行き過ぎず、なお変化なし
1.しほんしゅぎのはじまり
資本主義のことを考えよう、と言い始めても、なかなかそんなことは言ってられないよ、というのが、かなりの人の意見なのではないかと思う。とはいえ、皆、資本主義的社会で生きているようだ。資本主義であることは妥当であると信じている。ゆえに資本主義的な生活様式を受け入れている。
とりあえず、資本主義の始まりについてごく簡単に調べてみた。ローマ帝国の滅亡と関連があるらしい。ローマ帝国の滅亡っていつごろ?っていうと少しむずかしいんだけど、ローマ帝国っていうのはまず分裂した。かなり大きかったので、西と東の二つに分かれてしまった。それが395年。西ローマ帝国の滅亡は早くて、476年。東ローマ帝国の滅亡は15世紀、1453年。なんでこんなに滅亡年に違いがあるんだろうか、という問題は置いておく。多分次段落の資本主義の始まりの歴史はその二つの滅亡年の間に起こってきたことだと思う。一年の間にパッと起こったことじゃなくて、じわりじわりと、というイメージがより正確なものだと思う。
帝国の滅亡によって西欧には統一的法や通貨、政府が無くなり、「孤立し自立した都市や荘園、小規模領地などの雑多なつぎはぎ細工のものが生まれた。」(a : p.35)それに伴い「商品を携えた商人たちが追いはぎ貴族の襲撃に備えて、武装した従者をつれて荘園から荘園へと行き来し」はじめる(a : p.35)。移動し冒険する商人たちは次第に町々の暮らしに入り込み、政治権力を握り始めた。ブルジョワ階級の誕生である。
ブルジョワ階級が各都市において力を握り始めると同時に、新たな社会秩序が輪郭を現し始める。「農奴が領主に収穫の一部を供出し、残りを自分のものにする封建国家の制度に代わって、資本家たる農民が小作人に賃金を支払い、代わりに全収穫を自分のものにするというまったく異なった形態が広がった。」(a : p.36)ここに農奴制の終焉と資本主義の開始が宣言される。
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2.持ってるのか、持ってないのか
上で資本主義の始まりを書いてみたわけだけど、あの文章でなるほどと手を打ったのは、「全収穫を自分のものにする」ってことだ。そっか、作っても自分のものにできなかったのが、資本主義以前で、自分のものに出来るようになったのが資本主義以後なんだ。あんまり考えてこなかったけれど、物を手に入れるって相当な作業だ。自分が何不自由なく物を使える、動かせる、操作できるっていうのは、まずすごいことだ(多分これは所有権の話につながってくると思う)。
でね。次はお金の話をしたいんだ。というのも、お金って持っているようで持っていない感じがするじゃん。というとなんだかまた変な話だなと思われるかもしれないけれど、じゃあお金自体でどうにかなるのかって話で、物を買えなきゃ意味ないでしょ。お金って必要なようでいて、それを使って何かを買えなきゃ全く意味をなさない。価値があるのか、無いのか、よくわからない。じゃあお金の価値ってどこから生まれるのか。ここで出したいのが、やっぱり岩井克人だよ。岩井さんは、隣のあいつも、あるいは世界中の人間はこの貨幣に価値があると認めるだろう、と皆が予想して貨幣の価値が成り立っている、と言ったんだ(この考え方はケインズの美人投票の考え方に依拠している、らしい)。
市場で成立する価格は実際のものの過不足の状態から乖離する。全ての投機家がそれを市場価格として予想しているから市場価格として成立するに過ぎない。あるいは些細なニュースをきっかけに価格が乱高下を始める。合理的な投機家の存在が市場経済を不安定にしているのである (b : pp.31-33)。価値は予想の無限の連鎖によって成り立っている、というのが岩井さんの論。
価値を生み出すのが予想の無限の連鎖だとするのが岩井さんだとするならば、マルクスが言っているのは商品に対して労働が投下されている、商品に労働が入り込んでいる、ということだ。マルクス曰く、商品が価値を有しているのは、それが社会的労働の結晶化だからである。その価値の大きさ、あるいはその相対的価値は、その中に含まれる社会的実体の量がより多いかより少ないかに依存している。すなわち、その生産に必要だった労働の相対的量に依存している。したがって、諸商品の相対的価値は、それらの中に支出され実現され凝固している労働の個々の量ないし分量によって規定されるのである(c : p.188)。
岩井の主張である予想の無限の連鎖によって価値がここまで成り立ちうるのは、やはりメディアの影響が強いと言わざるをえない。もちろん岩井の論に依拠するならば貨幣にはそもそも前提として予想の無限の連鎖の性質が備わっていたとしなければならないが、明らかに今日の電子メディアによって引き起こされつつある高速な情報伝達が、貨幣の予想の無限の連鎖の性質を強くあぶり出している。そしてその影に隠れることとなったのが、マルクスの労働価値説、商品に対して労働が働きかけることで価値が練り込められる、という説である。商品に対する労働を強くは意識しない。どれだけ労働を意識せず長時間働けるか、そしてどれだけ広告されるかどうかが勝負になってしまっている。広告できるだけの資本があるかどうかが勝負になってしまっている。
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3.持ってる人と持ってない人
正当なゲームに乗っ取らず、私たちは言葉をつぶやきつづける。多く資本があり、より良い広告が打てるかどうかが、勝つか負けるかを決める。売られる商品の善し悪しは、平均以上であれば大差がない。もし問題がある商品だと判明すれば、即刻販売取り下げ、裁判となってもおかしくはない。あるいは買い手に消費者の声を届けなければ良い。消費者の声を隠せば良い。消費者の姿を買い手に見せなければ良い。買い手に消費者という群があることを意識させない消費が待っているのだと広告を打つ。広告は人を分断する。歯ざわりのいい言葉、インパクトの大きい言葉、購入者には良きことしか待っていないかのような 言葉 言葉 言葉が並ぶ。人は商品に対してあれやこれやの意見は持つけれども、広告に対してはそこまで意識が向かない。そもそもどういう謳い文句でそれが売られていたのか、買ってしまった後は商品に向き合うことで精一杯になってしまって、突き詰めて商品と広告の文句が同じかどうかを考えようとはしない。そもそも広告にかかれていることは商品の説明ではなくて、全然関係ないとは言い切れないけれど特に思いつく明白な理由がないようなインパクトある画像と言葉を載せて、企業広告として広告する。
でも人を分断するのは広告だけじゃない。古代人が洞窟に絵を書き始めたころから始まったメディアの根本的な性質の一つだ。つまりモノとモノを切り分けるという性質。区別は壁を傷つけることから始まった。表現すればするほど、言えば言うほど、書けば書くほど、人から遠ざかっていくような気がするのはなぜなのか。
それは、やっぱり人は人を操作できないってことだよ。人は人を操作できない。だけど、いやだからこそ、市場とか社会っていう大きな塊を意識し始めたんだよ。一つの個体ばかりを見ていても、見られていると悟られたら最後、予想に反するようなことをし始めるかもしれない。だったら個体数を上げて、集合としてみてあげて、データを取ってなるべく個体らに不用意な行動を原理的に取らせないようにした。
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4.持て(モテ)ない人はどうするの?
資本に基づく投資が民主主義を操作する。市場が、富裕層が政治を操作する。
「そこでは資本が、国民経済の中で投資をするかしないかということを通じて政治に間接的影響を与える。[…]さらに国家財政に資金を提供するかしないかということを通じて政治に間接的影響を与えるようにもなる。」そのようにして民主主義国家は「自由化の過程で、民主主義的な組織や参加度は急速に、しかもきわめて階級政治的な偏りをもって後退していった。」(d : p.125)連続する危機は政治的行動空間を制限し続けた。
少数の富裕層と大多数の貧困層。人は人を操作できないのだとしても、富裕者は政治を操作し、企業は国家を操作できる。金という媒体を使って。それはまるで資本家が労働者を操作するように。統治の手法は変化してきた。金が権力の源になりつつある。
問題はつまり切り捨てられる可能性があるってこと。いつどんなときにでも、お前は仲間ではないと言われる可能性がある。社会からの解雇可能性。会社の外は妖怪沸き立つ異次元世界なのか?資本家に気に入られなければ生きてはゆけないのか?資本家に気に入られない自由な生き方はありえないのか?
何のために表現しているのか。表現して、離れていって、資本家から金を受け取れず、儲からない。儲からない自由がほしいわけでも、今のところはない。あるいは自由に振る舞える力すら無い。権威的資本主義と自由に基づく資本主義の二つがあるならば、現状は権威的資本主義にふりきり始めている。金がほしければ権威(資本家、政治家)に媚びよ。そこに人の成長はよく見当たらない。
ただやりたいように動いたところで、それが成長につながるともかぎらない。あるいは「好きなことで、生きてゆく」と言ったのは一企業である。やりたいように動く、というそのことが企業に、資本に絡め取られる。「好きなこと」というのは必ず動画になる必要が出てきてしまう。
だからやっぱり好きなことをやってちゃダメなんだよ。好きという気持ちだけではなんともならないよ。だって物事は多面的だし、あることが好きだ好きだって言い続けられる人なんてごく僅かだし、好きなことで生きていこうだなんて、それが出来る人だけしか認めない権威主義だよ。そうじゃないじゃん。僕らはもっと好きだって気持ち以外にも色々感じてて、総合して続けることが出来るか出来ないかってことでしょ?
でね、続くって事柄の中にはいくつかの諦めが入るんだよ。なんで続くかっていうといくつか、無意識にもやっていない事柄があったり、しないと決めた事柄があるから続くの。多分そこには無理が無いから続くんだろうね。そして、しないと決めることは怠けているということではないの。だってしないと決めたこと以外はするんだもの。
で、資本主義が終わる時のことを考えるとね。多分それは、持てる人も持てない人も、みーんなして資本主義がなんたるかを考えて、それをすべて実践し始めたら、資本主義は終わっていきます。しないことなんて絶対決めないし、資本主義を全部やる。それで資本主義は終わるんです。資本主義のはじまりからこれだけかかっても、まだまだ僕らは酸いも甘いも資本主義がなんたるかを分かっていない。「資本主義的民主主義国家における投票率の低下が選挙民の満足ではなく諦念の表明であることを物語っている。特に新自由主義的転換の敗北者たちは、政権与党の交替から何を期待したらいいのか、もはや分からなくなっている。」(d : p.96)
いや、実はそれでもみんな分かってる。他に方法はない。資本主義貫いてく以外に道はない、とみんなで実は思い込んでる。ただ、資本主義のかくあるべし感を、つまり節約しなさいとか、一秒一秒が金にならなきゃならないんだとか、そういう切迫した感じが気に食わない人もいて。で、多分そういう人たちのことも資本主義側は金儲けの材料として狙ってくるんだよね…かなり悪質。で、そういう資本主義に抵抗感ある人たちも資本主義に染め上げる。でもいいの。貧民すら、資本主義反対論者すら、(それはただ彼ら自身の手元でしかないのだろうけれど、それでも手元の)すべてを納得ずくで資本主義に参加し始めることこそ、資本主義から別の経済への移行を示すのだろうから。それはローマ帝国の滅亡によって商人は都市や荘園間を蠢き始め、農奴が小作人になったように。彼らは封建時代の環境を思う存分使い果たしたことだろう。
引用文献
a : ロバート・ハイルブローナー(1994)『21世紀の資本主義』
b : 岩井克人(2006)『二十一世紀の資本主義論』
c : マルクス(初出1864 2014)「賃金・価格・利潤」『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』
d : ヴォルフガング・シュトレーク(初出2013 2016)『時間稼ぎの資本主義』
(実に偶然にもaとbの文献名が被った。自分でも驚いている(笑))
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