校の演劇部による演劇だった。それはサミュエル・ベケットの『ゴトーを待ちながら』を思わせる内容の作品だったが、そのことはここでは問わない。ここで問題にしたいのは彼らが小道具としてタブレット端末を使っていたことだ。それはラストシーンで使われた。
舞台は高校の文化祭。クラスの出し物として映画を作ることになるが、監督役の少年はとりとめのないクラスメートをとりまとめることに紛糾し、立ち止まってしまう。そして迎えるラストシーン。訳ありの少女と立ち止まった少年だけが空き教室に取り残される。そこで二人がお互いの出方を待つだけの動くに動けない状況が生まれる。そのとき少年は少女に声をかける代わりにタブレット端末を取り出して少女の方に向けた。少女は少年のその行為に応えるように最後のセリフを語り、終劇する。
このシーンでのタブレット端末の使われ方について、それがカメラなのか、ムービーなのか、あるいはWebの何かを参照していたのかは結局わからないままだった。おそらくそこに深い意味は無いのだろう。しかし、この高校生にとって何気ない動作を何気ない動作と見ることができない観客に対して我々はどう接すればすれば良いのだろうか。このシーンにおける小道具の使い方、それがこれからの演劇に起きる変化を予感させる。それは深閑でもあり、震撼でもある。
◎アニメーションで起きていることと演劇で起きそうなこと
演劇の表現形式を借用したメディアの一つであるアニメーションについて考える。書き割りを背景に人物が動くという演劇の基本構造や省略された状況を役者が語ってしまう語法、暗転によってシーンを切り替える作法など、演劇とアニメの構造の類似性は取り上げればいくつも出てくる。そのアニメに今新しい技術が次々と投入されている。その結果どうだろうか、書き割りのはずだった背景は写実性を高め、省略されていた状況は細部が描き込まれて登場人物のモノローグが減り、CGの進展によりシーンのつながりもより自然になっていく。まるで「実写映画みたい」に。それが悪いとは言わない。しかしアニメとはそういうものだったのか。ユーリ・ノルシュテインは今もなおユーリ・ノルシュテインであるというのに、というのはノスタルジーなのだろうか。
先の高校演劇におけるタブレット端末の扱いはアニメにおける表現技術の進展と重なってしまう。技術が演劇を追い抜こうとするとき、演劇には何ができるのだろうか。このラストシーンに登場するタブレット端末はこれまでの小道具とは明らかに違う。それは複数の異なる意味が一つの小道具に内包されている点にある。例えば震える手にナイフを持った俳優が舞台に立てば、そのナイフは林檎の皮を剥くために手にしたわけではないことに気付ける。しかしタブレットはそういう予想を立てにくい。なぜならそれはカメラであり、動画も扱え、Webを参照できるツールなのだ。震える手にタブレットを持てばLINEで友だちを追加しているということは、知らない人にはわからない。こうしたツールがそこそこ普及し、それが演劇の小道具として舞台に登場したとき、我々はそのそこそこ感に対応できるのだろうか。考えればわかる、見続けていればきっと気付くということを、演出家はどこまで信じられ、俳優らはどこまで信じられ、観客はどこまで信じられるのだろうか。
似たようなことは観客の側にも起きつつある。いずれツールは進歩し、観劇中に「いまのあれってどんな意味があるの」というメッセージを昨日観劇した見知らぬ人に聞くことさえ叶うかも知れない。その手段を観客が手にしたとき、観客はどこまで現前に繰り広げられる表現を信じていられるのだろうか。演出家はどこまで観客を現前の表現に引きつけていけるのだろうか。そして俳優はどれだけラストシーンまで観客にルールを探させることができるのだろうか。観客がツールに頼ることをマナー違反と否定することは簡単だが、それはもはや演劇ではない。かつて演劇と呼ばれたなにかに過ぎない。演劇にはそれさえも包括できる力があったのではないか。
批評にできることは存外に少ない。演出家−俳優−観客が築こうとし、しかしばらけてしまう予感のある「呼び−呼ばれる」関係に対して批評家は外側からしか関わることができない。失われ行く何かを存続させるためにできることは多いが、それは批評なのだろうか。失われ行くその姿を見続けることこそ批評の役割であるし、存続させるために何かをするのであればそれは批判であるべきだろう。それが演劇なのかと、声を挙げよう、手を掲げよう。それが批評の役割だ。だがしかし現在の批評はその役割を果たせているのか。はたして。
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