「怪物」の主題による変奏
あけましておめでとうこざいます。本年もよろしくお願いいたします。
題名を「『怪物』の主題による変奏」にしなければならないと課題で指定されているようには読めなかった(題名を借りるからといって、提出文の題名をそうしなければならないと書いてあるわけではない)のに、みんな題名を「『怪物』の主題による変奏」にしなければならない、しなければならないと言っていて、後々になってみるとなんだか変だと思ったけれど、いざ文章を書いてみるとその題名がぴったりだとも思ったので、そうしてみた。
お正月になると不吉な物事は一掃されているかのように考えてしまう。というか自分たちの正月の行事で頭がいっぱいになって不吉なことを考えていられなくなってしまう。めでたいっていうのもあるんだけれど、ごちそうのことで頭がいっぱい。明日はとろろ汁を作らなきゃなとか、おせちがまだ残っててどうやって消化しようかとか。不吉な事柄はある程度余裕がないと、捉えることが出来ない。それでも忘れちゃいけない事件ってそれなりに世間では起こっている。悲惨な事件をどのようすれば人々の心の片隅に置けるのか。
去年2016年7月、相模原障害者施設殺傷事件は起こった。神奈川県相模原市の障害者福祉施設にて起こった刃物による大量殺人事件。19人死亡、26人重軽傷。死亡者はいずれも入所者。負傷者には職員男女1名ずつ含む。深夜における犯行。
日本障害者協議会の藤井克徳代表による事件分析。
二つ目の分析の、歪められる価値観については、被疑者自身が望んだことでもあるはず。被疑者は障害者を抹殺することが人々に認められると信じていた節がある(※1)。被疑者の考えに案外簡単にのってしまうかもしれないと思わせるのは、第一の分析である、実際に犯行が行われてしまった、その事実性に関係している。つまり、その犯行のインパクトがあまりにも強いため、人の心に考えがねじ込まれてしまう危険がある。事件に対して恐怖を覚えたその瞬間に、善悪を越えた認識を行ってしまっている。「すごい!」と声を上げる瞬間にはどこがいいとかわるいとか、そういうことが一瞬チャラになる。そしてそこからしか、被疑者と面識のない大多数の傍観者は事件と関係を持つことが出来ない。抹殺は被疑者にしか今のところできなかった、その前人未到性が危険思想を危険思想たらしめる魅惑の一つとなっている。
被疑者は自分の考えを広くあまねく伝え、共感共振させ、自分と同じ行動を人々に取らせたかった。それが世のため人のためになると考えていた。そして行われたのが抹殺である。
---
障害者とともに暮らしたくない、という気持ちが心の何処かで叫んでいる。それを普段は無視している。そもそもその気持ちの言っている障害者ってどういうやつだよ、と叫びに対しても斜に構えている気持ちもある。大体、いわゆる「障害者」と人から日常的に言われる、独特な難しさを抱えたような人とどれだけ過ごしてきたんだよお前は、と自分に対して問いかける。
杉田俊介(※2)が相模原障害者殺傷事件について、事件を元に我々は何を考えるべきなのかについて述べている。内容は事件にとどまらず、事件にある意味では関係のない傍観者も含め、人が本事件を通じていかなることを考えられるのか、次のように述べる。私たちは何かささいな、しかしそのときは非常に大変なことだと思いこむような失敗をしては、「この自分は役立たずであり、生きるに値しないのではないか」(p.123)と考えてしまう。そこから抜け出すためには「『障害者だろうが健全者だろうが、優れた人間だろうが何だろうが、人間の生には平等に意味がない(生存という事実は、端的に非意味でしかない)』と言わねばならない」(p.124)という。
それぞれの行動に何か意味が絶対に存在すると考えてしまうから、一つでも出来ないことがあると途端に、その出来ないこと=「欠点」は世界にとって害悪であり、害悪は消さなければならないという論理に陥ってしまう(こうした論理は殺人一般、すなわち自殺にもつながっていると考えられる)。非意味であるという論法はそうした「欠点」を無効化する一つの手段だ。他に関しては意味があるのだとしても、とりあえず生きているという事実そのものには意味が無い、と考えてみること。
しかし、これは結構大変そうなお話だ。今の今まで「生きていることに意味はあるっ!」って肩肘張って生きてきた人に正面突破で「いやっ!意味なんて無いんだ!!!!」って言っても、どうしても納得してもらえるようには思えない。というか筆者自身、あまり納得できていない汗
人生に意味はないということについて納得するためにはどうしたらいいのだろうか。なるほど自分のことを考えれば、意味はないのかもしれないとも思う。では意味がある人生を送っている人がいるかもしれないと想像してみる。まだその可能性が否定できていない。果たして意味ある人生を送っている人とは?有名人?著名人?本当にその人達は自分の人生が意味あるものだと考えている?むしろその人達の人生もまた、その人達にとっての一日一日は平々凡々地道一直線で、別に毎日がバラ色ですとかそんなことはないのでしょう。成功とはそれぞれの人生の中にしか無いし、あなたが思っている「バラ色」とわたしの思っている「バラ色」ってぜんぜん違う。しかもあなたが思っている「バラ色」を送っている人などいない、あるいは「バラ色」の代償を支払っている可能性もある。別の苦しみを持っている可能性もある。
---
なぜ障害者とともに暮らしたくないのか。それは障害者が怖いからだろう。ではなぜ障害者が怖いのか。自分に不利益なことをされるかもしれないからだろう。自分に不利益とは?自分がいやだと感じたり、違和感を覚えることをされることだ。もっと簡単に言ってしまえば、自分が面倒くさいと思うだろうことをされると思うことだ。できればほかっておきたい。関わったら面倒くさい。
つまり、こうした感情の背景にあるのは、障害者の方々について無知なのだ。何も知らない。だから怖い。何も知らない。だから面倒くさい。何も知らない。だからなんとなく付き合いづらい。ぼんやりとしていて、なるようにしかならないだろうと決め込んで、「ノリの悪いやつ」を排除してゆく。
しかしそれは被疑者も同様だった。※1に被疑者が書いた関係機関への手紙が掲載されているが、その中にこういう文面がある。
保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、
被疑者は表情や瞳をこのように表現していた。ここにひどく安直かつ自己中心的な考えがある。本当に保護者は「疲れきっ」ていたのか。職員は「生気の欠けた瞳」をしていたのか。ではなぜ保護者は疲れ切っていたのか。障害者を施設で暮らさせるための資金を確保するべく、低賃金長時間の労働に勤しんでいるとでも考えていたのか。職員の目に生気が欠けているといって、果たして周りの職員がどんなことを考え、行動しているのか、被疑者は分かっていたのか。
被疑者は3年施設で働いたらしい。それでも障害者について、あるいは保護者や職員についてさえ、理解できなかった。彼は人間について全く理解できなかった。それはどんな職に就いたとしても同様だっただろうか。とにかく彼は事件当日まで、いかなる方法においても人間について理解することができなかった。これは我々社会の敗北である。犯人に対して人間とは何であるかを教え込むことができなかった。
---
今回の事件で分かったように、前人未到であることを行なうことは、インパクトが大きい。実際に誰もやったことがないことをやってみること、それだけで人に影響をあたえることが出来る。変奏するべきポイント(主題)はここである。
しかし被疑者の安直さに浸るべきでもない。ただ行動すればいいのだといって障害者の方々に会いにゆけばいいというわけでもない。もちろん自分から絶対に会いにゆくのだと固く決意したのであればそうすればいい。だが決意も意志も無く、ただ会えばいいわけではない。誰にだって、どんな状況であっても準備は大切である。
最後に一冊紹介してこの文章を終えたい。というのもこの文章を書いていて、この本の数節が頭を離れなかった。再生塾の伊藤剛先生の回でも紹介された、斉藤道雄『治りませんように』である。本書は精神障害の自立支援を目指す施設やそれに所属、関連した人々の話が書かれている。その中の「青年の死」という節から。
統合失調症患者が同じ病の患者から包丁を刺され、死亡した事件について書かれている。事件を取材した数々の記者による防止策等の質問事項を目の当たりにした斎藤の結論としては、「おそらくそれ(事件)は完全に防止することはできなかった」(丸括弧筆者挿入)というものだ。もし防止策を徹底してしまえば、事件の起こった施設の持つ価値は失われていた。命がけで施設の持つ価値を作り上げてきたことを見抜き、なおかつ「退院支援システムの欠如、地域の受け入れ体制の不備」等、社会的活動の不足を指摘している。
また、当節に引き続く次節には非常に微妙な線引きが描かれている。被害者の保護者は息子を殺されているのだが、殺した犯人は息子と同じ統合失調症を患っているため、無下にその事件や被疑者を否定することが出来ない。むしろ(もちろんこの表現は誇張に過ぎるのだが)自然なまでに精神障害者による殺人という行為を保護者は飲み込もうとしている。統合失調症患者の恐怖は殺人を犯すまでに甚大なものであり、人は誰しもそうした恐怖に対し、論理的思考等を通じて処理応対している、とも考えられる。
例えば不満ばかり持って人に接していないか。いつもいつも「あれをするな」とか、「そうしていることはダメだ」とばかり言っていないか。人の行動を見ては、出来ていないことばかり指摘していないか。そうではなく、何が出来るのかを探ってみること。ある人は何が出来るのか、どのような性質をもっているのか把握すること。出来ることからしてみること。そのように提案してみること。
無意味な人生であったとしても、その中にあぶくのように意味で膨らまして、巨大な無意味を透明な風船のように愛でる。外側から、あぶくで膨れ上がった意味が透けて見える。不用意に割らないように。ぶつかってみるとボヨンボヨンいって楽しい。一人ではねてみても楽しい。そんな感じで。
※1
被疑者による手紙では、衆議院議長や総理に対し自分の考えを堂々と主張している。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/26/letter-to-chairman_n_11207296.html
※2
杉田俊介(2016/10)「優生は誰を殺すのか」『現代思想』(pp.114-125)
文字数:4474