印刷

「擬日常論」論

擬日常論を論難する。擬日常論は、擬日常という言葉が鍵になっているため、これを批判することが論考全体を批判することになるだろうから、その点から述べていく。早速始めよう。

擬日常論では、「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」において、「非日常の到来では揺るがなかった彼女たちの日常」が、彼女たちの一人が死ぬことで壊れると記してあるが、なぜ、その一人が死ぬことは非日常にならないのだろう。これもまた非日常の一つであり、非日常が常態化して日常となった時に、さらなる非日常が到来して日常が壊れたとも考えた方が良い。「非日常が来た後もつづけられる日常、言うならば日常の皮を被った非日常」があるのではない。非日常であっても、反復されることによってそれは日常になる。結局それは、柳田國男の言うハレとケのサイクルに回収されるものでしかない。擬日常という言葉は、不必要である。

そもそも「日常が祝祭という非日常を経てふたたび日常に戻る」という時間感覚は、反復と差異の問題である。日常は非日常を挟んで反復するが、歴史が唯一性を持つために、その反復は反復でありながら差異を含んでいる。その差異が一定の度合いを超えた時に、それは非日常として認識される。そして、擬日常という言葉は、その非日常が反復され、日常化したものに過ぎない。そして当然、その反復は、ある一定の度合いを超えた差異が訪れた時に、また別の非日常と化すのである。

また、日常と非日常は、当事者、あるいは部外者という視点によって決まるものでもある。例えば突然日本にだけ宇宙人が襲来し、彼らと闘うことになったとしよう。その日々が常態化すれば、日本人にとってそれは日常となる。無論外国に住む者にとってはそれは非日常である。従って、日常化した非日常を表す擬日常という言葉は、部外者の視点でなければ使えない言葉でもあるのだ。当事者からすれば、どんなに部外者から非日常と思われても、それは日常である。日常に過ぎないのだ。

まだ瑕疵はある。『「終わりなき日常」と「擬日常」は、たんに日常と非日常をどのようなものと見なすか、その解釈において分かれているだけだが、ここであえてそれを「擬日常」と呼び直した意図については後ほどあらためて論じよう。』とあるが、擬日常論の最後で述べられるのは「擬日常」という言葉を思いついた出来事であり、「擬日常」という言葉が必要な理由ではない。つまり、論者は「擬日常」という言葉を使わなければならなかった理由を充分には、いや、全くと言ってよいほど論じていないのだ。そのため、擬日常論には説得力がない。

擬日常という言葉を使う必然性がない以上、「擬日常論」というタイトルは相応しくない。擬日常論は、「日常化した非日常論」である。擬日常という言葉を使う意味はないのだ。『日常と非日常といった既存の構図で社会を捉えるのに限界があると考えるからだ。「擬日常」の悲劇はこれまでの枠組みでは語ることが難しい』とあるが、この文章もおかしい。前半では社会を捉えるのに限界があると書きながら、後半では悲劇を語ることが難しいと書いてある。言うまでもなく、社会と悲劇は等しくない。ここに、無理やり擬日常という言葉を使おうとしたために現れた欠陥を見ることができるだろう。

擬日常という言葉の必要性のなさは論じた。しかし、他にも擬日常論には瑕疵がある。それは、一般化である。「退屈な風景」に生まれたという論者の立場を一般化し、「その風景をこそ故郷として生きてしまった私たちが、その風景を(批判はできても)否定できる理由はどこにもないのではないか」と書くのだが、なぜ「私たち」なのだろうか。論者がどれだけ「退屈な風景」に囲まれて生きてきたかは知らないが、誰もがそのような風景を生きてきたわけではない。ならば、その退屈な風景とやらを否定したとしても構わないはずである。一般化はこの部分だけに留まらない。「私たちが「断つ」ことと「離す」ことのない生活のあり方に強い執着を覚える」とも書いてあるが、また「私たち」という言葉を使って一般化している。ネット疲れという言葉もあるように、「断つ」ことと「離す」ことのない生活をむしろ望んでいる人だって多いはずだ。そのような生活に強い執着を覚えるのは一部の人であって、誰もがそうではない。このような一般化が、論考の説得力を減じている。

確率の部分についても言及しよう。論者は日本における災害について、「可能性(possibility)」の出来事ではなく、「確率(probability)」の出来事なのではないかと問う。この発想は、東浩紀の「ソルジェニーツィン試論」で論じられている確率的問題と同型である。いや、同型であるというよりもむしろ、「ソルジェニーツィン試論」の発想をそのまま災害の出来事に当てはめたと言った方がよい。そこには継承はあっても、批判的継承はない。単なるアイデアの継承、批判性のない継承は、批評家のする行為ではない。批評家は批評が仕事であるのならば、先行者を常に批判的に参照しなければならないだろう。論者は東浩紀の議論を批判的に、あるいは発展的に用いるべきだったのである。

最後に、二項対立を止揚するという発想は、哲学的にはありふれているという点も述べておこう。弁証法的な発想は、新しい概念を産みだすには便利だが、単にそれを真似するのはやはり批評家の態度ではない。擬日常という言葉は、明らかに日常と非日常という二項対立を乗り越えるものとして用いられているが、それは安易である。弁証法的な発想を用いるとしても、そこに既存の弁証法に対する批判的な態度が必要であろう。

擬日常論は瑕疵の多い論考である。そのような論文が次点となってしまった批評再生塾一期の、今後この塾を継続していくうえで考えなければならない問題点を露呈しているという意味において、擬日常論は読むに値すると言えるだろう。

文字数:2422

課題提出者一覧