どうか、どうか読み飛ばしながら読んで下さい
書を読み書くという技術は僕たちが想像しているよりもずっと高度な技術になってゆくのだろう。限られたエリートたちがなす仕事へ。そもそも一冊5000円弱もする本もある(次回の課題用に買った(笑))。意欲がなければ読書すら続かない。それに輪をかけて本が読めない。文と文の繋がりが分からない。ただ文だけがある。目を皿のようにして文を読んでも自分しか見当たらない。言葉が反響し、呪文のように、お経のように、それはそうなのだということが当該個人のなかでぐるぐると渦を巻き、やがて摩擦の力が無くなるように個人の中で止まる。静かに、止まる。
自己啓発書とは読み手がある点(原点)に存在していると仮定し、その点から別の点(到達点)へ移動せよと促される書である。読み手は自分が書き手の示す原点に位置していると考えれば、あるいは促されるところの移動先に魅力を感じて本を購入してゆくのだろう。
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ここで原点となることのできる点を紹介しよう。それはアダルト・チルドレン(AC)という点だ。
以下、アダルトチルドレン一問一答編集委員会編・斎藤学監修『知っていますか?アダルトチルドレン一問一答』より引用する。ここで言いたいことは要するに、世の中にはこういう人がいるってことです。(箇条書きで良いかは悩んだんですけど、主体って箇条書きじゃないですか。「私とは〜であり、〜であり…」)
・AC(アダルトチルドレン)とは何を指す?
「アダルト・チルドレン(AC)とは、Adult Children of Dysfunctional Familyの略で、機能不全の家族で育ち大人になった人のことを指しています。」(p.14)
・機能不全の家族とは?
嗜癖家族、暴力と虐待のある家族、自己愛家族システムの三つが挙げられる。ここでは嗜癖家族と自己愛家族システムの二つを取り上げる。
①嗜癖家族とは「父母の夫婦関係においてコミュニケーションが遮断され、常にケアが一方通行で問題の支え手がすべての役割を担うよう」な家族であり、「父子関係は疎遠か葛藤的となり、疑似夫婦関係とさえいえるほど密着した母子関係を中心とした家族構造」が特徴(p.15)。イメージとしてはお父さん仕事バリバリで育児放棄気味、時たま子供と話しては激昂、お母さん家事と子供の世話ばかりやってる、そんな家族。
②自己愛家族システムとは、嗜癖家族や暴力・虐待といった問題は無いものの、親の子に対する欲求が強すぎるため、「親の欲求を……あたかも(子供が)自分の欲求であるかのように取り込んだり、自分の欲求をすりかえて親の欲求に沿うものにしたりする」(pp.16,17、丸括弧筆者挿入)特徴を持つ。親がいいって言ってるのを見て、そうだ、これがいいんだって子供が思い込んでゆくパターン。
機能不全の家族の中で育った子供は自立を妨げられ、「主体なき成長」(p.17)を遂げることとなる。
・ACの特徴とは?(pp.7-13)
・NOと言えない
・親の期待がプレッシャーとなる
・何もしない完璧主義者
・対等で親密な関係を作るのが難しい。
→自分に不安があるがゆえに、人がいないと不安
→共依存(※1)に陥りがち
・他者の期待で動く
・自分のありのままをさらすのが怖い
・自分が変わることが怖い
・エネルギッシュな瞬間もあるが、意識が薄弱なときもある
(※1)相手に必要とされることを自己評価のよりどころとして,その関係に依存する状態。(三省堂 大辞林)
時にビクビク怯えてて、あるいは他人から頼まれると頑張っちゃうときもあるけれども、基本的に誰かがそのACの人を評価してくれないと気が気でなくなっちゃう、何にもしないのに完璧主義な人。
・ACの心理的特徴とは?(pp.22-24)
1.安全感と信頼感の欠如である「不信」
2.愛情希求と不全感・被害感である「恨み」
3.過度の警戒心と感情否認である「緊張」
→「自分が何を感じているか、何が心地よいかさえ分からない状態にまで陥ります」(p.23)
「ACは、自分の感情、特に『甘え』や『怒り』を素直に感じ、適切に表現することが難しい」(p.50)
4.不安定な自己像(矮小化・肥大化)
→認知の歪みをもたらす(自己像が周囲の評価と食い違う)
→逃避、あるいは非現実的判断から恨みの感情へ
→自尊心の欠如、他者の承認にのみ自己の存在価値を求める
5.基礎・根本的な問題としての未発達な主体性
主体性を代理する心理的作用としての「反映」「反応」
反映→「相手の感覚・感情・考えが自分のもののようになってしまう」
反応→「相手の感情や態度・言動によってのみ自分の態度・感情・言動が決定される」(p.24)
どうにかしたい。どうしてそのように反応してしまうのだろう。自分は自分。自分の課題は自分で解決しなければならないし、他者の課題は切り捨てなければならないと書いてあったのは『嫌われる勇気』(ドラマにもなったようでびっくりしたよ。見逃し配信のリンク貼っとくね(※2))。それが自分の自立や世界との調和を妨げていると思うならば、それはあなたの人生におけるタスクとすることができる。常に付きまとうタスク。しかし人はタスクをタスクとすら思えない時もある。ところが、例えばACって名付けてしまうと、次第に解決策が見えたりもする。それは名づけられることによって人と人がつながれるからだ。ACとはこういう人です、と言い切ってしまうと、そういえば自分もそうかもしれないという人が出てくる。その人と自分と似てる部分もある。違う部分もある。そして大前提としてあるのは、「苦しんでる」ってこと。ただそれだけだけど、それでつながっている。つながりを感じられる。
(※2)http://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4a19/
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ACからの回復とは何か
・「一言でいえば『主体の獲得』」(p.38)
・「自分が何を感じどのような情動を持っているのかをキャッチして、それを基準にして自分の行動を自分の責任において選択し実行できるようになる」(p.38)
・その際には「周囲の状況との調和が保たれるようにしていくことも大切」(p.38)
→「自分を主張することと控えることの二つの方向性」(p.39)が兼ね備えられて、初めて回復となる。
回復の第一歩→「自分がACであることを認める」(p.39)
ただし、ただ認めるだけでは回復を阻害してしまう可能性あり。自己像は歪んでおり、自己尊重感は低いため、恥と罪の意識に覆われてしまうから。そうした意識や、そこから生まれる恨み、怒りといった感情を解放し、単に自分のせいだけではないこと、家族の機能不全が原因だったことを確認する。
等身大の自己を人との交流を通じて見つける。自己像の歪みを修正する。感情的反応のパターンを知る。
「反映」や「反応」の二つのスキルを否定する必要はない。新たな行動基準の中に取り入れ、活かすことが重要。
「自分の感情を受け入れて生きられるようになっていく『プロセス』そのもの」(p.52)
要するに、色んな人に会って自己主張し、あるいは自分を控えるという二つの要素を上手く使えるようになり、恥とか罪とか感じながらそれでもかつての家族のシステムをちょっぴり言い訳にして(決して強打してはならない。親を強打したところでお前の主体は出来上がらない。)、等身大の、極力嘘のない自己像見つけていこうぜって、そういう話だ。
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考えたのは、こういうことだ。なぜ人は書かれている文章に自分を見出すのだろうか。つまり、この自己啓発書には自分が書かれているとか、あるいは本であるならなんでもいいのかもしれないけれど、疑問に思っていたことが書かれているかもしれないと感銘を受けるわけだ。この本は私の体験してきたことが書かれているであるとか、自分が考えてきたことそのものが書かれているとか。
そしてそうした自己啓発の本が売れていることをみんな知っている。同じような悩みを抱えている可能性のある人が多くいることを、皆なんとなく知る。売れるということが悩みを共有しているということと直結するとするならば言い過ぎているだろうけれど、あるいは書名のフレーズから勝手に想像された内容があまりにも手に取った読者(書名を見た瞬間から読者である)の経験をくすぐるものだったならば、つまり、非常にありきたりなのだけれど、やはり本を手に取った瞬間から共同体へ参入してしまっていると言わざるをえない。
だがそれは、本を手に取っているにも関わらず、言葉なき共同体だ。ただ本を買っているだけに過ぎないからだ。読んだ者同士のコミュニケーションは無いからだ。これが本の性質だった。まずは個人において思考するというプロセスが存在した。読み、言葉が解釈され、解釈と解釈が連携することで構造が個人の中で構築された。個々人の中で構築されている構造はどの一つを取ってもかけがえのないものだ。
読書ってつまりは、かけがえのないあなたを把握するためになされてきたことなんじゃないか、という考えも浮かんできたのだけれど、それには少々懐疑的。というのも、最近、最首悟さんの『明日もまた今日のごとく』っていう本を読んだのね。最首さんにはどうやら障害を持ったお子さん(星子って名前らしい)がいると。で、その星子さんが学校に断固として行きたがらないことを見て取って、意志の力があると最首さんは考えたり、あるいは星子さんの為すことを見て取ることにより、「大いなる権威」(p.52)を考えたり感じたりするとおっしゃっています。障害児は自然により近い、と書くと語弊がありそうです。星子さんを自然に近い存在だと見て取ることにより、自然を尊ぶことが出来る。それは個々人それぞれにおいてなされるべきです。つまり、どんな人であっても、自然に近い部分は持ち合わせていて、それはきちんと周りの人間が判定してあげなければならないと思うのだけれどなかなか、いやほとんどそういうことはなされない。
例えば、あなたの読みはこれこれこうです、ということはなかなかしづらい。例えばこれこれこういうふうに読みました、と資料に書いたとして、本当にそう読んだという確実な証拠は読んでいる時の脳を見なければ最終的にはわからない。読みを確実に共有することほぼほぼ無理。自然を、「読む」という行動によって把握することほぼほぼ無理。結局は読めたって証明できない以上、確定できない以上、読みに紐付いた人も証明できないよ。読むという行為を観察することで自然に埋め込まれたあなた自身であるところの主体が獲得されているということはなかなか確認出来ないよ。
でね。自己啓発書ってさ、遊びがないんだ。池上彰と佐藤優の『僕らが毎日やっている最強の読み方』なんか特にそうだった。例えばp.174の格言。「ネットサーフィンとSNSは、インプットの時間を蝕む。時間を確保するには『ネット断ち』『スマホ断ち』も大事。」おいおい待ってくれよ、大学受験じゃあるまいし。
無難に依存への警告ってことでしょうか。自己啓発書の構造自体、点と点を結んでゆくから、二つの点以外の可能性を極力削ぎ落とさなければならないし、人はそういう削ぎ落とし(ネット断ち、スマホ断ち)の部分に力を見て、魅力を感じているのだろうか。
ここでいう依存はごく自然でありふれたものだろう。電車に乗ればスマホをいじりたくなるのは自然の摂理である。つまり自己啓発書は自然に逆らう。自由だ。自己啓発書は自由を主張する。原点から到達点への移動という名の自由を主張する。だが同時に自己啓発書は自然を意図的に無視する。無視しなければ大衆受けしないからだ。無視しなければ宗教書になってしまうからだ。
苦しみを無意識的に共有してしまっている自己啓発書は宗教書への変貌を頑なに抵抗している。ただ読者は自己啓発書を購入し、共同体に参入してゆく。それは不可抗力的になされる。また、宗教書ではないために、自己啓発書によって自然を解することはできない。
一方ACの回復のためにはグループが必要だという話になる。自己啓発には必ずしも緻密な動きのあるグループは必要ない。ただただ永遠に読者の苦しみは永遠に止まることを知らず、バズったとしても枠が広がるだけで無造作に動き続ける。回り続ける。苦しみを共有することが心地いいのは、常に流れ、動き続けるからだろう。苦しみが苦しみのままでは通りが悪い。一本の筋が通ることで苦しみからとりあえず抜ける。到達点は用意される。用意されるがゆえに受験勉強的だ。周り続けた渦はすべてある一点に収束してゆく。
自己啓発書によって終わりのなさは表現し得ない。ただし、自己啓発書を読むということを通じた主体形成とその証明については、終わりのなさを表現しうる。理論的には。
以上。
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