客席のリアル
1.「漏出するリアル」とは何か 〜思考空間の認知〜
吉田は「漏出するリアル 〜KOHHのオントロジー〜」で日本語ラップ(あるいはヒップホップ)について論じた。日本語ラップの誕生について、吉田はその契機をいとうせいこうの『MASS/AGE』(1989:平成元年)にあると定義する。その根拠として『MASS/AGE』収録曲「噂だけの世紀末」を例示し、「バブルの享楽に対するカウンター(反撃)として、悲哀をラップに託」す姿勢を取り上げ、「初めて『リアル』について目配せした」と、いとうせいこうを評価する。一方、後に続く日本語ラップへの評価は辛い。平成生まれの日本語ラップ全般について、昭和という母親の腕に守られた幼子扱いだ。2015年、KOHHの登場を機に論調は変わる。吉田は、日本語ラップはKOHHという才能を迎え、ラップ史に「悲哀と独歩」という新たな系統樹を書き加えることができたと再評価する。平成元年の『MASS/AGE』から27年、平成を産み落とした昭和は90年代に突入していた。
少し説明が必要だろう。まずラップとは何か。吉田は「ラップとは享楽の音楽ではない。(中略)悲哀を生み出した状況に対する反撃でもあり、悲哀を感じる自身を鼓舞するための自己への反撃でもある」と定義する。そして『リアル』について、状況に対する反撃で成功をもぎ取るギャングの人生を擬えたギャングスタ・ラップを取り上げる。そしてギャングの物語をなぞる彼らのリリックは『リアル』を追求するあまり、ギャングたちの暴力の連鎖までをも呑み込み、不可避的に死に寄り添っていく。『リアル』の追究は、死に寄り添うことを警戒しつつも「自らの言葉が自らを対象としてパフォーマティブに働いてしまう」ことにあらがえず、結果的に自らの現実の生が『リアル』に侵食されていくという問題を抱えていると指摘する。
吉田の論考は、この問題をクリアした新世代のラップ・アーティスト「KOHH」に向かい、彼の独自性について「私性」の不在を指摘する。そしてギャングスタ・ラップのリリックが俺の悲哀に反撃する「俺」の物語であったのに対し、KOHHは「私性」を取り払うことで自らの生への浸食を避け、しかも「悲哀そのもの」を『リアル』に浮かび上がらせることに成功したと評価する。さらにKOHHの「世の中の多様性をそのまま受け入れ」「何ものも排除しようとせず、独り歩く」姿勢を取り上げ、日本語ラップが「悲哀と反撃」から「悲哀と独歩」に転回したことを指摘する。最後にKOHHが漏出させる『リアル』を受け、世界への距離感をどのように取るかが私たちリスナーに改めて問われているとして論を閉じた。
2.リスナーが受け取る『リアル』 〜プッシュからプルへ〜
KOHHが反撃に頼らず、「悲哀と独歩」により『リアル』を漏出させたことは吉田が論じた通りだ。ではリスナーはKOHHのリリックを、そこから漏れる『リアル』を、どのように受け取り、扱うのだろうか。本論では吉田の論考を受け、リスナーはKOHHから何を受け取ったのかについて考える。
そもそも「「私性」を取り払う」とは、リスナーにとってどういう体験なのか。存在の知覚はたやすいが、不在の自覚は困難である。吉田は、彼のリリックの特徴について以下のように記述する。
「そのリリックに彼の価値判断は含まれていない。そこに記録されているのは、物事の表層であり、記号である。しかし私たちが、そのカメラアイを自身の両眼に纏い、記録された表層の世界を見やるとき、そこにはKOHHから借り受けた直観の力が宿っている。レディ・メイドの刻印が押された世界。」(吉田)
吉田の指摘を意識しながらKOHHのリリックを読み解くと、確かにKOHHは独自の言葉を使わない。独自の表現も選ばない。組合せの妙はあるが、イメージが特定されるほどではない。前後の脈絡もない。リリックには、KOHHが見た世界が純化されている。その世界はKOHHでなくても見る(あるいは想像する)ことができる世界と言うことさえできそうだ。レディ・メイドという表現を借りるのであれば、「「私性」を取り払」ったKOHHのリリックは、KOHHによるメッセージの伝えやすさというよりはむしろ、リスナーによるメッセージの受け取りやすさのためにあるといえないか。そのように考えると、KOHHのリリックには、どのようなメッセージをリスナーが受け取ってもかまわないという印象さえある。そして、吉田も指摘しているが、KOHHのリリックは「いま目の前にある現実」をなによりも志向する。
一方、リスナーは、いまや誰のものでもない(かつてはKOHHのものだった)「リリック」に既製服を羽織るような感覚で袖を通す。その着心地こそがユーザが受け取るメッセージだ。あらかじめ結論が決まっている誰かの物語の追体験ではない。KOHHは期待に応えない。期待されることを拒否する。見返りを求めない。「私性」の不在は時間の概念を揺るがす。狭義にはKOHHのリリックに『リアル』はない。リスナーが受けた印象をリスナーがKOHHからのメッセージと自覚し、それを『リアル』と受け取るだけだ。手触りや袖を通した感じ、ボタンを留める、かがんでみる。そうした生まれては消えする感覚の一つひとつがメッセージになる。繰り返そう。それは感情がリリックにさかのぼって作用し、リリックの存在価値が決定されるという、あるいはリスナー自身に生起した体験をリスナーがリリックの影響と自覚する一連のプロセスである。それこそがKOHHのリリックに組み込まれた仕掛けでではないか。KOHHの『リアル』とはリスナー自身の「いまここで」の感覚に他ならない。ついでにいえばリスナーはその感情をおそらくは言語化していない。正しくは言語化する前に次のリリックが飛び込みむため、言語化する間を持たない。KOHHのリリックが志向する「いま目の前にある現実」にはそうした作用も含まれている。
そこで浮かび上がるのは、KOHHの『リアル』は共有できるのか、という疑問である。
3.KOHH以前の『リアル』 〜スター型の世界〜
吉田の指摘によれば、1990年代に米国で生まれたギャングスタ・ラップの『リアル』が注目を集め、類型化された物語として消費される。ライブ会場に集まったリスナーはMCの物語に自分自身を投影し、MCの反撃を追体験する。MCの物語が『リアル』であるほどリスナーは熱狂し、会場は物語を中心に一つにまとまっていくシーンを想像するのは難しくない。
反撃の物語は(すべての物語について共通することではあるが)、反撃対象や反撃手法など話題が具体的なことになるほどリスナーの許容度は下がり、同じリリックを聴いても私とあなたとでは受ける印象が違うという状況が生まれる。それを回避するため、物語は「なぜその対象なのか」「どうしてその反撃なのか」といった反撃の根源となる情報を根底に据える。そしてリスナーはその「反撃の根源」をヒントに物語を「解釈」し、リスナー同士の印象の受け取り方の違いを互いに補完しあい、同一の印象を作りあげていく。「反撃の根源」とはつまり「悲哀」であり、リスナーは同志となる。
KOHH以前の『リアル』は物語を介して流通し、言語によって増幅された。しかしこのシステムも万全ではない。物語は消費されてしまうからだ。そこで消費への対抗策として物語は「過激化」を自らに許容する。過剰な言葉で着ぶくれし、よちよち歩きになりながらも彼らは『リアル』の追求をやめない。吉田が米国の『リアル』で紹介した過激化するギャングスタ・ラップがまさにその好例である。米国ラップシーンのように「悲哀」が確立されている場合、「過激化」は物語の寿命を延ばす適解であろう。物語は語り手を乗り継ぎ、リスナーはギャングスタ・ラップの共有を継続していく。そして『リアル』はロングテール化する。
同様なことは日本でも起きた。ただし、米国の『リアル』と違い、日本の『リアル』は短命であった。日本語ラップの物語は消費に対抗する手段を持たなかったからだ。日本語ラップは「悲哀」を根源に持たないことが吉田によって指摘されている。それ故リスナーは米国で行われたように物語の受け取り方を統一させることができず、「過激化」という増幅装置を起動させることができなかった。悲哀なき物語の越えられなかった臨界点である。ゼロを何倍してもゼロのままだ。その結果、日本語ラップはJ-RAPへの反撃、渋谷への反撃、反撃への反撃と、時代の雰囲気に流され、その都度リスナーはその構成を入れ替え、繁栄と衰退を繰り返していく。吉田が指摘する「悲哀」を欠いた状態とはリスナーの固定化を阻害する要因であった。
4.そして、KOHHの『リアル』 〜手をつなぐと輪ができる〜
KOHHの『リアル』と、それ以前の日本語ラップの『リアル』との違いについて、KOHHのリスナーは自らの体験をメッセージとして受け取っている点にあるということは既に伝えた。それはつまり一人ひとりのリスナーは固有の体験をしているという意味であり、リスナー同士が同一のメッセージを受け取ることを保証しない。いわば「私性」を取り払われたことに起因するKOHHのリリックに不可避的に発生する現象である。KOHH以前の『リアル』はメッセージを共有するためにいくつかの工夫をしていた。それは物語であり、過激化であった。それに対してKOHHの『リアル』にはそうした工夫を見ることができない。むしろコントロールを諦めている印象さえある。
にもかかわらずKOHHに注目する者は増えている。それはなぜか。その理由を追及することが本論のテーマでもある。
結論めいたことを伝えよう。KOHH以前の『リアル』は「物語を介した『リアル』の配布」であったのに対し、KOHHの『リアル』とは「断片的なイメージの配布による『リアル』の生成」である。『リアル』はリスナーの側で生成されるのだ。そして、KOHHの『リアル』の本質は、それがどのような『リアル』(内容とかイメージとか)を生成するのかにはなく、それがリスナーにとってどうしようもなく『リアル』であるという点にある。
もちろん、KOHHの『リアル』がリスナーにとって『リアル』と受け取れない場合もある。KOHHはその可能性を否定しない。「私性」を取り払うということはそういうことだ。KOHHの『リアル』は大量生産を志向しない。
最後に、KOHHの『リアル』は共有可能であるかという問いを回収する。それは共有できる。なぜか。リスナーは受け取ったイメージを言語化する間も与えられず、ただそれを『リアル』と感じているからだ。言い換えよう。言語化されないイメージは、その違いをもまた明文化できない。つまり「私性」を取り払ったリリックが生成する『リアル』は、「上手く表現できないけど『リアル』というしかない」という文脈で共有される。おそらく、この状況こそが「悲哀と独歩」への転回であり、日本語ラップの新しい響きであるに違いない。
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