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「〜化する社会」が革命の夢から覚めるときに

 

◎氾濫する「〜化する社会」

 

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書籍のタイトルや目次、概要に「〜化する社会」を含む書籍が何冊あるか、気になりませんか。私は気になりました。そこで新宿区立図書館の資料検索システム(WebOPAC)で調べました。その結果が冒頭のグラフです。赤線が2000年以後に発行された「〜化する社会」関連書籍の推移で、青線がその年に図書館に登録された書籍です。ただし、区立図書館が2015年に登録した「〜化する社会」関連書籍数が17冊であるのに対し、同年の全登録書籍数は29,901冊と差が大きすぎるため、グラフでは2000年の登録冊数を1としてその比率を掲載しました。なので、このグラフでの見所は増減の割合にあります。このグラフからわかること、2000年以後図書館に登録される書籍数はほぼ変わっていないのに対し、「〜化する社会」関連書籍は2012年頃から増加傾向に向かうということです。念のためAmazonで検索した結果も掲載します。こちらは1990年からの実際の登録冊数です。新宿区立図書館と類似するカーブを描いていることがわかると思います。

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これはどういうことでしょうか。このグラフをもとに2012年ごろから「〜化する社会」関連書籍が増えている意味を考えたいのですが、その前に書籍としての「〜化する社会」とは一体何を語ろうししているのかについて、簡単にまとめておきます。

「〜化する社会」関連書籍が語ろうとしていること、それは社会学用語でいう「社会的事実」を明らかにする試みといえるでしょう。社会的事実とは何かについてはE.デュルケームの概念(#1)を借用します。それは、個人の意識の外側にありつつもその存在を無視できない、あるいはその存在に拘束される作用様式と定義されます。いわば、特定の地域や歴史で流通している常識や倫理、掟と呼ばれる何かと個人の関係を問うているのです。ちなみにタイトルを「〜化する」としているのは売りやすくするためであって、その書籍で取り扱う「常識」を学術用語とは違うキャッチーな名前を付けて多くの人に手に取って欲しいという販売戦略が見えてきます。これらの書籍を専門家だけでなく、読者層を広く一般人にまで広げる工夫でしょう。

では、改めて「〜化する社会」関連書籍が2012年ごろから増加している理由に戻りましょう。しかしこの2012年という数字は極めて扱いにくい数字です。今や私たちはこの年代を単なる数字として見ることは難しく、やはり、というかどうしても震災との関連を疑ってしまいます。それで疑いの目を持ちつつ、なぜ2012年なのかについて探ってみましょう。「社会」に関連する調査として内閣府の社会意識に関する世論調査があります(#2)。これによれば、それまで「国や社会」に向いていた人々の関心が2012年を境に「個人生活の充実」の方に反転していることがわかります。全体でみれば逆転するほどではありませんが、30〜50代ではほぼ拮抗しています。また、同じ内閣府の震災後の意識調査(#3)からは、人々は「社会における結びつき」を大切にするようになったことが明らかにされています。その理由として「家族や親戚とのつながり」や「地域でのつながり」が上位を占めるなど、「社会」といっても個人レベルでのつながりに関心が向いているようです。その他、各種調査をみても震災を機に個人と社会の関係に意識が向いているという結果が頻出しています。

こうした状況を踏まえると、やはり震災以後の人々の急激な関心の変化に合わせ、出版社の側でも社会的事実を扱う「〜化する社会」関連書籍を増やしてきたと言ってもそう大きく外すことはなさそうです。そして2012年ごろから増加傾向にあるということは、人々の側もまた出版社の思惑どおりに社会的事実の変容に対する興味を持ち始めたといえそうです。つまり多くの人々が震災後の社会的事実に対して、「今、どうなっているの」と問いかけ、その回答を見つけるために「〜化する社会」に人々が関心を向け出したと思うのです。

 

◎つながりや結びつきを重視する人々

ここで気になることが一つありますので、この節ではなぜ震災以後、人々はつながりや結びつきを重視するようになったか、という問いについて考えてみたいと思います。もちろん、当時の「家族の安否を確認したいがそれがままならない」状況の記憶がそうさせたという指摘はなるほどと思います。しかしそれだけでしょうか。そうしたこととは無関係な、傍観者的な視点であの災害を眺めていた人も少なくないと私は思うのです。震災の映像を見て「映画を見ているようだ」というコメントが出るように、記憶すべき事例の一つとして心に留め置くだけであの経験を終えてしまえた人もいると思うのです。では、なぜそうならなかったのか。私はこの問いの背後にマスコミの役割とそれを肩代わりした広告業界の姿を見ます。震災後、多くの広告が不謹慎だという理由で出稿が停止され、その代わりに日本広告機構(AC)のキャンペーン広告が流れました。たとえば金子みすゞの『 こだまでしょうか』という詩を使った広告もその一つですと紹介すれば、「ああ、あれね」と思い出す方も少なくないと思います。

当時のACに代表される心情表現の大量出稿について、コピーライターの仲畑貴志は当初「ACの大量出稿によって思いやり型の表現鉱脈は消費され尽くした(飽きられた)のではないか」と思ったそうです。その心配をよそに心情表現は消費尽くされるどころか、つながりや結びつきを連想させる広告が連続して出稿され、栄華の時代を迎えます。事実、震災以後の広告コピー大賞はそのほとんどすべてが人々のつながりを希求する表現となり、2016年になってもその傾向は続いています。震災以前の広告コピーが特定のターゲットに向けた「面白ければ面白いほど良い」広告であったことを思えば、その変化はあまりに大きいものだったのです。このようなつながりや結びつきを希求する表現の大量出稿が人々の関心の矛先を変えた、というのはやや極端としても、震災を契機にマスコミや広告がこれまでとは違った表現を始めだしたという変化に人々が気付き、その表現がつながりや結びつきに関連するものばかりだったという内容面の変化から人々が何かを感じ得たというのは見方として正しいと思います。

もちろん、人の関心は新しいものが出たら自動的に想起されるものでもありませんし、人はそこまで素直でも単純でもありません。関心の本質は差異にあります。人の目が静止しているものを見るために人知れず眼球運動を行っているように、違いを発見して初めて関心が芽生えるのです。それが新しいことは結果に過ぎません。ではこのつながりや結びつきを連想させる心情表現がそれまでの表現と違う点は何でしょうか。この心情表現は見る人を選ばないと言う点に尽きます。誰もがいいねと思ってしまう親密さ(あるいは思わされてしまう圧力)を備えています。大義名分にも似ています。だからこそその効果は震災という要因があってこその効果だったはずです。いわば期間限定の効果だったのです。ところが12年の震災以後も日本では多くの震災が起き、そのたびにこの要因は更新され強化されて(あるいは付帯要素を身につけさせられて着脹れて)います。この、誰もが受け入れざるを得ない表現があるということへの気付きが(あるいは断りにくい表現という苛立ちかも知れませんが)人々の関心を引き寄せたと思うのです。

少し言葉を突継ぎ足しましょう。かつて広告とは誰かを説得するためのものでした。誰かとは誰でしょうか。それはお父さんやお母さん、あるいは恋人、友だちです。物欲にまみれた者にとって彼らは行く手を阻み、物欲の行使を阻止せんとする敵でした。その敵を説得するために、あるいは説得する勇気を自分に与えるために、そして何より先ず自分自身を説得するために広告はその先鋒として機能していたのです。その結果、お父さんやお母さん、恋人、友だちは言葉巧みに財布や時間を奪われ、次はやられないぞと気持ちを新たにし、ときに勝ち、ときに負けるという攻防戦を繰り返してきたのです。しかし今、状況は明らかにかつてとは違ってきました。財布や時間が減っていく理由をはっきりと気付くこともなくただひたすらに財布や時間が減っていくだけなのです。そしてこの変化に気付いた人々が何かが起きていると感じ始め、その理由を求めたのではないのでしょうか。そしてそこにつながりや結びつきを人質にした広告表現を見つけたのではないのか、そう思うのです。つながりや結びつきを重視する一方で、そのつながりや結びつきに縛られている自分に気がついたのです。

 

◎「〜化する社会」が理解される仕組み

では話を「〜化する社会」に戻し、社会的事実が今どうなっているのかという問いを「〜化する社会」が受け止めることができた理由を考えてみたいと思います。それが単純な関心として受け止めたのであればそれは一過性で終わったはずです。四半期毎に販売実績を求められる現代ビジネスにおいて、なんか売れそうだらからという理由だけで2012年から出版数が増えるはずがないのです。ではその理由とは何か。それは身も蓋もないのですが「〜化する社会」で書かれている内容に納得できているからでしょう。今回の課題文でも斎藤環先生は「言われてみればその通り」という感想を得ていると書かれています。読者は納得しているのです。

ここで「〜化する社会」という本の構造を見直してみたいと思います。といいながらじつはそれは斎藤環先生の課題文の中にあります。それをここに引用します。

1.まず象徴的事象をひとつ提示する。これを発端として「〜化」の仮説をぶち上げる。
2.仮説を補強するような関連事象、類似の事象を複数列挙する。ここでどういう具体的な事象を選ぶかで、その論の説得性が決まる。
3.例外的な事象や、仮説の反証になりそうな事象をあえて取り上げ、それらも実は「〜化」に深く関わっているということを示して論点を補強する。
4.ここまでは印象論で進めても良いが、ここから先はそうした印象をもたらした構造的要因について詳細に論ずる。私の場合はここで精神分析の手法を応用することが多いが、どういったツールで構造解析をするかは自由。

これは、まず印象論を導入にして間口を広げて読者を奥座敷に呼び込み、その後東西南北にある扉を次々と開けて印象論を補強しつつ、それぞれの事例を隔てていた襖を取り除いて大広間化して、印象論を論理化するという方法論です。この方法で気になる点があるとすればそれは複数の事例を一つの印象論としてとりまとめることの難しさがあると思うのです。この難しさを「〜化」というキーワードで解決するという言い方をしていますが、それは言うは易しで、実際には難しいと思います。しかしながら斎藤先生はこの手順を経てできあがった著作を以下のように評してもいます。

私はこれまで「ひきこもり文化論」「心理学化する社会」「ヤンキー化する日本」といった著作において、社会学「的」視点から日本や社会を論じてきました。そこで意図したのは、誰の目にも入っているがゆえに見えなくなっている状況を、ひとつの偏見(「緑の色眼鏡」)を通じて可視化することでした。それゆえ「言われてみればその通り」という感想がそれぞれの本に対して寄せられたことを持って、私の意図はそれなりに成功したものと考えています。
『批評再生塾2016 第10回 社会』 斎藤環

私自身、それぞれの著作を読み、検証しました。ヤンキー化とか調子にのってるなと思ったのですが、いや、確かに「言われてみればその通り」なのです。しかしではなぜ「その通り」と思ってしまうのかという疑問が生まれるのです。「元ヤン」ならわかりますが、そうではなくて「ヤンキー」なのです。そもそも「引きこもり」だけで留まらず、「心理学」「ヤンキー」といくつ社会を作れば気が済むんだということです。ましてや「ヤンキー」文化なんてもう誰も覚えていないでしょう。いやむしろ忘れてしまいたい記憶として封印されているはずの言葉をいまさら持ち出して誰が喜ぶのかと、そこまで思ってようやく気付きました。そうです、忘却の彼方にある言葉を思い出させることに意味があったのです。その感覚の曖昧さを拠り所に現在の状況と重ね合わせてしまうのです。いくぶん強引な方法ではありますが、それをえいやっ、と力業でこなし、あの関係も、この関係もそうですよねとたたみかけていきます。しかしそれでも私はこの乱暴さに引っかかりました。この乱暴さに人は付いてこれるのかという感覚がどうしても違和感として残るのです。しかし人は付いてきているらしいのです。出版数がそれを物語っているのです。

その思いは構造解析パートでもありました。精神分析をその手法として取り入れているのですが、そこで扱われる用語をどのように理解し、受け入れているのかという疑問です。しかしその疑問も読むことで氷解します。ここでも頭の悪さを装いながら具体的な事例を頻出させ、多少の誤解をものともせずと言わんばかりの展開を見せるのです。そこでなるほどなと思わされました。

「〜化する社会」は、タイトルこそ現在形ですがそこに描かれている内容は既に起きている状況の説明に過ぎません。その小難しい感じを「〜化」で和らげて読ませているという印象は総崩れでした。でもやはり疑問は浮かびます。ではなぜ、読者はわかってしまうのか。そのヒントがおそらく「〜化する社会」が対象にしているテーマにあるのだと考えます。個人と社会の関わりというテーマで扱う具体例は、その多くが人々のつながりや結びつきでしたし、そうした事例であるはずです。だからこそ、なるほどな、と思うのです。「伝えたい」という著者の熱意と「知りたい」という関心が出会うだけでなく、読者の側もまた理解を促進させる技術を持っていたことに気付いたのです。マスコミや広告が多量に出稿しているつながりや結びつきを連想させる心情表現に日々付き合わされている現在の日本人にとって、こうした社会的事実を説明するための事例を理解することなどたやすいことなのです。いわば臨床例を見過ぎた学部生的な理解度を見せているのだと思うのです。

 

◎拡張していく「〜化する社会」

しかし、それでもまだ疑問は残ります。それは、なぜ「〜化する社会」が多数発行されるのかという点です。先ほども指摘しましたが、社会が一つであるとするならば(というか、社会は一つなのですが)、「〜化する社会」は1冊あれば十分、予備をいれても2冊もあれば十分なのです。しかし現実には複数の「〜化する社会」が発行され、それぞれの社会の存在をそれぞれの論旨で説いているのです。言い換えれば発行される「〜化する社会」の数だけ社会があるという仮定も成立します。つまり「ひきこもり」であり「心理学」や「ヤンキー」化する社会が一つの社会の中に同時に存在する矛盾を人々が容認しているという状況が成立してしまうのです。

重箱の隅を突く物言いであることはわかっているのですが、しかし「〜化する社会」が複数存在し、そのことを許容する社会とは何か。やはりそのことを考えなくてはならないと思うのです。しかしその思いに反して私の論旨はあやふやであいまいです。その曖昧さを払拭するために、私は1982年に糸井重里が発表した「おいしい生活」という西武グループの広告を取り上げようと思います。

「おいしい生活」が導くものとは何か。それについては大塚英志の言葉を借りようと思います。彼は『おたくの精神史』のなかで上野千鶴子の意見を引用しつつ以下のように論述しています。

消費というふるまいにおいて、上下間の差異の根拠をただの記号上の差異とみなすことで「階層」を消滅させようというもくろみのように思う。ヨコナラビの差異においては選択基準を説明しなくてもよいと八二年の時点で上野は語るが、こういった意味の放棄という「暴力」が水平化には必要だった。それはいわば消費による「階級」の解体であり、ぼくが、八〇年代初頭の諸費社会の担い手たちの行動を革命と形容するのはそれゆえである。
『おたくの精神史』大塚英志

「おいしい生活」について、コピーライターの糸井重里は「おいしいことに理由はない、好きなものは好きだ」というメッセージを託したと言っています。この言葉の意味するところ、それは判断基準が個人に完全に委ねられてしまうということです。善し悪しはともかく好きだから買うという「暴力的」な「消費」行動を容認する、まさにバブル時代にふさわしい買い手市場を象徴する言葉でした。人々が「消費」という旗印のもとに「階層」を解体しにいく姿が目に浮かぶようです。こうした現象のことを大塚は「水平化」と呼び、団塊世代がこの水平化の思想を後期新人類たちに吹き込んだと指摘していますが「おいしい生活」に代表される買い手市場的なこの現象は、後期新人類に限らず当時の人々の間で広く共有されていたことでもありました。つまり多くの人々がそれぞれの「おいしい生活」を容認し、それぞれに楽しんでいたのです。そしてこの様子が「〜化する社会」と重なるのです。多くの人々がそれぞれの「〜化する社会」を楽しむことを通してそこにある階級の存在を忘れようとしているかのように、です。

その後「おいしい生活」に代表される「消費」行動はみなさんがご存じの通り、行き過ぎた「消費」によって崩壊していきました。しかし「〜化する社会」はどうでしょうか。それを支える「つながりや結びつき」は、マスコミや広告表現を見る限り、臨界点がどこかに存在するとは思いますが、とりあえず今のとこはどこまでも付き合ってくれそうな雰囲気があります。まさに大塚が指摘した「階級」を解体する革命が今まさに進行中ともいえるのです。あるいはかつてバブルが突然崩壊したように、過剰に拡張された「つながりや結びつき」が耐えきれずに崩壊してしまうかも知れません。それは今日かも知れませんし、明日かも知れません。ともあれそれはそれで「つながりや結びつき」が価値を持たない(あるいは罪悪となる)世界がどのような世界になるのかという世界をこの目で見ることができるという意味で楽しみでもあります。

もしかしたらそれは、既に昨日起きていたことかも知れませんが。

 

#1:社会的事実とは個人に外在的高速を加えうるところの、あるいはまた、それ固有の存在を有し、一つの所与の社会の広がりにおいて一般的であり、それの個人的書表示からは独立下、固定化した、もしくは固定化しない、一切の作用様式である。
『社会的方法の規準』E.デュルケーム 学文社 P.38
#2:『社会意識に関する世論調査(平成28年2月調査)』内閣府
#3:『社会意識に関する世論調査(平成26年1月調査)』内閣府

 

文字数:7695

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