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『真夜中のピアニスト』 打ちのめされてもなお立ち上がる者に宛てた手紙

内から発せられる文字は思考だ。であるならば、外から投げかけられる文字は外からの思考といえよう。外からの思考は、それ単独では何を意味するのか分からない。だからこそ想像力が必要になる。前後の文脈から何を意図した文字なのかを想像しなくてはならない。もしそれが言葉であるならば、話者の姿や声の調子も想像の助けになる。そして想像力とは関心の表現形の1つでもある。好意という言い方をしても良い。

では、始めよう。本作での君の態度には好感を持てる。君は誰に対しても見返りを求めない。期待しない。その姿勢は諦めだ。君だってすべてを受け入れるつもりはさらさらないが、しかし君は大抵のことを受け入れてしまう。だからこそ君のその態度に付け込ませてもらう。君が受け入れてしまったあらゆることを君に受け入れさせた誰かと同じやり方で、だ。

想像して欲しい。君は今からカフェに入り、珈琲を頼む。外はいい天気だし、店内は空調が効いて心地良い。給仕がカップをテーブルに置き、ステンレス製のポットから珈琲を注ぐ。カップから湯気が浮かび、音もなく消える。君はたばこのことを思い出す。隣のテーブルから灰皿を拝借し、マッチを取り出す。と、少し離れたテーブルに給仕が立つ。彼はそれぞれの手にステンレス製のポットを持っている。君はマッチの火を消し、灰皿に落とす。涼しい音が君だけに響くように小さく鳴る。給仕は2つのポットの注ぎ口を向き合わせるようにして持ち、テーブルに置いたカップに左右から中身を注ぎ込む。遠目にも片方が珈琲で、もう片方がミルクだと分かる。そこまでが君の見たすべてだ。でも君はカップの中にカフェオレがあることがわかる。カップの中を確かめるまでもなく、君はそのことをわかってしまう。そのことに疑問も持たない。

 

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次に見て欲しいのはこの映画フィルムだ。フィルムには静止画が記録されている。その左側には音声トラックがある。この2つの要素が1つの映画フィルム上に配置されていることの意味を考えたことがあるだろうか。映画フィルムは秒速1.5フィート(約45cm/s)の速さで映写機の中を駆け抜けていく。その間、1秒間に24コマの頻度で、かつ恐ろしいほどの正確さで、静止画がスクリーン上に投影され、物理的に連動している音声トラックの音がスピーカから再生される。スクリーンを前にした観客は映像と音声が不可避的に混ぜ合わさった体験をする。それが映画である。しかし君は注意深くならなくてはいけない。経験は時に人を落とし穴に陥れる。確かに君はカフェオレは珈琲とミルクからできていることを経験から知っている。その経験を映画に適用しても良いのだろうか。つまり映画は映像と音声からできている、と言えるのかという問いだ。隣のテーブルのカップの中で混ぜあわされる映像と音声は、果たしてそれは映画なんだろうか。

別の切り口から考えてみよう。実は映画的体験を日常生活の中で実現させるツールがある。それは既に君の手の中にある。答えはポーダブルオーディオだ。1979年、ソニーが「好きな音楽をどこにでも持ち歩く」というコンセプトのもと世に出したそれは、瞬く間に世界を席巻していく。そしてある種の人々はこのツールを「聞きたいタイミングで聞きたい音楽を聴く」ために使い始めた。君にも経験があるだろう。試験に、試合に失敗して凹んだときにお気に入りの音楽を聴いて気分を持ち上げようとしたことはないだろうか。瞬間、君を凹ませた現実は劇的空間へと変質する。君は想像上のもう一人の君になり代わる。あるいは周囲の人間を想像上の人物に置き換え、さっきまでの落ち込んだ気分を過ぎ去った物語にすり替えることで今を生きる糧とし、ついでに未来の君に約束手形をきる。そうすることで元気を取り戻してきたし、これからもそうできることを知っているからだ。その体験はまさに映画的体験といえないだろうか。

どうだろうか、カフェオレと映画の違いについて気付いてもらえただろうか。映画とは、「今そこで」用意された映像と音声を体験する行為なのだ。隣のテーブルで混ぜあわされる映像と音声を眺めるだけでは、映画を見たことにはならない(それは映画を作るという行為には近いが)。そのカップの中に飛び込んで映像と音声の渦に巻き込まれ、もみくちゃにされてはじめて映画を体験できる。目撃者ではなく当事者になることこそが重要なのだ。だからこそきっかけさえあれば、あるいは飛び込む意思があれば、現実世界でさえ「用意された映像」にできてしまう。君は短絡的なところがあるから誤解のないように補足しておこう。きっかけは音楽だけに限らない。偶然出会った友だちや、不意に思い出した過去の出来事でもいい。そうして得られた、たとえば既視感(déjà vu)を思い出して欲しいのだが、体験は実に映画的体験だと思わないか。

では映画の「音」とは何か。それは観客に映画的体験を与えるために用意したきっかけだ。観客が戸惑わないように(あるいは惑わすために)、作り手が用意した行き先案内でも良い。道案内らしく、「音」は特定の印象を与えるようにあらかじめ操作されたものが適切なタイミングで提示される。そして観客もまた提示された「音」に何らかのルールがあることを前提に、その印象を想定して受け入れる。「音」はこの約束事の存在を観客に思い出させる。だから作り手たちは「音」の使い方に気を遣う。音の使い方次第で観客が映像を見たときの感じ方を操作できるからだ。そして観客は作り手の操作に身をゆだねて「映画」を体験する。このとき、作り手と観客は共犯関係を結ぶ。

もちろん、音を恣意的に使わない映画もある。今回取り上げる『真夜中のピアニスト』もその一つだ。本作ではあからさまな効果音はおそらくは存在しない。そればかりか、観客が聞く音はそのまま君が聞いている音だ。しかも作中に使われる音はすべて既存の音だ。街の雑踏、酒場で流れる当時のヒット曲、ラジカセから聞こえるいつかの流行歌、そして君が繰り返し練習するピアノの音。これはどういうことか。この状況から帰結できる結論は一つ。君は特別な存在として描かれていないということだ。ありふれた存在として、市井の一人として、誰もが君に感情移入することができる。それは逆のことも言える。作中の「音」に特別の思い入れがある観客はその「音」にとらわれてしまう。その結果、物語の一部分だけに特別の思い入れを持って没入してしまい、物語の全体像を捉えることが難しくなる。このことは本作が一人称で描かれているということと深い関わりがある。

たとえば、作中で君が練習する曲はバッハのトッカータ・ホ短調だ。この曲を弾いた(聞いた)ことのある観客にとって、本作はピアニストを目指す男の物語として見えてしまうだろう。また、君の職業である独立系不動産ブローカーの実態に詳しい観客が見たら、本作はアンダーグラウンドな仕事に従事せざるを得ない君を描いたフィルム・ノワール として見てしまう。他にもある。作中の君はオーディションを受けるため、ピアノの上手い中国人留学生に師事する。この中国人留学生は君の国の言葉を理解できないし、話すこともできない。二人の間には言葉の断絶がある。しかし君と中国人留学生の間にピアノを置くことで二人のディスコミュニケーションは緩和され、いつしかピアノを介さずとも、それは二人の間にしか成立しない非常に親密な何かではあるのだが、ある種のコミュニケーションを成立させられるようになる。このシーンを映画的体験として成立させるためには観客が君と同じく中国語を理解していないことが前提になる。中国語を言語としてではなく、単なる「音」として聞くことが重要なのだが、観客が中国語を理解していたりするとこのシーンは全く別の印象を持ってしまう。このように本作はありふれた音楽や環境をベースに、複数の表情を持つ君を一人称で描いているため、特定の表情に過度に寄り添い、作り手の狙い通りに本作を「鑑賞」できない観客が存在してしまう。

しかしそのことを逆手にとることは可能だ。観客自身の背景情報をあえて忘れること、そのことを作り手側から提示されたルールと認識することでこの問題は解決できる。それはどういうことか。ピアノの経験者は自身の経験を疑い、不動産業者はその知識を忘却する。中国語を理解できる観客は非中国語圏の人間を装う。観客自身が持つ知識やルールを疑うこと、そのことにより観客は君が見聞きする世界を真新しい世界として見ることができ、想像力を存分に働かせることができるのだ。

実はそのルールを観客に伝えているのは君だ。でもそのことに君は気付いていない。君は過去の経験を持つが故に、あるいはその受け身体質が故に、変更された現在のルールに気付けない。冒頭、君は友人からの告白を受ける。友人は君に「父は年老い、妻は身ごもった。だから俺は父親になるんだ」とこぼす。その告白を君は聞き慣れた愚痴と聞き流した。そこに見落としがあった。君は聞き流す代わりに友人の告白を真に受け、君自身の立場を疑い、そこに想像力を与えるべきだったのだ。父親になった男の友人として君自身の立場を上書きすべきだったのだ。ところが君は今までと同じように友人と仕事をし、成果を分配する。しかし父親になった友人は仕事を拡大しようとし、結果、君らは衝突する。だが君は衝突する理由に気付かない。女との関係もそうだ。二人の関係の変化を君は気付くべきだったのだ。しかし君は出会った時の「愛」を月日が過ぎた今も繰り返しささやく。その言葉が相手に伝わらない可能性を考えない。ここでも君の想像力は機能しない。ルールの変化に気付かない君は女とも衝突する。疑うことを知らない君が引き起こす日常的なディスコミュニケーションを観客は映画として体験する。体験するから気付く。日常に潜むディスコミュニケーションの罠に、過去の体験を忘れることの、疑うことの重要性について、君が気付くよりも早く観客が気付く。もちろん、気付けない観客もいる。そんな気付けない観客だけが、取り残された観客だけが取り残される君の味方だ。

本作はこのディスコミュニケーションがいたるところで生起する様子を描く。そして君だけがいつもそれに気付けないことも描く。もちろん、救済の手はさしのべられている。その手は誰のためにさしのべられているかが問題だろう。君か、それとも観客か。

映画における一人称は、細かく言えば一人称としての制約を守りつつ作った三人称的映画と、一人称視点からなる純然たる一人称映画に分けることができる。本作はその意味で言えば三人称的映画に近い作り方をしている。三人称的であるが故に、君の感情を君の独白として、つまり音声としてではなく、表情やボディランゲージとして映像化できていることの意味は大きい。言語による感情の表出は、その信じやすさが故に観客からその背後にある何かを想像する力を奪う。また、本作はわかりやすい一人称映画ではない。物語は常に君が認識する範囲内で展開されていて、他の登場人物の視点で物語が動くことはない。ないのだが、君が独白するシーンがあるなど、あからさまな一人称的演出がなされないため、観客もそのことに気付かない。もっとも観客にとって、本作の人称が何であるかなど、そもそもどうでも良いことではあるのだが。

ともあれ本作の三人称的な描かれ方は、社会的に成熟した存在になることを志向しない君の、よく言えば純朴な、悪く言えば子どもじみた生活スタイルを描くのに適した方法であった。君は主張しない代わりに見返りも求めない。その唯一の例外として浮かび上がったのがピアノであったはずなのに、それさえ、仕事や友人に追い詰められると譲ってしまう。君の生活スタイルがそもそも一人称的でなかったのだ。君は「俺が!」と自分を前面に押し出すような性格ではなかった。本来の君は、何か他の力によって押し流され、思いがけず最前列に飛び出してしまったことにおびえる子どものような存在なのだ。

本作には『真夜中のピアニスト』という邦題がついているが、これは村上春樹のデビュー当時の説話を思い出させる。彼(村上春樹)は、処女作の『風の歌を聴け』を書くことを野球場で思い立ち、それから毎日、当時彼が経営していたジャズバーを閉めた後の真夜中のキッチンテーブルで1時間ずつ4ヵ月かけて書き上げたという。どこか君にも通じるところがあるだろう。君は君を守ってくれた家を出て、生き残るために仕事を得、でも忘れられない何かに突き動かされ、時々思い出したように真夜中の居室でピアノの鍵盤に向き合う。この邦題は、そんな君にあてた1行詩だ。

そろそろ出口に向かわねばならない。思いがけず最前線に飛び出してしまった君に救済の手は届いたのだろうか。村上春樹が小説家として世に出るために真夜中の小説家になったように、経緯はどうあれ君もピアニストになるために真夜中のピアニストになったのだ。救済とはその結果のことだ。結論から言えば、君はピアニストとして認められることはなかった。それは中国人留学生から得た賞賛が偽り立ったと言うことを意味しない。なぜならば君はその舞台に立ち続けることができなかっただけのことだ。ただそれだけのことだ。気に病むことはない。

物語の終盤、君はピアノと向き合うことのプレッシャーに押し潰され、衝動的にオーディション会場から逃げ出してしまう。勝者はいない、いるのはいつでも敗者だけだ。そして負けを認めた者だけがその場を去る資格を持っている。逃げ出した君は、オーディションを受ける前から慣れ親しんでいた街の雑踏に紛れ込もうとした。でも君の手には今まで触れていたピアノの鍵盤の冷たい感触が残っている。譜面に書き込んだ文字が脳裏から離れない。そうしたオーディションの残像を吹き消すために君はベッドフォンを取り出し、いつものお気に入りの音楽を聴く。観客にはヘッドフォンをした君がどんな音楽を聞いているのかはわからない。かろうじてヘッドフォンから漏れるシャカシャカした音を頼りに、観客は君が好きといっていたテクノポップ系の音楽ではないかと想像するしかない。

ここで観客は騙される。それがこの映画の、作り手が仕込んだ罠だ。多くの観客が、ヘッドフォンで音楽を聴く君を見つけ、君は現実世界から逃避するため、音楽の力を借りて目の前に広がる現実世界を映画的体験へと置き換え。オーディションの失敗から立ち上がろうとしていると思うだろう。そうした読みは間違ってはいないし、そうした想像も有りだろう。しかしここに限ってはもう一つの可能性がある。実はこの可能性には想像力は必要ない。今まで言ってきたことと逆ではあるが、今必要なのは経験なのだ。

その可能性とは、君が今立っている現実世界から逃れることができなかったという可能性だ。ヘッドフォンから音漏れするほどの大きな音をもってしても君を映画的体験に引き込むことができないほど強靱な現実に君は対峙しているという可能性だ。もちろん、その圧倒的な強さを持つ現実を引き寄せたのは君だ。君のピアノに対する熱意がその現実を引き寄せたのだ。確かに君の実力に対して敵は強すぎたし、君の戦い方もお粗末だった。どこから見ても明らかな負け試合だった。しかし君は戦ったのだ。諦めることに慣れた君が不器用ながらも力の限り戦ったのだ。それはおそらくは君がこれまで感じたなかで飛び抜けて大きな挫折にちがいない。だからこそ音楽なんかでは逃げられない圧倒的な現実を引き寄せてしまったのだ。そしてそれは君にとっての救済でもあった。今日は、君の世界を見る目が変わった日でもあるのだ。

これで分かっていただけたかと思う。観客に音が聞こえなかったのは君がヘッドフォンをしていたからではない。君がその音を聞けなかったように、作り手は観客にも聞かせなかっただけなのだ。一人称のルールはここでも徹底している。そしてそれこそが想像力ではなく、経験の問題とした理由であり、作り手が張り巡らした罠だ。君と同じ経験をした観客だけに届く作り手からのメッセージ、完膚なきまでに打ちのめされた経験を有する観客に対する賞賛である。そうなのだ、この映画は飛び抜けて大きな挫折を乗り越える経験をした者のためのレクイエムであったということを記して終わりにしたい。本作は、すべての観客に宛てたDMではなかったのだ。届けるべき相手を設定した純然たる手紙だったのだ。それにしても君はがんばったと思うよ。

 

【擬態したポイント】

『真夜中のピアニスト』は一人称映画を三人称的構成で作ったが故に、観客は主人公を「私」と重ねることもできず、かといって「彼」と突き放すことにもためらいが生まれるという構造があります。その葛藤を生み出した構造を本論に取り入れるため、本論ではあえてその中間的立場を採用し、二人称的論考として擬態しました。

『真夜中のピアニスト』

製作:2005年 フランス

監督:ジャック・オーディアール

文字数:6920

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