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タイトルの違和感を問いただす  hanae*『ポテトサラダにさよなら』

◎序
『ポテトサラダにさよなら』という、作文にあるまじきタイトルの不誠実さ。あるいは取り違えた助詞を正そうとしない大胆さ。この違和感の中にこそ、本作の真意があります。こんにちは、幾度となく登場するものの、作中では終ぞ食べられることのなかった不憫な存在、ポテトサラダです。
では、さっそくですが「ポテトサラダにさよなら」って何? って方のための前説から。本作は第52回小・中学校作文コンクールで文部科学大臣賞授賞した作文です。ざっくりまとめると、小学3年生のクラス替えで「わたし」は同じクラスになったエリカちゃんと友だちになったものの、その年の秋、エリカちゃんだけが実家を離れて転校していきます。そのことを小学5年生の「わたし」が回想するお話です。

◎本作の構成
この作文は大きく4つのパートから構成されています。最初のパートは2001年。小学3年生の正月に自転車に乗った「わたし」が横断歩道を渡るコウちゃん(エリカちゃんの弟)とお父さんの二人を見かけますが、転校したエリカちゃんはそこにはおらず、彼女の不在を確認する短いシーンです。2つの目がこの作文の約9割を占めるパートで、2000年4月から同年秋まで。3年生の新学期に「わたし」がエリカちゃんに出会い、エリカちゃんが転校するまでです。3つ目はその2年後、2002年の晩春。5年生になった「わたし」がそれまでの出来事を回想して、改めてエリカちゃんの不在を確認するパートです。短い。短いが内容の濃いパートです。最後のパートがその少し後、2002年のお盆。エリカちゃんを懐かしむ短いシーンです。
この4つのパートを時間軸で整理すると<3年の冬:1p>→<3年の春:24p>→<5年の晩春:1.5p>→<5年の夏:0.5p>(ページ数は分量)となっています。なお、前半の<3年の冬>と<3年の春>は時間軸的には逆転しています。これからも物語のほとんどすべてが3年生のシーンで占めているのがわかると思います。

◎小学3年生を描いた前半パート
小学3年生は、児童心理学の用語でいうところの脱中心化の最中にいる「人」として不安定な時期です。脱中心化とはピアジェが定義した3年生前後に見られる「事物を他者の視点で理解できない自己中心性」の段階から、「数や量の保存概念を持ち」、「形式的、抽象的操作ができる」段階に成長することを意味します。そのため、この時期の「わたし」はまだ自己中心的な面が多く、人は誰でも「わたし」が見るように事物を見ていると信じており、他者には他者の視点があるということを上手く理解できません。
たとえば、作中で「わたし」は、お母さんに作りすぎたポテトサラダをエリカちゃんのお母さんのひろ子さんに届けるように言われるのですが、その「ポテトサラダを届ける」という行為に何か他意や意味、意図を含めることができるということがわかりません。作中でも、ヒントとして、お母さんは「わたし」をNYで産み・育てていて、エリカちゃんのお母さんのひろ子さんもアメリカ育ちという共通点があり、ひろ子さんは幾度となく「わたし」の家に遊びに来ていて、そのたびにお母さんはポテトサラダを作ってもてなしていたという情報が「わたし」に開示されているのですが、そうした具体性のない抽象的な事柄を組み立て、ポテトサラダを届ける意図として再構成することが難しいのがこの時期の特徴です。
しかも本作ではこの3年生の出来事を5年生の「わたし」が回想するという形式を取ったため、2年前の出来事を描いた前半パートでは、3年生にはわかり得ない他人の感情に関する記述がほとんど省かれています。その結果、自分の感情とそのときの相手の表情や仕草といった客観的な情報をまとめたエピソードがバランスよく配置され、エリカちゃんだけが転校するという劇的な要素も手伝い、一人称小説のルールに忠実なよくできた私小説として読めてしまいます。しかしながら本作の読みどころについて、ポテトサラダの立場から「それは違う」と声を荒げたいところです。この作文の本質は、「ポテトサラダを届けること」の表層しか知らない脱中心化前の「わたし」が見た「旧世界」を淡々と描く前半パートに対し、物事には深層があることを知った脱中心化後の「わたし」が「新世界」といかにして決着をつけるかという点にこそあるのです、と。

◎後半パートの役割
よくできた私小説に読めてしまう前半パートの印象を大きく変えるのが後半パートの役割です。さっそく後半の小学5年生パートを詳しく検証してみましょう。全体の2割にも満たないパートですが、脱中心化を果たした「わたし」が登場する重要なパートです。
冒頭、エリカちゃんの転校後、5年生になるまでの2年間の簡単な説明が入ります。2001年2月には兄のモトイがNYから戻り、「わたし」は受験のために塾に通い始めます。こうした「わたし」の変化に対し、転校したエリカちゃんは不在のままです。エリカちゃんの不在を確認するシーンは、前半パート冒頭の3年生の正月のシーンに続いて2度目の登場です。ところが、脱中心化後の「わたし」はそこから新しい一歩を踏み出します。そのときのことについて、ポテトサラダ的には一番の見せ所なので引用します。

お正月と、氷川神社のお祭りの頃、コウちゃんとお父さんがいっしょにいるところを見かけた。でも、エリカちゃんは、いっしょじゃなかった。
昨日、お母さんが久しぶりにポテトサラダをつくった。わたしは、家庭科の時間に使ったエプロンをして、ジャガイモをつぶすのを手伝った。お母さんが手を真っ赤にして、アツアツのジャガイモの皮をむき、わたしがそれをフォークでつぶす。
「なんか、思い出すね」
お母さんが下をむいたまま言った。
「え? 何を?」
ドキッとして聞き返した。その時ちょうどわたしは、最後にエリカちゃんの家にお母さんとポテトサラダを持っていったときのことを考えていたから。
少し間があって、お母さんが言った。
「ひろ子さんのこと」

ポテトサラダを作りながら対面する5年生の「わたし」とお母さん。この位置関係から物語が再起動します。
鍵は「ドキッ」という感情です。3年生の、ただ言われるがままにお母さんが作ったポテトサラダを持ってエリカちゃん家を訪ねてひろ子さんに手渡すだけの自己中心的な「わたし」だったら驚きません。が、5年生の「わたし」はポテトサラダを前に、ドキッとしたのです。それは「お母さんは何を言い出すの?」という不安であり、<エリカちゃんの不在を確信した「わたし」の不安>をわかってくれているかも、という期待の裏返しです。この立ち上がる感情こそがこの作文の核心です。もちろんお母さんは「わたし」の期待をきっぱりと裏切ります。そして「新世界」がその片鱗を見せるのです。

◎わたしとお母さんを分かつもの
うすうす気付いてはいたけど、証拠を突き付けられ遂に認めてしまうということがありますが、まさにそれです。では、何を認めたのかといえば、ポテトサラダを作りながら、「わたし」は<「わたし」→エリカちゃんの関係>を考えていたけど、お母さんは<お母さん→ひろ子さんの関係>を考えていたということです。整理します、お母さんにとってのひろ子さんは、エリカちゃんのお母さん、つまり「わたし」の友だちのお母さんではなく、お母さんの直接の友だちだったのです。そこにエリカちゃんは介在しません。それはつまり、エリカちゃんのことを考えていたのは「わたし」だけだったのです。気付いたことは、もう一つあります。その勘違いは今に始まったことではなく、過去に遡ってお母さんとひろ子さんは一人の女性同士として向き合っていたのです。
では、なぜ「わたし」は、お母さんはエリカちゃんを介してではなく、ひろ子さんを直接見ていると気付いたのでしょう。
それは、ポテトサラダがアメリカの朝食でおなじみの食べ物であり、そのことを「わたし」やお母さん、ひろ子さんは知っていたからです。そしてエリカちゃんだけがアメリカ育ちではないので知りませんでした。5年生の「わたし」は、ポテトサラダをわざわざ作って届けることの深層をうかがうことができます。だからその違いに気付いたのです。お母さんが「わたし」にポテトサラダをエリカちゃん家に届けさせた理由は2つ。1つは「わたし」がエリカちゃんと仲良しになるといいなというお母さんの<気配り>。そしてもう一つ、こちらがおそらくはメインですが、お母さんがひろ子さんに送る<エール>です。「わたしたちは問題を共有できる」というメッセージです。
これは事件でした。「わたし」はポテトサラダを作りながらエリカちゃんのことを思っていたのに、お母さんは「わたし」の側にいなかった。そればかりか、一人の女性としてひろ子さんを見ていたということを確信してしまったのです(もちろん、このことを予感させるシーンは前半パートで提示されているので、「わたし」もうすうすわかってはいたのですが)。そしてたぶん読者も。
この気付きはゲシュタルト心理学の図と地の概念、面に閉じた輪郭を定めることで図が生まれ、しかも生まれた図は些細なきっかけで地に逆転するという関係を連想させます。作中に何気なく描かれていたポテトサラダは、実は図と地を分ける輪郭として機能していたのです。図とは<「わたし」とエリカちゃん>であり、地は<お母さんとひろ子さん>でした。両者の境界にポテトサラダは立っていたのです。お母さんの「作りすぎたポテトサラダ」という<気配り>は「わたし」にとってはエリカちゃんに会う<目的>として機能し、それがエリカちゃん家に届けられると今度はその<気配り>だったポテトサラダはひろ子さんにとっては友人からの<エール>として機能したのです。
3年生の「わたし」が届けたものの正体、それは「わたし」ともエリカちゃんとも直接関係のない、一人の女性としてのお母さんだったのです。図と地の関係とは本来そういうものです。図は地のことがわからないし、地も図を思いやることはできない。「わたし」とお母さんはこの意味においてまったくの独立した個人だったのです。
ところが読者はそうではない。読者は図と地の両方を同時ではないがそのどちらも交互に見ることができます。つまり「わたし」の物語に並行してもう一つ物語が同時進行していたことに気付くのです。「わたし」が届けたポテトサラダやお母さんと二人で届けたポテトサラダに込められたもう一つのエピソード、あるいはスピンアウトした物語を読み解くことができ、この作文の読み幅をぐっと広げていきます。これは奥行きでもなければ、ましてや誤読による広がりでもありません。今まで読んできた一人称の「わたし」が地となり、お母さんの物語が図として浮かび上がるという多元化構造を可能にしているのです。

◎「久しぶり」のポテトサラダ
もう一つ寄り道をします。後半パートで引用した「昨日、お母さんが久しぶりにポテトサラダをつくった。」の「久しぶり」はいつからぶりなのでしょうか。それについて考えてみます。
後半パートは2002年晩春から始まります。エリカちゃんが引っ越すまでの前半パートが2000年の秋までのお話ですから、約2年の空白期間があることになります。この間、「わたし」にはいろいろあったはずです。2001年2月からはNYにいた兄と一緒に日本に住むようになり、朝食にポテトサラダを作る機会もありました。つまり、この「久しぶり」は、言葉通りの「久しぶり」ではないと捉えるのが現実的です。
ではこの2年間のことで繰り返しあったことを考えます。それがエリカちゃんの不在の確認です。「わたし」はコウちゃん(エリカちゃんの弟)やエリカちゃんのお父さんを見かけるたびに、その横にエリカちゃんの姿を探して、その都度彼女の不在を確認していました。このエリカちゃんの不在を確かめる行為は作中に繰り返し登場します。
そこで「わたし」がエリカちゃんの不在を確かめ続けることができた理由を考えてみます。普通であれば不在を確かめ続けるなんて、無理です。心が折れてしまいます。「わたし」の心が折れなかった理由、それはお母さんがいたからでしょう。小学3年生のときの「お母さんもエリカちゃんを心配してるはず」という思い込みが「わたし」を支え、それは5年生になっても続いていたと考えられます。依存といってもよいでしょう。
でも、本当はそうではなかったことは前述しました。ポテトサラダを作りながら「わたし」は確信しました。おかあさんと「わたし」は別々の思いを持っていて、「わたし」の思いは「わたし」だけの思いだったということを。このとき、「わたし」はポテトサラダを作りながら孤独という感覚に満たされたのだと思います。少しは泣いたかも知れません。そして、この気持ちとよく似た感情をかつて抱えていたことを思い出したことでしょう。それはエリカちゃんの転校を知ったときの気持ち、あるいはエリカちゃんとの別れの日の気持ち、エリカちゃんの不在を確認したときの気持ち、それらかつての3年生の「わたし」には名付けることができなかった気持ちです。その瞬間からであるべきなのです、「久しぶり」なのは。
ポテトサラダを作りながらひとりでいたことに気付いた「わたし」にポテトサラダにできることなど何一つありません。ポテトサラダは無力です。ポテトサラダは、爆発すべきときに爆発するように作られた時限装置に過ぎなかったのです。気付いた「わたし」はひとり、歩き出します。

◎タイトルの意味
ここでタイトルに立ち戻りましょう。ポテトサラダとしてはその立場上、お母さんがひろ子さんにさよならを言えなかったことは知っているのですが、「わたし」がエリカちゃんにさよならを言えたのかは知り得ないのでわかりません。ちょっとズルをして「わたし」の気持ちを作文から盗み読みします。
エリカちゃんとの最後の日の記述として「最後の日という実感がなく、わたしはその日、エリカちゃんの何を話したのか、帰りはどうだったのか、覚えていない。なぜか、そこだけボーっとしていて思い出せない。」とあります。と、ここまで説明してしまうと、タイトルが「ポテトサラダにさよなら」になった理由が見えてきます。つまりこのタイトルの違和感は、転校して会えなくなってしまったエリカちゃんにいいそびれたような気がする「わたし」の<さよなら>と、ひろ子さんに伝えられなかったお母さんの<さよなら>、という二人のどうにかして本人に伝えたいという切実な願いを実現させる方法として、二人の共通の思い出であるポテトサラダを人質にすることで、つまり二人が共犯関係を装うことで解決してしまったことのツケとして現れたのです。
ただ、もう一つの可能性が頭をよぎります。それは、「わたし」がお母さんの気持ちを知って、驚いて、エリカちゃんのことをそのまま忘れてしまうという選択肢です。むしろそっちの方がよっぽど楽です。それこそが人生をお気楽に過ごすコツです。しかし「わたし」はそうしなかった。ここにこの作文の嘘っぽい感じが透けて見えます。言い換えれば、「わたし」はもっと大きな悲しみとか苦しみに対峙していて、それをこのエリカちゃんとの離別という物語を借りて語らせたのではないかという疑問です。その答えを知るのは「わたし」で、ポテトサラダにはわかりません。
ただ、いずれにしてもポテトサラダは、二人がそれぞれの胸に思い浮かべる今は会えない人にさよならを言うためのレクイエムとして機能していたことは間違いありません。そして、「わたし」がこの作文で言いたかったことは、過去の記憶に向き合い、笑ったり泣いたりすることで今は会えない人にさよならを言えるということです。それは「わたし」が前を向くためにポテトサラダを使ったように、他の人にとってもおそらく有効な方法なのです。
最後のパートについてすこしだけ。冒頭のシーンと同じく、自転車に乗った「わたし」が登場します。でもポテトサラダを作ってしまった5年生の「わたし」は、もうエリカちゃんの不在を確かめたりはしません。さよならは既に伝えられたのです。

作品名:hanae* 『小学生日記』より「ポテトサラダにさよなら」 プレビジョン 2003年
登場人物名:ポテトサラダ

 

文字数:6634

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