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言ってる批評宣言

1.誰と戦っているのだろうか

敵はどこからやってくるのだろうか。戦いはどこから始まるのだろうか。その始まりはいつからなのだろうか。気がついたら戦いを余儀なくされてしまったし、戦いに有効な手立ては未だ見つけられていない。

冷静に。冷静に。勝ち目のある。あるいはもはや勝つしか無い戦いをせよ。勝てない戦いなど戦いではない。戦いではない戦いをして楽しいならば、つまり遊びであるならば、それはそれだが、人生の殆どが遊びじゃない。なんでこんなに戦いばかりなのだ。

文字通り、無数の、不確定で総数未確認の超能力者との戦いを強いられるサイボーグたち。次々にいたるところから超能力者が戦いを挑んでくる。勝ち目は、どこだ。

アトムから始まったサイボーグに対する我々の構想は一体今、どこにあるのだろうか。ビッグデータ。IoT。サイボーグの思想は入っているのか。人工知能だってその疑念から逃れる事はできない。利用されるのは簡単な機械的作業の機械化であり、ロボットで株を売買するという触れ込みだ。戦士でもなんでもない。金をたぶらかして遊んでいるだけにすぎない。むしろ機械と人間の分離である。作業は機械へ。創造は人間へ。分業から見えるのはどんな未来だ。創造できない人間は死ぬかサイボーグになるかの二択である。

サイボーグであることを恐れるな。お前はもはや人間ではない。改造されたのだ。もはや指を切っても血など出ない。血が出ないことの確認をもって少々の悲しみを感じてもなお前を向いて戦え。足を切っても戦え。その先が見えるならば足を着ることに躊躇するな。

人と機械の間に生きることを忘れるな。酸素が無いと死んでしまう機械の体など要らぬなどと嘆くな。その間に、狭間に生きることを誇りに思え。どちらのことも解するのだと胸を張れ。

 

2.好色と「君」

不確定要素としての好色。不確定な人物が周りにいることがなぜこんなにも気になってしまうのか。

好きな人というのはどういう人なのだろう。

好きな人と共にいるということはどういうことなのだろうか。

多分とてつもなく大変なことだ。なぜならば好きな人と共にいることで満たされる私と、好きな人と共にいてもなお満たされない私の二人が出来上がるだろうから。

それらは後者の方に単純な問題があるとは必ずしも言えない。むしろ問題は前者と後者を両方、しかも必然的に引き受けなければならないところにある。

あるいはむしろこんなことを考えてもいないのだろうか。好きであるということはどういうことなのかということを少しでも考えもせず、人は人と共にいるのだろうか。ただいなければならないと自分を律するだけで、好きなのか嫌いなのかさっぱりわからない「好きな人」と共にいるのだろうか。

歌に「君」という詩が入っていることが多い、と感じ始めたのは一体いつからだったろうか。「君」は連れ出されたいのか。「君」を言及することで連れ出したいのか。「君」とのことで頭がいっぱいになるとは、しかしそれでも別れなければならないのか。死、が頭をよぎる。死、について取り上げなければならないのか。死、を取り上げるのももう遅いのか。「君」との関係と、死、どちらの足が早いのか。

「君」との関係を続けるためには我慢が必要だ。我慢しなければ、愛が生まれないといったらしいのは『愛するということ』という本に書かれているらしいけれど、雑然と床に投げ出された本の中から探し出すことが出来なかったので引用するのは辞めておく。が、しかし、もし愛するということが我慢の連続から生まれるのであるならば、この歌は我慢が出来なかった歌だ。時の流れからどうしても逃れられず、時間が取れないと言い訳が相手から飛び出てきて、かつての失敗とか、あれがまずかったか!とかいろいろ考え始めて、結論「俺は人間じゃない!」とか突拍子もないことを考え始めて、はたから見れば何じゃそりゃみたいになってる、つまり自分の至らなさにすら時間をかけて噛みしめることが出来なくなってる俺らを歌ってるんじゃないか、と。

 

3.非人の生活

人ではない人がいる。人でなしのひとがいる。世の中は広く、どれだけ自分を貶めてみても、「下には下がいる」、という差別的意識を掻き立てさせる作品の金子光晴『人非人伝』。近年では自己卑下が流行りのようであり、非人のハードルが下がっている。つまりひどく自己卑下してしまう人々が増えてしまっている。ここで、かつて非人と呼ばれた人はどのような人を指すのかをまず確認しておきたい。

と、書いてはみたものの、『人非人伝』には非人の定義が書かれていない。とにかく非人とは、ただこれだけのことをしても非人ではないということが書かれている。非人にはなかなかなれないようだ。ただ盗みを繰り返したり、姦通したりすることが非人であることに繋がるわけでは必ずしもない。単に「~犯すべからず」的行為をしても非人であるとは言えない。非人の定義が難しいがために、著者は著者自身の話を続けており、さらに新たな時代の非人の可能性についても示唆している。

『人非人伝』では著者自身の生い立ちを追ってゆくことで非人の有様について取り扱う著作なのだが、上記も触れたように読者自身が書かれている内容を読者自身は経験していない=読者である私は非人ではないという事実確認を強制される。これは差別を助長しているとも考えられる。レッテル貼りをごく自然に、強い意識を通さぬままになされる差別。「いやー、『人非人伝』っていう本読んでるんだけど、俺、人でなしでもなんでもなかったわー、ホッとした~」←まさにこれが差別とは言えないのか。

『人非人伝』を書いてしまっても問題なかったのか。差別を助長するという批判は無かったのか。いや、多分あったっしょ。でもね。これって結局自伝なわけ。別に『人非人伝』とか言ってるけど、多分これって自分を卑下して言ってるだけで、これっぽっちも非人について考えている本じゃないわけ。あるいは著者は本当は自身を非人だとも思ってないんじゃないかと思う。

でね、上記にもあるような「下には下がいる」と「それを差別という」が同時に襲ってくる構造って、その下に書いた著者の自己卑下の構造から来てるんじゃないかな。つまりさ、著者自身が自身を下に下に、卑下して書くわけじゃないですか。それが著者自身にも自分の差別的意識として跳ね返ってくる。自分で自分を差別してる。現実に「非人」と呼ばれている人を引き合いに出すのではなく、ある意味安全策として、しかし忠実に自身の差別的意識を見つめんがために、あるいは「非人」という言葉を批判するために、『人非人伝』を著したんじゃないかな。

だってこの人海外に留学してるんだよ?どうしてそんな人が非人と呼べようか(どんなに人間的ステップを踏んで留学しなきゃならないのかということを想像していただきたい)。いや非人と呼びたいというならそれでも結構、たしかに盗みもしたそうだし、悪人非人と呼べそうな部分はいくらでもある。部分的に人(自身を含む)の有様をみて、「あーこいつ(おれ)って非人だわ」とか簡単に判断してしまう人に対して批判的な態度を取る著作だと思う。

もちろんどうしても人に差別的意識が必要なことは、あるいは認めなければならないかもしれない。差別的意識、という言葉に問題があるならば、プライドとか誇りとかいう言葉に置き換えてもいい。とにかく、こうじゃなくてこうでありたい、とか、良く言ってしまえば目標ってものが人には必要だ。そうじゃないとかなりぐでんぐでんな生になってしまう。煮立ってしょうがなくなってしまう。

で、こうじゃねえって部分が大きい人とどうやって対峙すればいいかって問題が残ってる。つまり、著者のように、自身を人非人だと卑下自称する人をどのように扱えばいいのか。

差別とは、「自分はこうなりたくはない」という拒否感から構成される。あくまでも、自分が目の前にいる生物について、自身も同様の状況に陥る可能性があることを認めたくないために差別が起こる。で、著者はどうもそういう部分を著作の中で薄めよう薄めようとしてる気がするんだよね。例えば以下の部分。

気障(キザ)クラブをつくってはみたが、自分たちよりも気障な人間が気障クラブ以外にいるとわかって「こういうのがいるんじゃあ、気障クラブの存在価値はないってんで、みんなゲッソリしちゃってね、気障クラブは止めちゃったんだ」(p.125)。「ゲッソリ」の部分がポイントでさ。卑下が戯画化されているというか、卑下を(笑)に変えてるんだよね、ここ。(笑)がついてもおかしくない部分でしょ、ここ。著者も自分の中でこうじゃねえ、こうありたくねえって部分がどんどん膨らんでゆくのに抵抗していた。もちろんそれと引き換えにどうでもいいやって気持ちでもないってことは詩の方面でケリつけてたんだと思う。

つまりまとめると、簡単に誰かを「非人」だと決めつけちゃうことに対して批判的で、平易な語り口を交えつつ自身の行動を見つめ直して戯画化すら試しているのが『人非人伝』だった、というわけ。行き過ぎた「非人」を言い過ぎるなって言ってるわけ。上手い卑下をレクチャーしてるのが『人非人伝』ってわけ。

 

4.生活保護とスティグマについて

神奈川県小田原市における生活保護担当職員のジャンパーに「HOGO NAMENNA」、保護なめんなの文字が記載されていたことは記憶に新しい。生活保護にはスティグマ、「負の烙印」が付けられることはしばしばである。生活保護を利用することは恥ずかしいことだと考える人が多い。日本において社会とは皆で支え合う空間というよりもむしろ闘いの場でしかない。

あるいはスティグマどころではない。実際に生活保護の必要な人が生活保護の受給を止められ、人が死んでいたこともあった。北九州市では2005年から三年連続で餓死者が出た。2007年にはショッキングな事件も起こった。病気で生活保護を受けていた52歳の男性が生活保護を辞退するよう、書類のサインを強要され、「ご飯を食べられずに『おにぎり食べたい』とメモを残して亡くなっ」(a:pp.47,48)ていたのだ。ではなぜ生活保護停止の書類を役人は書かせたのか。それは社会保障費の削減を役所側も要求されているからであり、社会保障費を付け狙う「あくどい生活保護受給者」のイメージを役人個々人の中で払拭できないからだ。

次に引用したいのはナンシー・メアーズという多発性硬化症を患った女性の文章。

『障害』を『病気』や『無力』とみなす社会には、[…]致命的な問題がある。自分たちにどんな生産的な役割ができるのか、まったく想像できないという問題で、これはとりわけ生まれつき障害のある者たちのあいだに少なくない。なにが(もう)できないかではなく、なにができるかで、障害のある人たちを正当に定義する新しいモデルが出てこなければ、世界はこの種の不健康な依存の押しつけをとめられないだろう。(b:p.110)

障害者も例外ではない。この世において聞き出されるのは「お前は何が出来るのか」という問いである。それは誰もが言い渡される。平等に言い渡される。「お前は何が出来るのか」という問いによって、より一層の貧困を迫られるケースもあるだろう。不平等を生む、平等な問いとしての「お前は何が出来るのか」。その問いに押し返されるように我々は周りの人間にレッテル貼りせざるを得ない状況へ陥らされてゆく。

 

納得できる事実を収集するためには何が出来るか?そして幾多の苦難を乗り越えるには何をすれば?

 

 

参考資料

1.誰と戦っているのだろうか。

CYBORG 009 CALL OF JUSTICE、乃至MONKEY MAJIK ”A.I. am Human”, “Is this love?”より着想、視聴しつつ執筆。

 

2.好色と「君」

CYBORG 009 CALL OF JUSTICE視聴中、「不確定要素」という言葉を思念し、着想。

tofubeats – No.1 feat.G.RINAを聴取、肩揺らし、歌謡しつつ執筆。

 

3.非人の生活

金子光晴(1985)『人非人伝』

 

4.生活保護とスティグマについて

a : 稲葉剛(2016)『貧困の現場から社会を変える』

b : ナンシー・メアーズ 青海恵子 訳(1999)『車椅子の高さで』

文字数:4991

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