なんとなく化する私たちが「駅乃みちか」の存在をなんとなくさせてしまう仕組み
Webサイト『鉄道むすめ 〜鉄道制服コレクション〜』が炎上した。
端的にまとめると、萌えイラスト化された東京メトロのイメージキャラクター「駅乃みちか」のスカートが透けているように見える/見えないで揉めた案件だ。発端は「駅乃みちか」がオリジナルと大きく変わったという声からだった。ほどなくして、スカート越しに彼女の足や下着が見えている/いないといった話題が派生し、これは露骨/考え過ぎという見解が生まれ、その後エロだ/萌えだという論争へと発展し、かくして荒れた。この状況を真摯に受け止め、トミーテックは「駅乃みちか」のスカートを単色で塗り潰す修正を行い、本件は収束していった。
この顛末について、当事者からの公式見解を探したが見当たらず、かろうじてJ-CASTニュースによる以下の記事中に東京メトロのコメントを見つけることができた。
イラストの修正をトミーテックに依頼した理由について東京メトロ広報部からの回答とするコメント。
「お客様から『公共交通機関のキャラクターとしてふさわしくない』といったご意見をいただいたためです」
オリジナルのキャラクターの容姿の変容に関する東京メトロ広報部からのコメント。
「(トミーテックからは)『鉄道むすめ』の他のキャラクターのイメージに合わせた、というように聞いています」
「駅乃みちか」スケスケスカートが大物議 東京メトロ、批判受け微妙に「修正」 J-CASTニュース 2016/10/18 07:30
J-CASTの記事から事実だけを抜き出すと以下のことが見えてくる。
・お客様からのご指摘を受けた東京メトロがトミーテックに修正を依頼した。
・修正はトミーテックが行った。
・当該の「駅乃みちか」は『鉄道むすめ 〜鉄道制服コレクション〜』の基準に従ってトミーテックが作画したキャラクターであって、東京メトロが直接管理しているキャラクターではない。
・トミーテックからの回答はない。
そして、ここに記された事実以外のことは何一つ公式には提示されていないにも関わらず、私たちはこの案件の経緯を、発端から顛末について、なんとなくではあるが、わかっている。
なぜなんとなくなのかといえば、出所の異なる情報を組み合わせて得た顛末だからである。なぜ組み合わせたかといえば、個々の情報が断片的であったからで、なんで断片的だったかといえば東京メトロやトミーテックからのニュースリリースがなかったからだ。他方で、わからないことも多い。例えば、東京メトロに届いたお客様の声とはどこから届いたのか、それは何名から届いたのか、修正されたイラストも誰の手によって直されたのかもわからない。しかしそうしたわからないことを、私たちはなんとなく見過ごしつつ/受け入れつつ、それでも全体像をわかっていると言う。つい、言ってしまう。
知らないことがあるにも関わらず、「わかっている」と言えるのはなぜか。それはここでいう「お客様」が私たち自身のことだからだ。もちろん(というのも不思議だが)私自身は東京メトロに「ご意見」していないし、私たちの何人が東京メトロに「ご意見」したかも知らない。でも、東京メトロが「ご意見」を受けたということであれば、それは私たちの誰かの「ご意見」であるし、私たちがその内容を思い描くことは難しいことではない。その論理的帰結により私たちはついわかっていると言ってしまう。
この言ってしまう感じをさらに支えるのがJ-CASTニュースにあった。それは東京メトロの「お客様から『公共交通機関のキャラクターとしてふさわしくない』といったご意見をいただいた」に見ることができる、どのように「ふさわしくない」かを具体的に明記しない言葉を濁したコメントや、「(トミーテックからは) 〜中略〜 というように聞いています」にあるような、そのコンセプトなどの背景情報は一切関知していないことを暗に仄めかすコメントにある。この否定形や伝聞形による話法が生み出すなんとなくな感じが私たちの「わかっている」感じをいよいよ加速させる。
では、炎上した経緯とは別に、その内容についてはどうだろうか。「駅乃みちか」の萌えキャラクターの登場をきっかけにどんな話題が生まれ、見解が生じ、論争にいたったかについてだ。私が見聞きしたことがこの数日で起きたことのすべてではないのは当然としても、それでも全体像を把握するには十分なことを見聞きした。そのことから言えることとは、その内容は比較的明確ではあったが一本化することは難しいということであった。
ただし解決策は少しだけ様子が違った。いつだって対応策は案外まとまるのだ。さすがに一本化は難しいものの、解決すべき項目に優先順位を与えることはできるという感覚はあった。すべてを手直しすることがベストであるものの、最低限これだけはという妥協点も確かにあって、実際の解決策はその意味においてなんとなく落ち着くところにおちついた感じはある。このなんとなくな感じもまた、私たちの「わかっている」感じを支えている。
一方で内容に関わる論点については一本化も優先順位化もできていない。単に作画技術の問題であるとする意見があれば、恣意的に描かれたエロスであるという指摘もある。そうではない、見る側の意識の問題だとする一方で、そもそも萌えキャラクターは女性を性的対象化したもので見る側の意識など関係なく、そもそもこの種の表現が存在することが問題だという主張までさまざまだ。
しかしよく考えるとこれらの意見のすべてに理がある。それは個々の意見にそれぞれの立場を想定できるからだ。作家の立場、作家に作画を依頼する担当者の立場、その上司の立場、エンドユーザとしての立場、生活者としての立場など、多彩な意見がそれぞれの立場から出されている。だからこそすべての意見に賛同できるし、それゆえ収集も付かない。こうした状況を見聞きするに、東京メトロが受け取った「ご意見」の多様さは想像するに難しくない。その東京メトロの困惑を思えば、J-CASTニュースの言葉を濁すコメントにも納得がゆく。そうなのだ。この状況に直面させられた者にできることなど、なんとなくとしか言い表しようのない問題/状況に直面しているというなんとなくな視点を持つことくらいだろう。
今や、このようななんとなくは珍しいことではない。近いところでは資生堂のインテグレートのCMがある。鹿児島県志布志市の「養殖うなぎ」のPR動画もそうだろう。なんとなくとしかまとめようのない意見に背中を刺され、人気商売の彼らはその炎上の対象となった元ネタをなんとなく削除/修正していく。
「駅乃みちか」の案件で最初に注目されたのはスカートに重ねられた「陰影」だった。この陰影が発端であることに異論はないだろう。ここで作家の立場に立つならば、この陰影はスカートを立体的に表現するためであり、かつスカートの中でくねらせた足の存在感を印象的にするための、スカートの上に描かれた落ちた影だ。
技術的な話をすれば、この作家は1色について影を含めて3色のバリエーションで対応するという技法を使っている。つまりスカートの紺、上着のベージュ、ストキングのグレーの各色について、それぞれハイトーン、ミドルトーン、ロートーンの3色だけで表現している。これは作画上の制約でもあり、かつ表現でもある。いわば世界地図を3色で塗り分けようとしているのだ。そのため、グラデーションを使いたい箇所を同色で塗ることもあり、ある定度の無理が不可避的に発生する。その無理がスカートの陰影に現れ、指摘を受けた。ここで、4色あるいは5色で描けば良かったのではという指摘はもっともであるし、作家もそれは考えたかもしれない。がしかし、その選択を作家はしなかった。すなわち現状で語れることはこれ以上でもこれ以下でもない。
そして少ない色数で描かれたスカート表面の陰が、透けたスカートの裏地として間違われる/疑われる。つまり、スカート表面の描かれなかった部分が、スカートから透けた足と誤解される/曲解される。いわゆる図と地の転換が起きた/気付いたのだ。そして図と地の転換は一度起きてしまうとそれを取り返すことは難しい。そこで、ふさわしくないと訴えるお客様に対する回答としてトミーテックはスカートを塗り潰すことにした。それは適切な対応であったと思う。なんとなくであれ、なんであれ、一度気付いてしまった図と地の関係はどれほど手を尽くしても元には戻せないからだ。
私は、こうしたなんとなくとしかまとめようのない問題/状況が起きていることを悪いとは思わない。そういうこともあるだろう。しかし、なぜこんなにもなんとなく化が起きてしまうのかについては考えてもいいと思う。そしてそのことを考えるたびにツイッターの存在を気にかけないわけにはいかなくなる。このなんとなくに辿り着いてしまう断片的な情報の多くを、私はツイッターから得ているからだ。しかし情報の断片化がものごとのなんとなく化を促しているという意見には私は与しない。いつだって課題は最後に見つかるのだ。ツイッターがこの問題に関与しているとしたら、それはツイッターのツイートが誰に向けられたものかを知り得ない点が鍵だろう。
例えば誰かのツイートの中にどんな感情が込められ、どんな対象に向けられているかを考えるのは読み手に託された作業だ。その作業を書き手が代行することはできない。どんなツイートであれ、書き手のことを知っている限り、そのツイートが書かれた意図を読み解くことは可能であり、その意味においてツイートはなんとなくとは読まれない。たとえ書き手の意図が読み手に伝わらなくとも、その伝わらなさを読み手が感じ取ってなんとなく読めている意味において、そのツイートは確実に伝わらなさを伝えている。書き手のツイートがなんとなく伝わるとき、それは書き手のことを知らない誰かに読まれたり、リツイートされたりする時に起きる。ここにツイッターが抱える不可避的な「なんとなく」がある。
書き手の意図がわからないままに読み手の勝手な解釈で生まれたリツイートやツイートは繰り返されるごとに少しずつなんとなく化していく。もちろん、読み手のことを知らないが正しく伝わって生まれるリツイート、ツイートもある。他方でリツイート、ツイートしない読み手もいるし、反論する読み手もいる。ここでリツイート、ツイートをする/しないの間には何があるのか、そして勝手な解釈で生まれるなんとなく化するリツイート、ツイートはどうして生まれるのかについて考えてみよう。1つ目の問い、する/しないの間にある何かについて。それは共感できる/できないということに尽きるだろう。そして、2つめの問い、勝手な解釈で生み出されるなんとなく化するリツイート、ツイートは部分的に共感できるが故に生じた齟齬といえないだろうか。この齟齬がなんとなくな感じを生み出す動力源であると仮定したい。
この仮説を展開させていくと、リツイート、ツイートはわずかでも共感できる読み手同士の間でなんとなく共有され、共感できない読み手同士の間には明確な壁を作りなんとなくを拒絶する。また、共感できる読み手同士の間で生まれるツイートは、読み手への配慮から、あるいは不要な誤解を避けるために、個人的で具体的な背景情報が省かれていく。その結果、内容は一般化され、汎用的な内容へと書き換えられ、なんとなく化が進み、なんとなく化された言説が生まれていく。そのなんとなくな言説を手に、共感できない読み手同士が互いに意見を押しつけ合っている状況が見えてくる。この状況をとりまとめることは難しい。なぜなら、そこには個人的で具体的な内容が廃された理論的で倫理的で経験的ななんとなくな言葉が並んでいるからだ。こうした積み重ねられた言葉に打ち勝つことができる読み手は多くない。それゆえのなんとなくなのだ。
では、なぜ一本化する努力をせず、たた押しつけ合うだけでなんとなくな状況を生み出してしまうのか。なぜ共感できる読み手同士のツイートから個人的で具体的な印象がそぎ落とされ、なぜ一般化され、汎用化されるのか。そうしたことが起きる理由としては、あらゆる立場の者が等しい立場でツイートできるように配慮した結果ではないのだろうか。そしてその弊害として、あるいは効用としてなんとなくが形成されていく。
しかしここで私は考えたい。この態度は、すべての読み手が参加できるように配慮する態度とは何なのか。そこに私の苛立ちがある。ツイッターが見せる共感できる読み手同士の予定調和的な共感と共感できない読み手に対する潔癖症を思わせる拒絶感、そのことには理解を示そう。だがしかし「駅乃みちか」が置かれている立場への配慮がないことには苛立ちを表明したい。問題を「駅乃みちか」のスカートから始めることは良いし、その問題を踏み台にして美少女キャラの公共性へと梯子をかけることも構わない。しかし「道乃みちか」が誰によって作られ、その笑顔が誰に向けられ、どんな環境で消費されていくのかという対象の「立場」に寄り添った配慮がなさすぎるのだ。読み手に対する配慮が対象に対する配慮を損なわせている。
あるいは、ツイッターには書き手が存在しないのか。
それは、文脈を喪失した、ただ読み手がいるだけの空間に過ぎないのか。
ともあれ、この案件は確かに炎上する話題ではあった。私もそう思ったし、実際に炎上もした。しかしその結果は私が思っていた結末とは違った。そう、火の手が伸びる方向が違ったのだ。私はこの問題を単純に作家の技術レベルの問題として捉え、その上で作家の手抜きを指摘し、その後は過去の作品の手抜きをあげつらうために用意された話題/作家の失策だと思った。しかし結果は予想に反してみなさまの見たとおりになった。
結果が私の予想に反したことについて私に異論はない。しかしこの案件は美少女キャラと公共性を問うのに、あるいは性差別全般を問うのに適した引用元だったのかという懸念はどうしても消せない。もちろん本件で引用できないことはないし、本件を引用することが間違いとも言わない。だがしかし、本件だけで語れるかといえばそれは無理というものだろう。炎上騒ぎに便乗することがわるいこととは言わないが、関心が集まっているからといって立場の違いを無理矢理乗り越えて持論を展開しても伝えたいことがなんとなく化するだけで結局伝わらなくなってしまう。
そろそろ気付いてもいいと思う。
飛ぶ鳥をはたき落としていくことを悪いことだとは言わないが、やがて空を飛ぶ鳥はいなくなってしまうだろう。そして私たちは引用元なき世界での概念との戦いを強いられることになる。しかしそれはみなさまが望んだことなのか。
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