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過去が反転した現在とエリック・サティ

◎プロローグ

本論ではコクトーによる『エリック・サティ』を紹介します。このサティ論は、コクトーが1919年にブラッセル大学で行った講義録を坂口安吾が翻訳したもので、その初出は自身が発行人を務める『青い馬』創刊号(1931.5)でした。ただしこのコクトーによる『エリック・サティ』の翻訳は坂口が初出ではありませんでした。初出は堀辰雄による翻訳で1929年、『青い馬」が発行される2年前のことでした。堀の翻訳と坂口の翻訳の相違点について、初期の坂口安吾のサティ観を検討した大原祐治によると「堀が割愛した部分でコクトーが言葉を費やして語っていたのは、まさにこうしたサティの音楽的態度に関する内容だった。」*1と指摘しています。

このような指摘は秋山邦晴の文献にも見られ、大正から昭和初期にかけて日本でサティの音楽が聞かれることはほとんどなかったにも関わらず、彼の存在感や独特なエピソードばかりが評論家や文学者、作家によって流布されるという、ある種奇異な広がり方をしていたことがわかります。そうした状況において坂口安吾が成したこと、それはサティの音楽そのものを評価しようとする試みでした。坂口は『エリック・サティ』の翻訳に先立って歌手の三潴牧子(みつままきこ)夫人を訪ね、サティのシャンソン曲『おまえが欲しい』を歌ってもらったことを記しています。「昭和のはじめには、サティの音楽はまだほとんど演奏されることがなかった」*2(秋山)ことを考えると坂口のこの行動は必要だったことなのでしょう。が、翻って考えれば、それまでサティについて紹介していた人々のどれほどがサティの音楽を実際に聴いていたのか、ということでもあるのだと思います。

◎サティから少し離れて

戦前に書かれた『エリック・サティ』を戦後70年を経た現在に蘇らすため、一つの挿話をいれたいと思います。

戦争を終えて高度経済成長に湧いた時代にマフラーを編むという行為について考えてみます。その当時、マフラーを編むということは、それを見るものにハイカラな印象を与えたかも知れませんが、それでもやはりマフラーを編むという行為はただ単純にマフラーを編むという行為でしかなかったはずです。この感覚は戦前における着物を縫ったり、戦中に着物をもんぺに替えたりしたこととさほどかわらない、戦前から続くありふれた生活のワンシーンであったはずです。

ところが現在においてはマフラーを編むという行為は日常のワンシーンではなく、そこにある種のニュアンスが付与された特別な<行為>となっています。それは手編みのマフラーに限りません。身の周りを注意深く眺めていくと、かつてはなんでもなかった行為が、たとえば浴衣や洋服、カバンを縫い、梅干しや味噌などを仕込むという行為が今なお行われていることを見てしまうとそこに何か特別な意味を付与し、その行為を色眼鏡で見ていることに気がつくと思います。

なにが付与されているのでしょうか。

具体例を出すなら、それはクリエイティブやこだわりといったセンスや感覚的なものであったり、お金や感情と引き替えにする市場的なもの、あるいは誰かに強制されてしかたなくということもあるでしょう。その付与されたものだけを見るならば、実はそれはこれまでにも見られたことでした。上手にできた、渡せて嬉しい、子どもために夜なべしたなど、自身に経験がなくとも戦前・戦後を描いた小説や映画でよく描かれる情景でもあります。

つまり変化は付与されているものに起きていたわけではないのです。

むしろ重要なことはこれらの行為がかつては誰もが行っていた、特に感慨もなく、むしろ当たり前の行為として日常的に行っていた行為ということを忘れてしまっている点にあると思うのです。忘れてしまった今だからこそ、その付与された意味だけが際立って目に付いてしまうのではないかと思うのです。

では、なぜ人々はその行為の日常性を忘れてしまったのでしょうか。それには時代の変化を見ることが重要になります。

まず、かつても今も変わらないことから考えます。それは手編みのマフラーに内在する、人が行うということに起因する不可避的な問題があります。たとえば失敗です。上手くできないという状況が行為者のやる気を奪い、行く手を阻みます。このハードルを乗り越えると普通に編めるようになるのですが、実はこのハードルはさほど高くありません。マフラー程度あれば誰でもわずかな練習で普通に編めるようになります。靴下もさほど難しくはありません。かつてマフラーを編むことが日常であったように、実はマフラーを編むという行為はさほど難しくはないのです。それに日常的な編み物であれば、お手本を探そうと思えばどこにでも見付けることができたのです。ところがこの先に進もうとすると話は変わってきます。手袋などの目の細かなものやセーターなどの面積の大きなものとなると急にハードルが高くなるのです。そしてそこで初めて上手だねという言葉が本当の意味で機能するのです。その言葉を糧に、人は編み物を楽しみ、別の人が編んだ編み物を見てすごいとかこうすればいいのよといった話をしたのだと思います。言い換えればマフラーを編むという行為が日常であったというよりは、日常より先に進むことが難しく、結果的に日常に留まったという方が正しいのかも知れません。

次にかつてと今とで変わったことを考えます。そこには大きな、しかも決定的な違いがあります。それが「かつては買うよりも編む方が安かった」という時代的背景です。しかも自分で編むことで欲しいデザインやサイズ、色が手に入るという自由がありました。経済性の問題から、あるいは欲しいものがないという現実から、なによりそれが欲しいという切実な思いからマフラーが編まれ、浴衣や洋服、カバンが縫われ、梅干しや味噌が仕込まれたのです。ところが貿易摩擦が始まるころになると状況が変わってきます。市中に海外製品が出回り出すと人々の欲しいという気持ちはさらに高まり、バブル景気が始まるころにはお金はあっても時間がないという状況になります。しかもその頃には人々の購買力はかつてとは比べものにならないほど高まり、「かつては買うよりも編む方が安かった」マフラーは、「買った方が編むより安い」くなり、しかもデザインやサイズ、色も豊富になり、自由に選べるようになったのです。

このようにして戦前から戦後のしばらくまで存続していた日々の生活のなかでマフラーを編むという日常が消え去ったのです。その一方で消えなかったものもあります。それがマフラーを日常的な編みからさらにテクニカルな編みへと先に進めようとする行為や、既存のルールを超越する試みに付与された、クリエイティブやこだわりといった言葉たちでした。

これはどういうことなのでしょうか。

それは日常という基準を共有しない「編まない人」が「編む人」に対してクリエイティブやこだわりという修飾語を用いる状況が生まれたということを意味します。上手下手は基準があってこその上手下手です。枠の外側を目指す逸脱もまた基準があってこその逸脱です。基準なき上手下手は単なる言葉遊びに過ぎません。クリエイティブについて語る私たちは誰であれ、そのクリエイティブの程度に意識を寄せてはいけないと思います。寄せるべくは、視界の邪魔にならない片隅にそっと基準点を置いておくということ。そしてそこにあるものをそこにあるままがままに楽しむこと。そのことにこそ意識的になるべきではないのでしょうか。クリエイティブとはその剰余として感じ取れる何かであれば十分ではないのでしょうか。

◎そして坂口安吾とサティに戻って

坂口安吾がサティの音楽を通して得たものが「ファルス」でした。彼はコクトーによる『エリック・サティ』を翻訳し、補註を付け加えることを通して「ファルス」とは何かについて考えを巡らせたに違いありません。その思いについて坂口は自著『FARCEに就いて』(昭和7年)のなかで「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残らず肯定しようとするものである」と記しています。この安吾の語るファルスについて柄谷行人が「安吾によれば、ファルスとは徹底的に合理的であろうとする精神が、その極限において敗北し(突き放され)、非合理を全面的に肯定することである。」*3(柄谷)と補足しています。つまり「ファルス」とは単なる全肯定の話ではないのです。それは全てのものを否定し、拒絶する純粋さを突き通そうとする志のことであり、その志の結果として挑戦に破れることがあったとしてもその敗北を潔く受け入れ、新たな挑戦を求めて立ち上がるべきだという意味まで含めたうえでの全肯定であるのです。

坂口がサティから受け取った「ファルス」を自らのものとせしめんとするその覚悟は『エリック・サティ』の補註にも見ることができます。それは坂口が生きたあらゆるものにアクセスすることが難しかった時代ならではのことでもあると思います。坂口はサティの音楽を聴くために、譜面を探し求め、歌い手も見付けなくてはなりませんでした。自分の足を動かし、自分の手で触れ、その場に留まって聞く。自ら動くことでしか挑戦は成立しないのです。坂口はサティの行動だけでなく実際に彼の音楽を通し、サティの全肯定という挑戦を自らも受け入れる覚悟を得たのだと考えます。

この坂口安吾の挑戦に対して現代に生きる私たちはどうでしょうか。私たちは坂口がサティに触発された時代とは比べものにならないほどあらゆるものに簡単にアクセスできる環境を手に入れています。しかしその反面、私たちは地に足の付いたという感覚を失いつつあります。足を動かし、手で触れ、その場に留まって聞くという日常を得ることの難しさに気付かない人はいないでしょう。ともすればその必要もないと思っている人さえいるのかも知れません。仮想現実の世界ですべてをまかなえるならばそれでもよいではないですかという意見です。もちろんそれを否定するつもりはありません。それはそれで一つの見識です。誰かが作った仮想現実の中でその世界の枠を飛び越える挑戦をすることも良いでしょう。

しかし現実世界において先行する誰かを飛び越えていくには実際に足を動かし、手で触れ、その場に留まって聞くことは重要です。そしてそれを実戦したエリック・サティやその時代を生きた人々、そして彼らの実際を日本において体験した坂口安吾の言葉を聞くことは現実世界を生きる私たちに自らの立ち位置をはっきりさせる好機を与えてくれると思うのです。自分が立っている基準点を定め、地に足を付けておくこと。そのことができていないと挑戦者は敗者として地面に立ち崩れることができないのです。ともすれば立ち崩れる地面を持たないことを理由に勝者であることを主張する者との戦いさえ起きうる現代において、サティが残した言葉であったものや音楽であったものは私たちに小さな勇気を与えてくれることでしょう。

 

*1(『文学と音楽の交錯−−出発期における坂口安吾』千葉大学人文社会科学研究(20))

*2(『エリック・サティ覚え書/エリック・サティと坂口安吾』秋山邦晴)

*3(『坂口安吾全集1/解説 堕落の倫理』柄谷行人)

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