思考、とは、音楽、から、ことば、を、考える、こと。
彼に手を引かれて行き着いたそこは施設の裏手で、線路が走る土手道の下を横切るように掘られた小さなトンネルでした。それは坑道と見間違えるほどに薄暗く、電車が通るとうるさいだけのおそらく誰もが忌み嫌う場所でしたが、全盲の、そして難聴の彼にとってそれは問題になりませんでした。むしろ、まだ小さい、小学生低学年の彼にとってそこは誰の助けを借りることなく遊びに行ける数少ない遊び場だったのです。そのトンネルでは多次元多重反射現象が起きるらしく、彼はそこで手を叩き、壁面に反射する音が奏でる透明な音階を文字通り全身で受け取って楽しんでいたのです。彼の好きな遊び方はトンネルの中に二人で背中合わせに立ち、片方が手を叩きその音と震動を二人で感じるというもので、それを交互に行うのです。彼が手を叩く動きを背中越しに知ったその一瞬後に反響音と震動がやってきて静かになる感じが私には線香花火を思わせました。施設に帰って彼にあの遊びで何を感じていたのかを聞けたのでたずねたところ、彼は少し考えて、何かを思い出そうとしていたのかも知れません、静かに「はなびたいかい」と教えてくれました。
そのとき私は私のミスに気付きました。それはディスコミュニケーションです。いや、そんな借りてきたことばで大げさに語るのはやめましょう。ただ単純に私は分かった風を装っていただけの愚か者だったのです。私の目の前に彼は「教える者」として立っていたのに、私はそれに気付かぬどころか、年上ということだけを根拠に私は「教える者」としての義務を行使していたのです。そうであるが故に私は、彼が奏でた音で彼が伝えようとした彼のことばを読み間違えてしまったのです。私は一人で遊ぶことで、彼を一人にしてしまっていたのです。
「時間はある−−−それはいずれにしろたしかだ。」思いにしずんでつぶやきました。「でも、さわることはできない。つかまえられもしない。においみたいなものかな? でも時間て、ちっともとまってないで、動いていく。すると、どこからかやってくるにちがいない。風みたいなものかしら? いや、ちがう! そうだ、わかった! 一種の音楽なのよ−−−いつでもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でもあたしは、ときどき聞いていたような気がする。とっても静かな音楽よ。」
『モモ』ミヒャエル・エンデ
モモは『モモ』という物語のなかで「あいての話を聞くことのできるひと」として描かれています。そしてこの引用文は、モモが時間の国の主であるマイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラが出したなぞなぞを解いたついでに時間とは何かについて考察した答えです。人は注目しないけど、私はときどき聞いていたような気がする静かな音楽、それが時間であると彼女は言います。さらにモモは「水の上を風が吹くと、さざ波がおこるでしょ、そういうことなの。」と付け加えます。
目の前にいる「誰か」に話を伝え、しかもそれを上手くこなす方法。それは自分自身の内にその「誰か」を迎え入れ、その「誰か」に自分のかわりに話をさせることでしょう。それが一番上手く伝えることができるやり方です。言い換えれば、人は「誰か」に自分の話を伝えるため、自分の中にその「誰か」を迎え入れ、その「誰か」にどのように伝えれば上手く伝わるかについて(話の内容ではなく、表現方法を)教えてもらうことが最善手ということなのです。だからこそ自分の中に迎え入れようとする「誰か」について話し手は意識的にならねばなりません。そしてこのことはつまり、話していることが話したいことのすべてではなく、それはアレンジされ、目の前にいる「誰か」に最適化された表現であって、伝えたいことの本当は未だ話をするその人の内に留まったままだということを明らかにしてしまいます。
また「聞くこと」とは、話し手が「誰か」を迎え入れようとするその行為を手伝うことです。「誰か」とは他ならぬ聞き手自身であるのですが、つまり自分自身を話し手に送り込むことでもあります。現実には、聞き手もまた話し手を自分自身の中に迎え入れ、その話し手にどのように聞けば上手に聞けるかを教えてもらうことになります。この「教わる-話す」「教わる-聞く」という非対称的な手続きをとることで媒体としての時間に揺らぎが生まれます。この聞き手と話し手とが「教わる」ことを間に挟んで揺れあう雰囲気をモモは音楽と感じたのです。
ここで新幹線や特急電車の車内にある、8文字ほどしか表示できない電光掲示板について考えたいと思います。掲示板に流れる文字列は一定の速度で流れているのにその文字を読む私は不思議に不規則な時間の揺れを意識します。それは掲示板にひとまとまりの漢字が表示されるのを、あるいは漢字に続く助詞が確定するまで読むのを待つという、待っては読み、待っては読みするという行為によって時間の伸縮を実感する瞬間です。掲示板に流れる文字列は一定の速度で流れているのに、待てば文字は現れるというのに私の視線は掲示板を左右に行きつ戻りつするのです。ここに確かに視線の振幅があります。時速300kmで疾走する新幹線の異様な静けさを当然のことと受け取る私たちはもはやこの視線の振幅を音として聞くことができないほどの鈍感さに犯されているとはいえ、あるいは視線の振幅は大きすぎて音としては人が聞ける可聴域を越えてしまっているのかも知れませんが、その振幅は、そこに揺れがある限り、確かに音を発しているはずです。
この感覚が生まれた背景には電光掲示板の表示可能文字数が8文字と少ないことと決定的な関わりがあります。この数字はマジックナンバー、すなわち人が短期的に記憶できる容量に関する数字ですが、8文字のバッファとはつまり人が誰かと会話するときに人が持つ記憶のバッファと同じ数字です。つまりこれは電車との会話でもあるのです。新幹線の、地方都市を繋ぐ特急電車の掲示板が何か私に話かけてくれているような感覚は、それは確かに話しかけられていたのです。ここにもモモの「時間は、一種の音楽なのよ」ということばが重なります。人との会話が、それが非対称的な会話であるほど音楽となるように、文字を追う視線もそこにリズムを見出すことで音楽として身体に響いてくるのです。
<音楽とことば>の関係を考えるとき、私はどうしても<音楽>とは、あるいは<ことば>とは、について考えてないわけにはいきませんでした。この二つのことばを、<音楽>と<ことば>の2つの文字を並列に置いたときのすわりの悪い感じ、異質なものを並べてしまった違和感があったのです。だから私はもっとわかりやすい簡素なことばに置き換えたいと思いました。そして私は一組のことばにそれを見出します。音楽とことばの置き換えにふさわしい手応えを感じることばです。それが<線路と起点>です。<音楽とことば>とは、線路とその起点の関係に重ねることができると思います。あるいは別の関係を取り上げても構いません。線と点、面と点でも。ポイントは<ことば>をイメージとしての点に置き換えるということです。点と対置するイメージはこの際問題にしません。線路としたのは頭語を電車にしたが故の結語です。
ではなぜ点なのか。それを起点とする理由とは何でしょう。
目前に提示された「ことば」は、それが話しことばであれ、文字としてのことばであれ、<音楽とことば>が示す<ことば>とは考えられません。「ことば」は聞き手のために話し手がアレンジした表現形態の一つであることは既に伝えました。<音楽とことば>の<ことば>とは、話し手の内に迎え入れられた「誰か」に手渡される「何か」(あるいは聞き手が迎え入れた話し手から受け取る「何か」)であるべきでしょう。それこそが今ここで私が問題にしている<ことば>です。でもこの<ことば>は姿を見せません。話し手の内で、あるいは聞き手の内でそっと受け渡されるだけだからです。それを手にするときには、<ことば>は時間の揺らぎとして、あるいは音楽へと姿を変えてしまっています。ではなぜそれが点と言えるのか。それは手渡された「何か」が確かに私の目の前に現れるからです。姿を見せるものには必ずはじまりがあります。それが点である所以です。宇宙のはじまりが対称性の破れという最小限の揺らぎから生まれたように、<音楽>の始まりである<ことば>はやはり最小限の振れである点であるべきなのです。
では新幹線の電光掲示板が奏でる音のはじまりは何なのでしょうか。それはニュースが伝えたい<ことば>です。そのことばは起点としての力は小さく、それを聞く人を遠くに運ぶことはできません。そうです、起点は力を持つのです。力のない起点はすぐに忘れ去られてしまいます。すべての音が、音楽が残るわけではないのです。でもこれがジェニー・ホルツァーの<ことば>だったらどうでしょうか。車内の電光掲示板に流れる彼女の「ことば」は私を水戸に連れ出し、さらに私を水戸ではないどこかにも運ぶでしょう。
冒頭で紹介した彼が私に伝えてくれた「はなびたいかい」という「ことば」は実は手渡された点字でした。以来、私の中で反響音を聞くたびに私は彼が残してくれた「はなびたいかい」という7文字の点字の手触りを思い出します。その点字は今ではその紙片を点字たらしめた凹凸も消え、さらに言えば私は点字の読み方さえ忘れてしまっています。それでもまだこの紙片は<音楽>を奏でると私は思うのです。私の身体がそれを知っているのです。そしてこの7文字を、紙片に記されたかつて凹凸であった痕跡をなぞることで彼の<ことば>を考えることができます。思い出すのではなく、考えるのです。もちろん、今の彼があの狭いトンネルが奏でる音を聴いて「はなびたいかい」と言うかは分かりません。きっと言わないでしょう。だからこそ<ことば>は起点であるのです。そしてあの反響音もまたいつでも私を同じところに運んでくれるかというとそうでもないのです。線路は常に引き直され、移設され、どこに向かうかも分かりません。確かなことは起点だけがあるということなのです。いえ正確に言えば起点だけがあったと言うべきかも知れません。
<ことば>しかないところにしか<音楽>は姿を見せないのです。そして<音楽>は<ことば>によって定位されるのです。
文字数:4216