『物語消費論』 〜新四半世紀後版 ビジネスモデルの視点から〜
今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての<物>ではなく、記号としての<モノ>を消費しているのだというボードリヤールの主張は、21世紀の日本を生きるぼくたちにとっては疑う余地のない生活実感となっている。
テレビの「ニュース」が伝える当事者や被害者、あるいは事件や事故の目撃者の証言は別として、それら当事者の証言に紛れて挿入される「友人や同級生、付近の住民の声」は、その意味で象徴的なシーンだといえる。視聴者にとっても放送局にとっても「友人や同級生、付近の住民の声」がニュースに求められる<客観性>を担保しないことはあからさまな合意事項であった。視聴者は「ニュース」に「関係者の友人や同級生、近所の方」が出ると<彼らの声>に耳を傾けながら、そこに提示されるべき<客観性>の不在を黙認した
さてそれでは<客観性>の不在が黙認されているこの瞬間の「ニュース」において、実際に消費の対象となっている<モノ>とは一体何なのか。限られた放送時間に挿入されるものだから当然それは<彼らの声>である、と常識的には考えられる。確かに芸能人の事件・事故を伝える「ニュース」に挿入される「共演者の声」であれば、あるいは議員の不祥事を伝えるニュースに挿入される「同僚議員の声」であればそれで正解である。
しかし、「共演者/同僚議員の声」と「関係者の友人や同級生、近所の方の声」ではその消費のシステムが決定的に異なる。「共演者/同僚議員の声」は、視聴者にお馴染みの人物の人気や人柄に便乗する形でニュースに付加価値をつけるということは、差異化の最も古典的な手法であり、珍しくともなんともない。ところが「関係者の友人や同級生、近所の方の声」の場合は、あらかじめ「彼ら」という存在が周知されているわけでもないという点で、「共演者/同僚議員の声」とは決定的に異なる。つまり<彼らの声>は、便乗すべき人気も人柄も存在していないのである。ここに<彼らの声>を「ニュース」として伝える特異性がある。
とすれば視聴者が<彼らの声>を聞く動機とは何なのか。実は「ニュース」に挿入される<彼らの声>には以下のような仕掛けがほどこされている。
1.<彼らの声>の主は、被害者・加害者の現在・過去を知っていると想像できる存在として紹介される。
2.<彼らの声>の一つひとつはありきたりで、特にこれといった印象を残さない。
3.この情報は一つでは単なるノイズにでしかないが、いくつかの<彼らの声>を聞き続けることでその中に悲しさや怒りといった<小さな物語>が見えてくる。
4.思いがけない<物語>を発見した視聴者は彼らの声にさらに耳を傾ける
5.さらに、これらの<小さな物語>を積分していくと、<小さな物語>から感じられる怒りや悲しみ、願いといった印象と類似した事件や事故が過去にもあったことを発見できる<大きな物語>の存在に気がつく。
6.視聴者はこの<大きな物語>を完成させるため、「ニュース」を見ながら「彼らの声」にアクセスする。
ここで<彼らの声>が作る<大きな物語>とは、<小さな物語>が積分された事件年代記のことである。<彼らの声>を<大きな物語>に照会することで、目前で起きている事件を分類できる。<彼らの声>が悲しければ、それは悲しむべき事件であるし、怒っている様子であれば怒るべき事件という具合に。もちろん、視聴者の声で照会することもできる。したがって、<彼らの声>として聞くべきことは、ニュースとしてでもなければ具体的なコメントの内容でもない。聞くべきは<彼らの声>が伝える<小さな物語>である。そしてその<小さな物語>を<大きな物語>に照会することで事件を相対化できるのだ。
これに対し、「共演者/同僚議員の声」は視聴者にお馴染みの人物の人気や人柄を、本体であるニュースを乗っとる形で売っていたにすぎない。あの人が「惜しい人を亡くした」というんだから本当に惜しい人なんだろう、という「ニュース」を直接・間接的に補佐する情報である。
1980年代の終わりに大塚はこのような奇妙な消費の形態に着目した。彼はそれを<物語消費>と定義し、コミックやアニメ、おもちゃといった子どもを対象とした商品に極めて鮮明に見て取れると主張した。そして21世紀を迎えた現在、その状況はさらに先へと進んでいる。一部の消費者は、あえて<大きな物語>を出現させず、お気に入りの<小さな物語>をさらに微分化するという新たな消費の形態を発見し、その勢力は日々拡大するばかりだ。東が主張する<データベース消費>の誕生である。<データベース消費>は<小さな物語>を微分化し、もはや物語ですらない<大きな非物語>を産み落としては放置するという、かなり込み入った状況を生み出している。
これら<物語消費>と<データベース消費>に序列をつけることは難しいが、それぞれの消費ベクトルは相反する関係にあるといえる。<物語消費>では<小さな物語>を出発点に消費ベクトルは外を志向する。一方で東が指摘する「データベース消費」の出発点は<物語消費>と同じ<小さな物語>であるが、そのベクトルは内を志向する。この違い(外向き/内向きの差異)は、宝の地図を手にしたときの反応の違いに例えればわかり易いかもしれない。地図を手に宝探しに旅立つのが<物語消費>であるとすれば、隠された宝の内容や宝のありかまでの道程に思いを馳せるのが<データベース消費>である。<データベース消費>は、ともすれば手にする(かもしれない)宝の使い途を考えるばかりで一向に旅立たない。
ところが両者をビジネスモデルとしてみると、この二つの消費のスタイルには決定的な違いがある。たとえば消費期限の想定だ。<物語消費>では<小さな物語>を集めて<大きな物語>を発見させるという仕掛け(あるいはゴール)があるため、<小さな物語>は一定期間後に消費されることが期待でき、それを目標に予算設定ができる。一方の<データベース消費>は、<大きな物語>を醸成するというゴールそのものが曖昧なため<小さな物語>の消費期限の設定が難しい。
具体的に考えてみよう。既存の大量生産型ビジネスモデルでは、人気と売り上げが比例する状況を想定する。<物語消費>の消費形態はこの状況によく似ている。<物語消費>の代表例である<小さな物語>を集めて<大きな物語>を完成させるタイプでは、<大きな物語>が完成に近づくほど集めるべき<小さな物語>は限定され、不要な<小さな物語>は瞬間的に消費される。アイテムをコンプリートする状況を想定するとわかり易い。人気が高まるほど<モノ>の消費期限は短くなり、人気は売り上げを伴って増えていく。こうした状況に適応したビジネスモデルが大量生産型ビジネスモデルである。<物語消費>という消費形態は「大量生産型ビジネスモデル」という手段を用いることで高まる人気を確実に利益に替えていくことを可能にする。
ところが<データベース消費>では人気と売り上げは必ずしも比例せず、反比例することさえある。<大きな物語>を志向しない<データベース消費>では<モノ>そのものに価値が生まれ、消費活動が別の<モノ>に向かう連鎖が生まれない。お気に入りの<モノ>を手にしたユーザは「消費活動を終え、その場に留まる」。このように<データベース消費>では人気を基準に出荷調整ができないなど、大量生産型ビジネスモデルとの親和性が恐ろしく低い。しかも個々の<モノ>に対し個別のマーケティング戦略が必要となり、利益率も悪化する。
ここで<データベース消費>において、「消費活動を終え、その場に留まる」ユーザについて考える。ここでいう「留まる」とはメーカ側から見た光景だ。しかし、ユーザの側に立つと、そこでは生産と消費が際限なく繰り返されている状況がある。正確には、自分自身のニーズを満たすための生産/表現活動に従事しているのだ。ということはつまり、<データベース消費>は狭義には生産/表現能力を持つ者にできる消費活動ともいえる。
そのことに関する21世紀的特徴として、生産/表現活動のハードルを技術が大きく引き下げた点も押さえておきたい。写真や音楽、漫画など、かつては技巧や知識に加えて相当の時間を必要としたジャンルが、今や熱意だけで、ある程度の作品を作りあげることを可能にしている。しかも<データベース消費>の特徴として東が指摘したようにユーザは原作と二次創作を区別しないため市場に流通する製品は急増する。この現象は出版・放送分野で突出し、<データベース消費>は爆発的に拡大した。その現象に直面した従来の大量生産型ビジネスモデルは著作権法をよりどころに異議を申し立てる。原作の一部を抽出し、それを再生産することは著作権法違反ではないのかという問題提起は、従来型ビジネスモデルとしての攻めどころとしては適切ではあるが、この課題設定はビジネスモデルにおける<物語消費>と<データベース消費>の本質を捉えておらず、解決策としては適していない。
この問題の本質は、<物語消費>が大量生産をベースにした従来型ビジネスモデルに適応しているのに対し、<データベース消費>は新たなビジネスモデルを求めているという点にある。従来型ビジネスモデルが危惧しているのは、出版・放送という大量生産型ビジネスモデルが切り捨てたニッチな市場に生産/表現能力を持った個人が集約し、既存のマスマーケットが浸食されつつあるという危機感にこそある。言い換えれば出版や放送というメディアを扱うハードルが下がったことで、それまで問題にもしていなかった存在が組合を組織し競合相手として現れたかのように見えたことだろう。それは技術の問題でもあったが、同時に多品種少量生産に対応した新規参入者による既得権益への市場開放の要求という側面もあった。いいかえれば<データベース消費>という消費形態が求めるビジネスモデルは多品種少量生産への対応が求められているのだ。
この大量生産から多品種少量生産へという流れはビジネスの世界では決して珍しい現象ではない。食品から工業製品に至るまで、あらゆるビジネスシーンが多品種少量生産に対応している。市場の状況は出版・放送分野だけに特別なことではない。特別なのは出版・放送が「アイデア(特許権)」ではなく「表現(著作権)」を扱う分野であったという点だ。つまり消費の形態は、それを支えるビジネスモデルの変化に伴い、<物語消費>から<データベース消費>に移行しているともいえよう。その結果、多くの市場で従来形ビジネスモデルは<データベース消費>との折り合いを付けることを余儀なくされ、残された「表現」を扱う市場もまた<データベース消費>に対応できるビジネスモデルの開発に余念がない。
では、大量生産型ビジネスモデルと相性のよい<物語消費>は衰退したのかといえば、そうではない。生産/表現手段を持たない、あるいはそもそも生産/表現などしたいと思っていない消費者を中心に、<物語消費>は今もなお、お気軽に<モノ>を消費できる商品として成立している。いや、確固とした牙城を築く市場があるといってもよい。それは、消費形態的には<データベース消費>であっても大量生産型ビジネスモデルで対応できる<モノ>を商品として扱う市場である。具体的には、多品種少量生産的ニーズを生み出さないような<小さな物語>、あるいは差別化を追求した結果、これ以上微分化できずに<データベース消費>が機能不全を起こすほどの<小さな物語>。ついでにいえば、変化を許さない、既得権益を死守する業界もこれに含まれる。つまり極めて普遍的で、恐ろしく単純な<小さな物語>と、それを積分化してもなお単純で普遍的な<大きな物語>を提供する商品である。そこにあることが当たり前な商品。コモディティ化された分野、あるいは公共性を持つ領域。ニュースに挿入される<彼らの声>もその一つだ。
「ニュース」は商品でありながら、公共性を標榜する。そのため、「ニュース」は積極的な客観性と全体の利益を考えた合理性を混ぜ合わせながら<公共性>の獲得を目指す。客観性とはニュース記事だ。では全体の利益を考えた合理性とは何か。それが<彼らの声>だ。冒頭で伝えたように、視聴者は<彼らの声>客観性を問わないことを前提に聞いている。視聴者は<彼らの声>に<公共性>を聞いているのだ。殺人事件の発生時には「許せない」「起こさせない仕組みが必要だ」という声を挿入し、犯人逮捕時には「昔からよくわからない人でした」「いつも独りで過ごしていました」という声を紹介する一方で「明るい人だったのに信じられない」という声を紛れ込ませる。マイクを向けられた<彼ら>が公共から自由な立場でいられるはずはない。そこには「ニュース」のコメントという圧力が感じられるし、被害者向けと加害者向けとでコメントを使い分ける程度には全体の利益を優先していることは了解済みだ。そのようにして<彼らの声>は<公共性>を代弁する<小さな物語>として放送されていく。
一方の視聴者もまた<彼らの声>を<小さな物語>として聞く必要は、本来ない。<彼らの声>が何を伝えようと、<大きな物語>がいかなる存在感を示そうとも、視聴者はそれを無視し、自分自身の印象を勝手に持つことはできる。しかし、視聴者の多くが<彼らの声>に耳を貸す。それは<彼らの声>に<公共性>を感じ取っているからだ。もちろん、視聴者もすべてが本当とは信じていないし、ニュースが伝える公平さに疑問を持つことも少なくない。では<公共性>を担保しているものは何か。それが映像である。画面に映る個人の姿にすべての責任を押しつけ、それをもって視聴者は<公共性>の担保とする。「ニュース」に疑問はあるが、画面の個人のことは信じてもいいだろうという性善説的文脈もこれに荷担する。そして痛ましい事件には悲しみを、腹立たしい事件には怒りをという<大きな物語>が形成されていく。
重要なのは、この<大きな物語>はもちろんのこと、<公共性>を陰に陽に支えてきたのが大量生産型ビジネスモデルだということだ。産業界による公益活動の歴史は古く、産業革命を機に発展した大量生産型ビジネスモデルも<公共性>との親和性を洗練させながら発展してきた。その印象が人々に企業の社会的責任を信じるに足りるものと思わせている。企業の不祥事が大きな社会問題になるもの、人々がそれを信じているからだ。たとえそれが建前だったとしても。
がしかし、ここに来て状況は急速に変わりつつある。震源地はプライバシーの保護だ。これまでニュース映像はその公共性が認められ、比較的自由に扱えたが、最近はそう簡単ではない。<彼らの声>は<物>ではなく<モノ>として扱っているんだというエクスキューズも通らない。そして当事者でも関係者でもない<彼ら>のプライバシーを保護するため、映像にはモザイクがかかるか、手元や足元を写した映像に差し替えられていく。<彼ら>のプライバシーは保護されるが、もともと希薄だった<彼ら>と事件の関係性はさらにぼんやりとし、黙認されていた客観性の不在も明らかになる。このモザイクをかけられた<彼ら>の声から<公共性>を感じ取ることはできるのだろうか。<公共性>を担保してきたのは画面に映る無名の個人であり、顔のない匿名の個人では代替できない。そして<小さな物語>から拠り所である<公共性>がこぼれ落ち、<大きな物語>はその土台を失う。
<彼らの声>の例では、<物>を<モノ>として扱うことで<小さな物語>から<大きな物語>を生み出すという仕組みが、<物>を対象とするプライバシーの保護という新たなルールによって機能不全を起こした。個人の外を志向する公共を個人の内を志向するプライバシーが拮抗するこの新しい状況は、それがすべてではないとしても、<物語消費>と<データベース消費>の消費モデルの関係と微妙に符合しているし、大量生産型のビジネスモデルが支えてきた<公共性>という<大きな物語>の行き詰まりを仄めかしてもいる。
概観すると、2016年の日本の状況は<消費物語>に対してかなり分が悪い。このことをして<大きな物語>はもはや不要となった。状況はこのまま進展して<データベース消費>に対応したビジネスモデル全盛機が到来するのだ、と断定することは簡単だ。しかしそうだろうか。単に<物語消費>を支えてきた大量生産のビジネスモデルが失墜しただけで、<物語消費>を支える新たなビジネスモデルが台頭しないとも限らない。あるいは、もう一つの可能性、それは既得権益を手放したくない従来型ビジネスモデルがそのパワーの限りを尽くし、無理にでも<物語消費>を動作させるという光景だ。記号としての<モノ>と戯れ続ける消費社会だが、そのオーナープレーヤーが既得権益側の人間であることを考えると<物語消費>はこの先も生き残り、丸々と太った<大きな物語>を養い続けていくのかも知れない。
模倣元:「定本 物語消費論 世界と趣向——物語の複製と消費(’89・5)」大塚英志
文字数:6970