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悩みと公開往復書簡 思考と懊悩、いくつかの諦め、そして記述

一通目 かなめ

皆さんお疲れ様です。最終課題として往復書簡を試みてみます。

経緯としては僕が野村さん主催の読書会に通っていて、最終課題の相談に乗っていただいたところ、野村さん、読書会参加者の遠野さんと往復書簡してみようかという話になった、というわけです。

で、最終課題の提出者であるワタクシから、僕が抱える問題を往復書簡の議題として提案させていただきたく、本件について説明させていただきます。皆さんお察しの通り、僕は自分自身が人間ではないかのように考えてしまう節が時折あります。とにかく早く死んでしまいたい瞬間が時折訪れます。その瞬間はひどく自動的で発作的な瞬間であり、口に出して「しにたい」の「し」の音を伸ばして、「しー・・・」と静寂を呼び出すような変なことをしております。「しー・・・」などと発音してはおりますが、心のなかでは本当に「しにたい」を叫び出したい気分になるのです。

普段は僕も自分が人間だと感じています。書簡にご参加くださるお二人にも、また他の多くの方に支えられて僕は人間として生活できているのだと、こうして文章を書きながら実感します。人間生活を皆さんのお陰で送っているわけなのですが、そんな御恩にもかかわらず、皆さんに対して僕ならぬワタクシめは本当に失礼なことを何度もしてしまったり、非常に怠惰であったり、全くもって無能力である、と自分で自分を考えるわけです。

と、こうして自分を卑下して書きますが、本当は自分がどれだけ失礼なのかをおそらく自分で認識、認知できていません。だから失礼な言動をしてしまうのでしょうか。意図的に、あるいは無意識的に失礼な行動を取ることによって誰かを貶めてやろうと考えているのでしょうか。無意識だとしたら仕方のないことなのでしょうか。

いや、違います。僕は失礼なことを意図的にしようとはしていません。僕は僕の分かる範囲で、あるいは出来る範囲で、いっぱいいっぱいの丁寧さを施していると自分で自負したいです。それで、僕のやっていることが失礼なのだとしたら、それは一つ一つ解決してゆきたいです。態度の問題ではなく、実践の問題だと考えました。どれだけ認知が失敗していても、今ある認知によって少しでも実践を改良してゆく態度はきちんと備わっているはずだと自負します。

 

実践に失敗している事例が何かないか考えましたところ、自室を撮影した写真を思い出しました。何かに使えるかもしれないと考えて撮ってみた自分の部屋の写真を皆さんにお見せします。これが僕の部屋の一部です。

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笑ってください。図書館の不要本を拾ってきたり、古本を買い漁っているうちにこうなってしまいました。本棚買えよという意見、ごもっともです。引っ越しを半年以内に考えていて、家具をあまり増やしたくないという意図があってのこの状況です。だとしても、これは無いのでしょう。ダンボールに要らなさそうな本をまとめておくとか、分類が必要そうです。忙しいからと言い訳をしてきた気もします。上に書いた本棚を買わない理由も言い訳ですね。自己欺瞞ですね。

なぜこんなにも生活能力が低いのでしょうか。端的に綺麗にすればいいのでしょう。引っ越しをしたいという言い訳をしましたが、すなわちそれは、引っ越しをせずに今住んでいる場所で暮らし続けるという覚悟もないということを示しています。東京から一時間弱かかる場所に住んでいて、会社が東京なので、辛い、という言い訳をしています。素早く引っ越さない、本棚を買わない、時間を作って掃除をしようとしない等、言い訳が重なってこのような事態が生まれたのだと考えます。

特に部屋を綺麗にするメリットを理解していない、という言い訳もあります。なぜ部屋を綺麗にしなければならないかが分かっていないです。自分の部屋だから綺麗だろうが汚かろうがどうでもいいのではないかと考えている節があります。友達を自分の部屋に呼ぶということも無いのだと思います。

友達が少ないというのも言い訳です。友達というものを自分から積極的に作ろうと努力していません。あるいは努力しているつもりになっています。もう何をどうすればいいのかわからないという言い訳すら出てきました。

とりあえず部屋が汚いお話については、言い訳がいくつも出て来る、そしてやはり実践(掃除)が失敗しているということです。

 

今まで見ていただいた僕の部屋を一例として、僕は非常に生活能力が低いと考え、あるいは別の理由も相まって全ての能力が劣っているかのように自分で自分を考えています。自分で自分を劣っていると捉えることのできる事例は数多くあり、もちろんどなたでもそのような事例はご自身の中でお持ちのことと思われますが、ワタクシ個人にとって自分の事例を大きく分けるならば二つあると考えます。つまり、①人と比べて自分の能力が劣っていると感じるため。②人に対して意識的に、あるいは無意識的に傷つける言葉を投げかけてしまうから。

①の理由は自分が怠けているからかもしれません。今までいろいろ怠けてきました。怠けることにも怠けてきたような気がします。本気で何かに取り組むということは本気で無かったと言っていい。ゲームだってクリアしたことが殆ど無い。とにかく何もかも散漫で、何かをきっちり完了した記憶がさっぱり無い。未練たらたらで全てをほっぽりだしてきた印象ばかりが全てに対して残っています。この点から見えることとは、「何かに対して結論を出そうとしない」という態度に現れ出ます。

どうせつらい状況は引き続くのだという印象が人生の中にあります。だから結論を出したくないのです。結論を出してしまうと評価されます。そしてその評価は明らかに低い点数で、僕がダメだということが明らかになってしまう。それが嫌で言い訳ばかりしてきたのだと思います。そしてそれすら間違っているような気がするという最低のお話ですね、これは。

②については、上記と同様に実践の問題だと思います。実践を積み重ねれば積み重ねるほど人と不仲になってゆくような気がして怯えています。話せば話すほど自分の周りが全て敵のようになっていく印象を持ちます。よって実践練習をしなくなっていったというのが実情です。「どうせ結局この人達とも不仲になるんだろうな、別れが来るんだろうな、人間関係を切られるんだろうな」という心持ちがどこかにあります。もちろん僕から、自分から不仲になりたいわけではありません。が、どうも僕の発する何かが相手に届くと相手は否定的な感情を持って大変嫌なムードになるようです。と書いてみてわかったのですが、これは人のせいにしておりますね。私の実践が悪くて相手に悪い印象を持たせているのにもかかわらず、それは相手が判断したことであって私が悪いことをしているわけではないと開き直っているのだと思います。

一旦話をまとめてみると、自分の問題としてはとりあえず、部屋が汚いこと、人に不快な思いをさせることの二点が目下の問題です。そしてその問題の解決として、それぞれの問題に対処するための実践に改良が必要なのではないかと考えました。

まあ、しかし本当に読者の方にとってはどうでもいい内容なんだと思います。部屋が汚いから綺麗にする方法は皆さん気になるのでしょうけれど、ここでお掃除技術論を述べられるわけでもありませんし、僕自身上で書いたことはまとめ以外に言い訳ばかりでしたし、本当に部屋が汚いということを考えても仕方がないことのようにも思います。多分引越し先でも、どうせまた引っ越すかもしれないし本棚などいらないと考え始めるやもしれません。

部屋が汚いことも、人間関係が上手くいかないことも、正味な話、私自身はどうでもいいこととして捉えているのでしょう。別に掃除が上手くいかなくても、趣味であれ仕事であれ人間関係が最低でも、生存が脅かされるわけではないですし、そこに重大な危機はない、と思いこんでいる。最初から上手くいかなかった人間です。最後まで上手くいかないでしょう。どこまでもどこまでも上手くいかないでしょう。そして上手く行かないことばかり考えても全く意味がないでしょう。本当にこういう思考は端的にやめたほうが良いということに尽きるでしょう。だのにこういうことを書くことで考えなきゃならないって言われるもんだから参ってしまうのですけれども、いやいやそれは誤解だと言われそうで、もうどこまでが誤解でどこからが誤解じゃないのかがやっぱりさっぱりわからんとです。

上記の二つの問題の内、部屋が汚い問題は気が向いた時に対処するということでも問題ない気がします。これは本当に個人的な問題ですし、僕の部屋に他人が入ってこない限り、直接的には誰の迷惑にもなりません。間接的にはゴキブリが増えるとか部屋が傷むとかありそうですけれど、とにかくそれは置いておきたい。というのももう一つの問題がやはり重要そう、あるいは読者の方にとっても問題意識を共有できそうな話題だからです。つまり人間関係の問題です。僕が人を傷つけるとき、それは全くの無意識であるか、あるいは意識的に発話しても、その発話が意味するところの受け取られ方の違いで傷つけてしまう場合かのどちらかです。無意識な発話の場合、本当にこれは何の手のうちようもなさそうです。一方で受け取られ方の違いで傷つけてしまった場合、未然に防ぐ方法と傷つけてしまった後でフォローする方法の二択がありえます。未然に防ぐ方法としては…。

いや、これも辞めましょう。本当に茶番ですね。結局人は人を完璧に傷つけないことなどできない。不可能だ。そんなことを考えても本当に意味がない。いつまでも僕は誰かを傷つけ続けるでしょうし、そうやって生きてゆく、あるいは恨みを持たれて刺殺されるかぐらいでしょう。痛そうですが、僕以外の人にとっては大したことではなさそうです。本当に良かった。自分が世界にとって無害であることを確認することは本当に喜ばしいことです。

以上、部屋が汚い問題も、人間関係問題も大したことではなさそうである、ということで一旦僕の話は終わりです。

 

 

 

二通目 野村崇明

 

 

自らの「怠惰」と「無能力」を強く自覚してしまったときに、ふと鎌首をもたげてくる死にたさ、よくわかります。もちろん怠惰であることも無能力であることも、それが生存の妨げにさえならなければたいしたことではないし、「世界」という抽象的かつ大きな視点から見れば、なおさらたいしたことではないはずです。そうだとわかっていても、ふとしたときに死にたさはやってくる。それは、よくわかります。しかし、かなめさんの手紙にはいくつか、強烈に違和感を抱いてしまう箇所もありました。その違和感の核は、おそらく「僕は自分自身が人間ではないかのように考えてしまう節が時折あります。とにかく早く死んでしまいたい瞬間が時折訪れます。」という一節にあるように思われます。

 

マルティン・ハイデッガーが『存在と時間』において、人間を他の客観的存在と同じしかたで定義する「伝統的人間学」の方法論を批判し、人間についての問いを、存在と存在者をめぐる思考のシステムの特殊な項(「現存在」)の問題へと変換したとき、彼が成し遂げたことの一つは、「人間とは何か」という定義問題(あるいは「人間」という概念そのもの)を無効化することでした。二十世紀におけるこの問いの失効は、現代にも影を落としています。例えば、それまで人間にしかおこなえないと思われていた複雑な計算を人工知能がおこなえるようになったとき、人間の定義あるいは領分は、感情やそれがもたらす計算不能なエラーに求められるようになりました。しかし感情は人間の条件として普遍的でなく、人間の相関項を人工知能から動物におきかえれば、一転して理性の方にこそ人間の定義が求められるようになります。

もちろん、人間の定義はその相関項――神や動物、さらには非「文明人」――の変遷とパラレルであったわけですから、普遍的な人間の定義など望むべくもないわけです。すると人間を巡る語りの混沌は、人間の定義(のようなもの)として語られてきたことがその実、何を人間として承認するかという問題でしかないことを明らかにしているように見えます。それは最近の哲学的潮流のいくつかが「モノ」や「オブジェクト」という言い方で、声なき存在者たち(例えば知性を持ち合わせ、相互にコミュニケーションしていることが判明した粘菌(★1))の、人間顔負けのいきいきとした交流に着目していることとも関係しているように思われます。現代のテクノロジーは、それまで声なき存在だと思い込んでいた事物たちが、じつは事物同士で様々なものや情報を交換し合い、コミュニケーションを取っていることを明らかにしましたし、人間の方もしばしば、事物によってはたらきかけられ動かされる客体になってしまいます。概念としての「人間」には、もはや内実も特権性もないのです。

しかし、何かを人間として認めるかどうかという問いだけは、今でもアクチュアルに機能し続けています。もちろんそれは、人間として認められた対象には権利が発生するからで、いくら粘菌やその他のモノたちが、人間と大差ない知性を持ちアクティブにコミュニケーションしあっているとしても、その権利までを保障してしまっては社会がたちいかなくなるので、それらが人間として承認されることはありません。これは胎児たちを人間として認めてしまえば中絶を殺人として罰さねばならず、望まぬ妊娠をしてしまった「人間」の権利を守りきれずに社会がたちいかなくなるので、彼らを人間として承認しないことと同じことです。

承認されるものとしての人間には、奇妙な二重性があります。その一つ目の側面は、ジョン・トーピーが編纂した本のタイトル『個々のアイデンティティを文書化すること』によって要約されます。トーピーは近代国民国家において、身分証明書や犯罪記録といった身元確認のための文書が、国家によるアイデンティティの収奪装置としても機能していると述べています。一貫した一人の人間であると承認されることは、つまり公的な文書のフォーマットによって記述・記録されることで、お仕着せの在り方にあてはめられることでもあるのです。逆に、公的な文書のフォーマットによって記述されていなければ、人間としての権利が尊重されないという問題もあります。井戸まさえ『無戸籍の日本人』によれば、日本には推定1万人近い無戸籍者がいるそうですが、日本で社会生活を営んでいる彼女ら/彼らの基本的人権と最低限度の文化的生活とは決して保障されていると言うことができず、身元確認のための文書がないために、国民保険も行政サービスも受けることができないというのが現状です。

とはいえ、公的な承認の問題だけで人間について語ることに、どこか据わりの悪さを感じるのも事実です。むしろ、お仕着せの在り方や規範から外れた部分にこそ、人間的なものがあるようにも感じますし、公的な文書だけが問題であるならば、人間とゴマアザラシを区別することも難しくなってしまいます。承認されるものとしての人間の持つ奇妙な二重性とはつまり、均質的なしかたで記述・記録されつつもそこから外れ、自律的であることだと言えるでしょう。公的な文書によってもログの集積によっても代置されない、自律しているものとしての人間という側面は、例えば閲覧履歴をもとにAmazonがおすすめしてくる商品が、まったく欲しくないものであった時に感じる、あの奇妙な安心感によっても裏付けられます。

 

自らを人間でないように思ってしまうことと死にたいという気持ちとが並列され、その源泉として、他の人間であればできるはずのことができないという劣等感が挙げられるかなめさんの手紙の理路は、人間の問題を承認の問題からナイーブな定義問題に後退させているように思えます。言い換えれば、より人間らしくあるとはより理性的であることだという定義が、より理性的ではない人々を人間とはみなさずに「文明化」するための建前となっていた時代、つまり理性というルールに則った競争の勝者のみが人間であった時代と、そう変わらないように見えてしまうのです。しかし人間として承認されるとは、公的に記述(均質化)されつつも、どのような記録によっても代置されないような自律性を認められるということではないでしょうか。部屋が片付けられるかどうかという問題も、そこに劣等感が入り込む限り、均質化されたルール(定義)に基づいた競争です。果してその勝者(より定義に当てはまる者)のみが人間なのでしょうか。

だから問題は、かなめさんが自らを代置不可能で自律したものとして認められないのと同程度に、他者を人間として認めていないことにあります。「しにたい」という言葉を留保するために奇妙に引き延ばされた「しー…」は、明らかに別の要請としても機能しています。すなわち、かなめさんよりも下位に居る、さらなる敗者たちに沈黙を強制するための要請として。勝敗をかく乱してしまう彼らは、定義問題として人間ではないのだから、沈黙させられ一顧だにされません。あるいは、かなめさんのものとは全く違うシステム・思考を持った他者とのコミュニケーションの失敗を、自らの「認知」の問題にすり替え、他者の自律性を沈黙させる要請としても考えられるかもしれません。

もちろん二十世紀の後半に問題となったことの一つに、沈黙すら表現である、というものもありますが、しかし表現としての沈黙はその前提として、沈黙する主体の中に言語(均質化された空間)とは違った、自律した体系を想定しています。対してかなめさんの要請する沈黙は「異議無きは同意とみなす」式の、他者を均質化するための沈黙だと言えるでしょう。

劣等感が「しにたさ」と「自らを人間として感じられないこと」とを短絡させてしまう、かなめさんの理路に対して抱いた違和感・感想は以上のようなものです。

 

★1 「「粘菌の知性」を解明:記憶や予測も可能なネットワーク」 http://wired.jp/2010/02/16/%e3%80%8c%e7%b2%98%e8%8f%8c%e3%81%ae%e7%9f%a5%e6%80%a7%e3%80%8d%e3%82%92%e8%a7%a3%e6%98%8e%ef%bc%9a%e8%a8%98%e6%86%b6%e3%82%84%e4%ba%88%e6%b8%ac%e3%82%82%e5%8f%af%e8%83%bd%e3%81%aa%e3%83%8d%e3%83%83/ (最終閲覧日時2017/02/27 16:45)

 

 

 

三通目 遠野よあけ

 

かなめさんからの問題の提示と、それに対する野村さんの疑義を受けて、これから三通目の手紙を書きたいと思います。

一通目のかなめさんの手紙にもある通り、この往復書簡は、私たちが参加している読書会の席で、なんとはなしに話にあがったアイデアでした。その時点では最終的にどういったものになるのか皆目わかりませんでしたが、こうして実際に形になると、これは思っていた以上に面白い試みであるように思います。

かなめさんが書いている、ふとした時に自分自身が人間ではないように感じてしまう不安については私も感じたことがあります。とはいえ、野村さんが「よくわかります」と強い共感を示した上で、それについての自己のエピソードを割愛したのと同じように、私もまた自分語りを始めるべきではないでしょう。この往復書簡は三者三様のエッセイではないのですから。

そしてまた、野村さんが提示した問題(他社とのコミュニケーションの問題(承認の問題)を、認知能力の不足の問題(定義の問題)へとすりかえていること)に対して、私が回答を行うことも慎むべきでしょう。野村さんの指摘は、一般的な問題であると同時に、やはりかなめさんという書き手に内在化された問題であると思うからです。

では、私がこの三通目の手紙で書くべきことはなんでしょうか。

それはやはり、ここまでかなめさんと野村さんが作ってくれた連続性を意識するべきなのでしょう。つまり、二人が書いてくれたように、私も自分自身の「違和感」から出発して、この手紙を書き始めることにしようと思います。

 

私がかなめさんの手紙を読んで感じたことは、語りの不思議さでした。というのも、かなめさんからの手紙は、その半分以上が「言い訳」で占められています。そのことは、手紙の中で何度となく強調され、再確認されます。私の関心が最初に向かったのは、内容よりも、そのような語りの形式です。

私はここでなにも、上記の文章上の特徴から、かなめさんという筆者の考えや無意識を探り出そうと考えているわけではありません。そうではなく、私がこの手紙で書こうとしていることは、私の感じた違和感を探ることです。

つまりそれは、この文章にはなぜ長い言い訳が存在するのか、という問いです。

かなめさんの一通目に対して書かれた野村さんの二通目は、人間についての哲学的普遍的思索でした。野村さんの手紙を面白く読ませていただきながら、私が考えていたことは、二通目の手紙は一通目の手紙があってこそ書かれたのだという当たり前の事実です。

言い訳とは普通、ネガティブで非生産的なものです。ですが、その手紙があったからこそ、野村さんの二通目の手紙は書かれている。かなめさんの一見するとネガティブな語りの手紙は、しかし実に生産的な力を持っていたように思えます。

言い訳という言葉以外にもネガティブな言葉は頻出していますが、それらを精読してみても、何か手がかりのようなものは見つかりませんでした。考える起点となったのは、冒頭部の文章でした。

 

「で、最終課題の提出者であるワタクシから、僕が抱える問題を往復書簡の議題として提案させていただきたく、本件について説明させていただきます」

 

ここでは書き手を指す主語が分裂しています。「ワタクシ」と「僕」という自己像の分裂は、一通目の手紙を書き始めるために行われています(手紙全体が、「僕が抱える問題」を、「ワタクシ」が説明するという構造になっている)。

続いて、もう一度同様の分裂が書かれます。

 

「皆さんに対して僕ならぬワタクシめは本当に失礼なことを何度もしてしまったり、非常に怠惰であったり、全くもって無能力である、と自分で自分を考えるわけです」

 

今度は「自分で自分を考える」ために、かなめさんは自己像を「僕」と「ワタクシ」に分裂させているように見えます。そしてこの直後に、野村さんの手紙で触れられることとなる「認知の問題」の話が始まることは重要なポイントだと思います。

 

そしてまた、例の長い言い訳(さらに言えばその後に続く「最低のお話」と「人のせいいにしておりますね」とまとめられる「ワタクシ個人」の事例のくだり)の直前にも、よく似た表現が現れます。部屋の写真です。

「これが僕の部屋の一部です」と提示される写真は、かなめさんのパーソナリティーの一端として扱われており、前述の自己像の分裂と同質の表現となっています。そして、私が最初に関心を向けた長い言い訳は、この写真の提示=自己像の分裂から始まっています。

ここで、私の問いは少し形を変えました。何かを語り始める際に、なぜこのような分裂が起きるのでしょうか、と。その分裂はどのような働きを持っているのでしょうか。

 

このことを考えながら、私は杉田俊介『長渕剛論』(2016年)を思い出しました。この本のなかで、富士山麓で行われた長渕剛のオールナイトライブに著者自身が参加した際の描写があります。奇妙なことに、その描写では筆者の主語が、ライブの高揚とともに「僕」から「俺」へと変化していきます。その変化はさりげなく描写されるのですが、読んでいるとまるで「僕」としての著者の身体から、「俺」という別の人格が実体をもって飛び出してくるような異様な迫力を感じさせるのです。

ひとつの文章の中で主語が変化するというテキスト自体は、それほど珍しいものではないでしょう。それでもなお、かなめさんの手紙から私が連想したものが『長渕剛論』だったことには、何か意味があるのかと自問してみました。そして、二つのテキストに共通することは、主語が変わることだけではないことに気づきました。二つのテキストは、「失語的困難」についての文章だったのです。

『長渕剛論』は、アーティスト長渕剛が対峙した幾度もの逆境や困難を、著者がドキュメンタリーのような筆致で語った本です。そこには、長渕にとっての歌うことの困難さ=失語的困難が存在しています(また、『長渕剛論』の半年後に刊行された『非モテの品格』(2016年)では、書き手である杉田自身の失語的困難が主題となっています)。

かなめさんの手紙に書かれている、「しにたい」と発声できずに「しー…」と口にしてしまう状況もまた、ある種の失語的困難なのではないでしょうか。この部分については、野村さんからは厳しい言及がありましたが、それは同時に、かなめさんの手紙において、この「しー…」を発声する挿話は、手紙全体の根幹をなすものであることを示唆しているようにも思えます。

 

また、平野啓一郎が『ドーン』(2009年)で提示した「分人主義」という考え方も、手紙を読んで頭に浮かんだものの一つです。「分人主義」とは、人間を個人という単位で考えるのではなく、個人の中にある複数の人格=分人という単位で考える、という概念です。これについて、例えば佐々木敦は、堀江敏幸の「ホログラフィーとしての「私」」(2007年)を引きながら、次のように書いています。

 

「(堀江は)「「ひとりの私」のなかには、複数の私が生きている」というのは「日常に即した「あたりまえの身体感覚」であり「「あたりまえ」に生きている人間ならだれにでも生起している事態なのだ」と述べている。

これこそまさしく「分人主義」であり、それ以前に、ごく普通に生きていれば誰もが首肯する「あたりまえ」の感覚と言っていい」(★1)

 

「分人主義」という言葉を聞いたことがない人でも、「自分の中に複数の自分がいる感覚」というのは、なじみのあるものではないかと思います。複数の自分が発生する=分人化は、「相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されていく」(★2)こととされています。家庭での自分、職場での自分、友人の前での自分。人は相手によって人格=分人を調整し、コミュニケーションを円滑にします。

しかし、『長渕剛論』やかなめさんの手紙では、主語の複数化(分人化)は、「反復的なコミュニケーション」よりも、失語と関係していることこそが重要に思えます。

『長渕剛論』は、長渕剛の失語的困難を著者である杉田がいかに言葉にするかという点が、主題の一つとなっています。その過程で、杉田は「僕」と「俺」に分裂(分人化)しているのです。

かなめさんの文章もまた、自身の失語的困難を「僕」と「ワタクシ」の分人化を通して語ることで状況を前進させようとしているように思います。その試みが内在化された文章であるからこそ、野村さんの手紙のような文章が書かれる契機にもなり得るのではないでしょうか。

 

最後に、平野啓一郎とは少し異なる分人主義に触れてこの手紙の結びにしたいと思います。

『ドーン』の「分人主義」が現在のコミュニケーションの問題を丁寧に可視化したものだとすれば、他方の、鈴木健『なめらかな社会とその敵 PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』(2013年)で書かれている「分人民主主義」は、もう少し広いスケールで「失語的困難を伴うコミュニケーション一般」について考えるための概念と言えます。(★3)

 

鈴木健は近代民主主義の効力の低下とともに、近代民主主義の前提となっている個人という仮構もまた外れかかっている状況に対して、これからは個人をさらに分割した分人という単位で社会を考えるべきではないか、という提案を本書で行います。(★4)

興味深いと感じるのは、終章「生態系としての社会へ」で書かれている、次のような文章です。

 

「人類以外の生物も含めて、資源の貨幣的交換や集合的意思決定を行うことはできないのだろうか」

 

イルカに国連の議席を与えるかどうかという問題を「決して笑い飛ばすような論点ではない」と書く著者の問題意識はとても広く、社会的な人の在り方(個人か分人か)を考えること、人類社会を考えること、人類以外を含めた生態系を考えることがゆるやかに繋がっています。

ここでは「分人民主主義」という概念は、非常に広い意味での失語的困難へ対応するための方策として導入されています。その政策的な理路と実現案は、直接的にかなめさんの手紙へと直結しているわけではありません。けれど、両者の理路の出発点(分人化)の近さには意味があるように思えてなりません。

 

野村さんの手紙にある通り、「しー…」という発声が示す失語的困難は、かなめさん以外の他者にも沈黙(失語的困難)を強いる可能性をはらんでいるでしょう。ですが同時に、そこには失語的困難に向き合うための手がかりもまたあるように感じられます。

最後の手紙にて、かなめさんからこの難問への回答がいただけるのを楽しみに待ちながら、筆を置くこととします。

 

★1 『群像』2016年9月号(講談社)「新・私小説論」第八回「反(半?)・私小説作家たち(承前)」

★2 『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社新書 2013年)平野啓一郎

★3 平野と鈴木の「分人」については、自身の造語として小説に導入した平野と、ドゥルーズ「管理社会について」(1990年)で書かれた「分人」を自著に導入した鈴木といったように、その前提がやや異なるのですが、ここでは「個人をさらに分割した単位としての分人」という共通点に着目し、その差異には踏み込みません。

★4 例えばそれは、一人一票が前提の現在の選挙システムに代わる方法として、一人の一票を分割して投票結果を算出する伝播委任投票システムという形で表現されます。

 

四通目 かなめ

御手紙、ありがとうございました。お二人の御手紙を読んでいて、おそらく分かっていないことや読めていない文章が何点もあって、自分はつくづく物を知らないなと再度考えた次第です。時間と文字数の許す限り、自分なりに検討していきたいと思います。

野村さんの文章によって、僕が自分で自分を殺したいと衝動にかられる激発の裏の、他者を人間として認めていない私が暴かれました。どうやら僕は僕よりも劣った、みすぼらしい、憎むべき何かを人間として扱いたくない、と考えていたのですね。怖く、おぞましいです。が、その存在を否定してはなりません。他者から見た私がそうである以上、それもまた一つの私のピースとしてカウントしなければなりません。

村瀬学は『恐怖とは何か』という本の中で、日本の産業発展下、人の恥ずかしさが行き過ぎ、なぜ「対人恐怖」として、すなわち病的なまでの一種の「症状」として現れ出始めたのかについて考察しているのですが、その中で、次のように、その産業発展した日本固有の倫理について論じています(村瀬, pp.69-77)。ここでの議論において、「人並み」というキーワードが出てきたのですが、この「人並み」という考えは、私の考えている人間という考えを深める契機になると考えました。以下、その村瀬(pp.69-77)の議論を追い、さらに人間について考えてみます。

村瀬は本書の中で、書名にもありますように恐怖について考察しています。引用する章ではその恐怖の中でも対人恐怖に焦点を当て、なぜ対人恐怖が現代日本において起こるのか、その原因を突き詰めてゆきます。

現代日本において対人恐怖はどこから始まるのか。その疑問を探るべく、著者は著者自身の実感から話を始めます。すなわち、いつ、どこで対人恐怖の芽が日本で生まれるのか、という疑問に、始めに答えて曰く、学校に入る時から始まるのだといいます。学校とは小学校のことでしょう。日本社会では小学校入学によって、周りの人間と同じことがきちんとできなければならないように思わされます。「人並み」という倫理が、暗示的にではありますが、強く要求されます。人がしていないことはしてはならないし、人ができることはできなければなりません。ある場におけるルールから逸脱した「失敗」や「ヘマ」は周りの人間によく思われません。「失敗」や「ヘマ」をすることでそれをした人はひどく目立つことが、ひいては自分の不利益が予想されるため、そうならないように、まるで怯えるように、慎重かつ事細かに事を進める慣習が根付きました。

著者曰く、こうした「失敗」や「ヘマ」を極度に忌避する慣習は日本の高度経済成長以後に根付いたものだといいます。「人並み」は当たり前であり、そのスタートラインから競争を始めるといったルールに基づく人の営みは、高度経済成長以後の都市民たちが作り出した規範だと著者は主張します。しかも、その慣習の原点は、都市における生活ではなく、職業倫理にもとづくものだといいます。

「失敗」や「ヘマ」を許さない現代日本の倫理は、高度経済成長以後の職業倫理に依拠している。とはいえ、そうした「人並み」であること、「失敗」、「ヘマ」をしないといった職業倫理を持つ人全員が対人恐怖になるわけではありません。対人恐怖は職業倫理だけでは成立し得ないのです。ではもう一つのピースは何か。それはその人の所属する家族にあります。すなわち、対人恐怖を訴える人が所属する家族の中で取り沙汰される、「帳尻や精算や売上げへの『勘定』がたえず働いているというような物の見方」(ibid. pp.74,75)です。おそらくそうした考え方を取る親は、かつて自分が世間で苦労したため、子育てにおいても無意識的にそうした考え方を使っているのだと著者は推測しています。

そのような親の帳尻合わせ的思考回路に基づく教育は、「失敗」や「ヘマ」=悪、ただただ「ちゃんとやる」ということが求められる、という二分法によって子供が思考し始める結果となります。親は「学校の成績や日頃の行動を『勘定』」(ibid. p.75)することで子供をまさに把握するのです。そこには対話や、世間話すらありません。最終的に子供は「何か言いたいことがあっても、言うのを先にあきらめてしまうような態度が身についてしま」います(ibid. p.75)。現代日本の都市民たちは、親であれ子であれ、「その生い立ちの中で『失敗する』ことを肯定してゆけるものの見方、考え方を処世として教わってこなかった」(ibid. p.76)と結論づけます。

著者は上記の引用部分で複数回に渡って注意喚起していますが、こうした倫理に関する問題の発生は家族内の愛情の有無に依るものではありません。愛情の問題ではなく、精神的な運動の不足にあると著者は言います。ある状況からある状況へと高速で移り変わらざるをえない現代において、精神もまた同様にAからBへ、またCへと同様に高速に移り変わることを半ば強要されます。対人恐怖に陥る人びとはそうした精神の変形を強要されるものの、それまでに運動してこなかったため、ついて行くことができずに恐怖で怯えきって立ちすくんでしまうのだというのです。

以上、村瀬の引用によって状況はより鮮明になってきました。現代日本において「人並み」という考えは強く根付いており、それは職業倫理や家庭内での帳尻合わせ的思考によって強化され、挙句の果てに親子ともども対人恐怖症へと陥ってしまう可能性がある、ということです。ですが、村瀬の議論を引用することによってどこか、再度やはり言い訳をしている気もします。つまり、自分は都市化や産業化の被害者であり、それらに押しつぶされることによって精神を怠惰に貶めさせられた弱き人間だと、引用によって言い訳しているように思えます。どうすれば言い訳せずに済むのか、結局、「表現」しないことでしか、自分に対する言い訳を避けることはできないように思えます。引用ですら「表現」になってしまっています。「表現」とはすなわち自分の言いたいことを言ってしまっている、ということです。

しかし、それは、それはやはり仕方のないこととは言い切れないでしょうか。キーボードを打ち込んでいるのは紛れもなく、この、例の、「かなめ」という人間です。上記において「この部分を引用しよう」と決めてしまったのも、同様に「かなめ」という人間です。人間という概念がある程度共有されていなければ往復書簡という営みさえありえないでしょう。とはいえその場合には別の営みが行われるのでしょうが。そしてそれならそれでいいのです。つまり私が人間について考えなければならないと考えるのは、果たして本当に皆さんと共に何かを為すことが出来るのかという疑いを拭い去ることができないからです。そして何かを成し遂げられない理由として、第一に挙げることの理由が私にあるのではないかという疑いを拭い去ることができないからです。私のせいで共同性が無くなるのであれば、皆さんが捉える世界を崩してしまうのであれば、私は世界から取り除かれるべきだ、という考えを拭い去ることができないからです。平たく言ってしまえば僕は皆さんの邪魔をしているようにしか思えないのでどこか別のところへ行ってみたい、と思ってしまうことがよくある、ということです。

世界から取り除かれるべきだと言いながら、世界から逃れようとしている僕は、やはり上記の村瀬の引用どおり、私もまた職業倫理や家庭内での帳尻合わせ的思考を行ってしまっていました。つまり、共同体において不利益となるような行為をしてしまうならば、「失敗」や「ヘマ」しかし得ないのであれば、共同体の外へ出たほうがいいはずだという強迫観念に縛られていました。しかし、これはやはり強迫観念に過ぎないと思われます。なぜならば誰からも強制的な共同体からの退場を申し渡されない、早い話が逮捕されたり拘束されたりしない、まさにこのことが、共同体の外へ自分から出てゆく必要は今のところ殆どなさそうである、ということを示しているように思われます。私は今現在共同体の中にいますし、これから先もどうやら未だに共同体の中にいることが許されそうです。私は許可されているようです。

許可されていることが確認できたところで論を先に進めようと思います。どうやら私は許可されています。が、今後許可が取り消しになる可能性も十分にあります。つまり、私が逮捕、拘束されうるような禁止行為を共同体内で行った場合、許可は取り消しになります。私はその可能性を捨てきれません。なんらかの事情があって、それをしてしまう可能性はありえます。いや、事情など無くとも、精神的な不安定さは理性を狂わせ、私ではない人格の表出によって私の意図せぬ違反行為がなされる、ということだって考えられます。少なくとも、無くはない。私は意識的にか、無意識的にか、いずれにせよ共同体に所属する権利を剥奪されうる。

あるいはこうです。共同体の中には誰も居ないのかもしれません。本当にゾッとすることですが、許可された共同体の中には誰も居ないのかもしれません。私が共同体から他者を排除している可能性があります。確かに私の元へ物は届けられます。ですが私は私の元へ物を届ける他者が存在することを認められない。あるいは無責任に他者や対象を取り扱ってしまいます。その理由は、私にとって他者や対象は強者のように映り、自己が他者や対象と比較して弱者であるとして捉えているからです。どう扱っても相手はどうせ自分より強く、勝手に他者や対象は自己修復するだろうという傲慢な考えがあります。私は話の分からぬ傲慢な人間であります。

しかし、だからといって自暴自棄になってはなりません。物が外から届けられている以上、物の供給を自分から止めてもらっても仕方がないし、あるいは居場所が分かっている以上、住所を突き止められて逮捕、拘束となる可能性もありえます。逮捕や拘束へのリスクになっているのは主に二点であると考えられます。①話が分からないという点、と、②傲慢な人間性、の二点です。

①の話が分からないという点は遠野さんの指摘している失語の問題に絡んでいます。②の傲慢な人間性の問題は、野村さんの指摘する、他者とのコミュニケーションの問題と絡んでいます。ですが、この二つの問題は、本当は一つの問題なのではないか、あるいはそれぞれが相互に連関することによって成立している問題なのではないか、とも考えます。もう既にお気づきの方もいらっしゃるでしょうし、こんなことを強調して言い切ることもあまりに格好の悪いことではありますが、つまり、傲慢だから話が分からず、話が分からないから他者からは傲慢に見えてしまう、その悪循環が更に私を傲慢にさせ、話が飛び飛びに、説明が不足してゆく、というように問題が推移していると思われます。ですが、やはりここは二つの問題を別々に処理してみようと思います。これはそれぞれを一つずつ扱ってさえも分かりにくくなるであろう話をなるべく分かりやすくする処理だとお考えください。

とはいえ、②の傲慢な人間性についてはもうすでに話題に上がっていると考えています。つまり、自分が弱者であり、対象が強者であるという前提が私の中にあって、それが原因で傲慢な態度に出てしまってもよい、と私が考えがちであるという問題です。もし傲慢である私を直すのであれば、この考え方はひっくり返されなければなりません。では、この考え方をどのようにひっくり返せばよいのでしょうか。

一つ考えられるのは、「私は実際には強者である」と思い込んでみる、ということでしょう。ひっくり返すのであれば、逆のことを考えてみることは一つの手段として挙げられることでしょう。ですが、これはどうも受け付けられません。つまり、ではなぜ自分が弱者で、対象が強者であるという前提から傲慢な態度に出ることができたのか、ということを考えなければならないからです。そこには、「自分は弱いからこそ、もはや死ぬか強く振る舞うかのいずれかしか選択肢は存在しないのだ」と自暴自棄にも思い込んでいる節があるはずです。もう既に「自分は強者である」という思い込みを、半ばねじれてはおりますが、達成してしまっているのです。ねじれをねじれで解消しようとしても無理が立ちそうです。少なくとも論理や言葉によって皆さんにお伝えできる自信が私にはありません。

 

話が行き詰まったので野村さんの手紙の内容に戻ってみようと思います。野村さんは僕の初めの手紙の内容について「人間の問題を承認の問題からナイーブな定義問題に後退させている」とおっしゃっていました。人が強い、あるいは弱いという現実、実情がそのまま記号的に定義や思念となり(「対象は強く、私は弱い」)、弱いのであるならばもはや自暴自棄に強さを誇示するしかない、という実践へと移っていったわけです。これからはどれだけ「人間の問題を承認の問題」へと移行することが出来るか、が私の勝負となります。

とはいえ定義問題が終わらなければ承認問題は始まらない気もします。承認とは相手がいるということやその価値を認めることですが、相手がどうであるのかということを定義しなければ相手がいることを認めることには繋がりそうにありません。つまり承認問題へと発展させるためには、定義問題を次のように修正させる必要があります。「これこれこういう人間が人間であり、この人間像にあてはまらないからXさんは人間ではない」としてしまう(これを「定義問題A」と名付けましょう)のではなく、「Xさんはこれこれこういう人間であり、Yさんはこれこれこういう人間である」(こちらを「定義問題B」としましょう)という思考へと、承認問題へ移行させるならば、変更しなければならないということになると思います。

しかし、定義問題Bも定義問題の問題性を逃れてはいません。定義問題の問題性とは人間のあり方が予め措定されていることです。そして一人ひとりの生物はその「人間」という定義から漏れ出る性質を備えており、今現在人間とされているどの人間も人間ではなくなってしまいます。どれだけ「Xさんは…、Yさんは…、Zさんは…」と無限にやっていってはキリがありません。これは定義問題の問題構築に問題があったといえます。人間という言葉はあくまでも便宜的に、そういうことによって話がよりスムーズに進行するために使われているに過ぎません。厳密な人間定義の構築は、それがなされていない以上、少なくとも今現在は誰も望んではいないのだと思います。

そして「Xさんは…、Yさんは…」の定義問題Bを支えるのが承認問題によるコミュニケーションです。コミュニケーションがあるからそれぞれの個性が見え(承認問題の解決)、定義問題Bは収束へと向かいます。ここで問題なのは、承認問題の解決において、いかにして個性を把握するかということになります。しかし、困ったことにこの個性の把握は、私の側においても存在する個性と他者の側にも存在する個性の衝突によってそれぞれ把握されるため、三人以上が関係しあうとそれぞれ、別々に個性が把握され、定義問題Bの定義は理論的に、それぞれで整合性が合わないことになります。もちろん全く定義が全く異なっていてはコミュニケーションが図れているとは言えないので、個性の衝突の際に定義のすり合わせは行われるのですが、他者が他者であるように、定義が完全に等しくなることは有りえません。大切なのは定義が一致することではなく、定義を定義として思念するということです。自分で自分なりに「この人はこういう人だ」ということを予め思念しておくことで、他者の反応を概観できるようになります。

しかし、果たして予めの思念など、そこまで役に立つものなのでしょうか。個性とは絶対に私からは触れられない、他者の性質のことです。であるならば、私には想像もつかない部分が個性であるはずです。予測もつかないから個性のはずです。型破りだからこそ個性なはずです。行き過ぎているから個性のはずです。

コミュニケーションは本当に予測不可能です。そして大体のコミュニケーションには齟齬があります。意味の取り違いは常時です。正確な伝達などない、ということからなぜ離れられないのか。全く無伝達の状態か、誤った伝達が存在するかのいずれかが行われるということ。そして、他者がどう判断しているか、誤った情報を信じているのかどうかは実はどうでもいいことであります。他者の判断の結果が見え、その他者の誤りをどう修正してゆくのかも私の責任ですが。そしてその責任はかなり扱いづらいです。一体どの場面の、他者におけるどの言葉が後々になって何に影響をあたえるのか、他者なので見当もつきません。

でも、それでも、やっぱり自暴自棄になってはなりません。どういう方向へ進んでいこうが、それでも責任を持つ。相手に影響を与えてしまって、その影響がどこに出てくるのかも分からないけれど、それでも責任を持つ。

まさにここに訪れるのは失語です。どんな確率でリスクを負っているのかも分からず、そのリスクがどのように顕在化するのかもわからないまま、責任を負い続け、黙って黙ってリスクを負い続ける。誰とも会話できないのはリスクを負いすぎて、次にリスクを負った瞬間に爆弾が爆発してしまうかもしれないからです。黙って静かに時が過ぎ、自分が溶けて腐ってなくなってゆくのを待ち続けるしかない。

つまり、こういうことです。定義問題Bを解決しておくこと、すなわち出会う人の個性を説明していくとして、それが失語の解決にはつながっていないということです。また、くりかえすようですが、定義問題Bを完璧にこなし、すべての人の個性を綺麗に暗唱することも困難です。定義問題Bをある程度こなしておけば、初対面からある期間までの当たり障りのない人間関係においてはそれなりに有効だと考えますが、それ以降に関しては個別の関係における判断に迫られるといえます。

ここで再度自分を省みてみました。おそらく自分は定義問題Bに真面目に取り組んでいません。強者、弱者の論理で人を捉えており、「Xさんは強い、Yさんは弱い…」というおぞましい単線的思考によって人をランク付けしていたように思います。ランク付けされた人間関係において、強者は弱者に対して言葉を投げかけることができますが、弱者は強者に対して言葉を述べることはできません。自分が弱者であることを自認し、すべての他者を強者としていたため、承認問題へと導入できず、さらに失語に陥ったように思います。

失語であるとはつまり、何かを創造することができないという意味です。創造力を押さえ込むことで機械的な作業を優先させてきました。それは別段、勉強だけではなく、趣味や時間つぶしまで含めて、自分の好奇心から行動するというよりも人が良いと言ったものに飛びついてみるという堕落した精神による行動でした。そして自分がどう考えているかについて全くの無頓着で、自分の中で言葉を紡ぐという作業が明らかに足りませんでした。それでいて他者が何をどう考えているかについても考えが及ぶことはありませんでした。

もうここまで来るとごく自然に他者に興味を持つことはできないような気がしてきました。ここでも必要なのは機械的な作業です。例えば毎日可能な限り、一回は他者に話しかけてみるといった作業をこなすことを自分に課す、といったことです。強制的に自分を、他者に対して興味を持たざるをえない状況へ一回でも多く持ち込む必要があります。少なくとも人とあっている時にその人に興味を持つような自分の言葉を紡げるようにならなければなりません。他者に興味を持つためには自分の中で言葉をきちんと紡げるようにならなければなりません。

ではなぜ他者と対峙しなければならないのでしょうか。一つとしては、他者と対峙することはごく自然な行為だと言えます。世界には自己以外に他者しかいません。没交渉はありえません。もう一つの理由としては、他者と対峙できないと、自己の存在もろとも消え去ってしまうから、対峙しなければならない、という点があります。他者と言葉を交わす関係があったとします。例えば挨拶などです。ですが、挨拶だけでは対峙できていません。そのために自分が傲慢にもちょっとした失敗をしたときに、その失敗を打ち消そうとして他者、そして他者に関係する全ての人の記憶を消さんとし、希死念慮が自分の中に生まれでてきたのです。

最後に以上の話をまとめてこの文章を終えたいと思います。この一連の書簡は僕の生きづらさからはじまり、それに対して野村さんが他者とのコミュニケーションの欠如を、遠野さんが失語的症状を指摘しました。まず一点として、僕の生きづらさを解決するためには、他者とのコミュニケーション・トレーニング(CT)が急務であるということです。他者と対峙できないということは、自己の不要感や希死念慮へとつながっていきます。第二点として、定義問題B、すなわち他者の個性の把握を幾つかこなしておく、他者の立場を考えてみることで、他者とのCTを少しでもスムーズに行うことです。第三点は、以上のように、とにかく自分の考えを書いてみて、自分の考えをいくつもはっきりさせることが自分の精神を安定させるのにもつながります。し、他者から見てそれが格好悪くとも、少なくとも要領よくすることが、少しでも分かりやすく他者に提示することが、破片であっても他者に分かってもらうためには、一にも二にも大切であるということです。

ここまで全部自分の事を書いてきましたが、半ば本当にこんなことを自分で考えたのか、とか、死にたいという感情を抱いた自分がよくわからない、本当に自分だったのかと思うような考えも浮かんできました。反対の考えがちらつき、混乱をきたしながらも、それでも書き上げたこの文章から、反転批評を宣言いたします。二転三転あった自分の最終課題ですが、皆様のお陰でこのように形となったことをお礼申し上げます。

お二人の協力に感謝しつつ、文章を締めさせていただきます。ありがとうございました。

 

参考文献

村瀬学(1992)『恐怖とは何か』JICC出版局

文字数:21259

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