どこまでも観、考え続けよ。そして去れ。
1.
白線の内側。右、目の前にはまっすぐと続く線路。後ろから電車が迫ってくる。ここは地下。温かいとも冷たいとも言えないもやっとした空気が顔の右側を覆う。と同時に電車がふっと横切る。かすれもしない。当たりもしない。ただただ横切る。痛くも痒くもない。何十人、下手をしたら何百人と乗せた電車が、ただただ誰とも関係なく横切る。爽やかではない。生ぬるくもねとねととまとわりついてくる。厳しくもない。少し馴れ馴れしいけれど、所在ない時に浴びてみるとなんとなく「フフっ」てなる、そんな風。
2.
車内。蛍光灯の明かりが十分ではなく、座った乗客に向いて立って本を開くと暗くて読みづらいため、横を向いて本を読んでいた。そんな時に君はやってきた。僕の前に。少し空間を持って、同じように立った。向かい合うように、座っている乗客を横にして立ったのだ。変な状況だった。僕が普通とは違うことをしていて、君も僕の行動に応じたとしか考えられない。僕がもし座っている乗客を目の前に立っていれば、君も普段通り乗客を目の前にして立って、今回と同じように携帯をいじり始めたのではないだろうか。しかし今回はそうはしなかった。こんなに微妙な違いなのに、僕は君に影響を与えてしまった。君はもしかしたら僕のこの微妙な違いを内心気持ち悪がったかもしれないし、あるいは面白がったり、戦いだとして突っぱねるように対抗的に僕と向かい合わせになるようにして立ったのかもしれない。とにかく僕らはもう既にコミュニケーションをしてしまっていた。一言も声を交わさないコミュニケーションを。
3.
そう。こんな感じだ。たとえ近くにいたとしても、いくら何遍も語り合ったとしても、相手を分かることができない時はまったくもってできない。相手はこうなのだと自分の中で思い続けても、それが相手にとって違うのであれば結局のところそれは違う。一方で相手といかに距離があったとしても、一言も言葉を交わさずとも、相手が何をしたいのか瞬時に察することができる場合もある。もちろんそれには確認が肝要である。例えばあなたは立っていて目の前の席が空いて、右に大きな荷物を持った老人が一人。ふっと空いた席に、しかし若干控えめに近寄ってくる。あなたが空いた席の前にいるために、老人(女性だった)はあなたが座ろうとするかもしれないと考えたらしかった。
この「考えたらしかった」というところが重要で、つまりあなたは老人の素振りを観察することでなんともなく「座りたいのではないか」と考えられてしまったところに問題がある。この想像は勝手な空想に過ぎないのだが、それゆえにその空想と結び付けられる行動がどのようなものであるかが重要となってくる。とすると勝手な空想がどのような価値を持つのかについてはあまり意味が無くなってしまう。どのような行動がなされるかが問題なのであって、それを引き起こしたところの、どのようなことを考えたかということにはあまり意味がない。
色々と人が考えることはすべて無駄なのだろうか。結果が全てだとよく言われるし、やはり結果がなければ基準もなく、身も蓋もなくなってしまう以上そこを拠り所にすることはとりあえずのこととしてそうしなければならないのだろうと思われる。結果としての「グローバル金融資本主義」。誰かを不当に貶めようとしたわけでもないし、戦争が前提であったわけではない、という言い訳。結果をより良くしようとした結果。結果がとてつもなくより良くなければすべてダメであるかのように語られすぎている。
名前が「かなめ」だから中心とか真ん中を取って20位ぐらいでいいかと言ったら、それじゃあ出してる奴らの中で最下位じゃないかと言われた。それはそうなのだろうけれど、その考え方で行くと書いてない人を無視してしまうじゃないかとか、いや俺は書いてない人も含めて批評家再生塾二期性を背負うし、いいとこも悪いとこもすべて引き受けたいって考えてるからとか考えたけれどそれも難しいのかな。書いてない人の気持ちを探るのは書いている人以上に難しいな。書いている人の気持ちすら追えてる気がしないし。人の気持ちを全然負えないのはなぜだろう。あるいは書くと一度は決めて投稿しないという他者が導いた解答にある矛盾や負の側面を引き受けようという覚悟や器が自分にあるのかわからない。まあそれはやってみなければ仕方がない部分ではあるだろうが。
4.
ダンスの本を開いてみるとピナ・バウシュって人の名前が目立つ。なんでだろう。検索してみると、ピナ・バウシュが監督した?育成したダンサーの?わからないけれど、これがピナの認めたダンスですっていうようなピナの紹介映画、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を見ることができた。
まず目立ったのはとにかく細かい、あるいは一連の振り付けを何度も何度も繰り返すところ。25:20付近~。男が女の腰と足を持って抱えている(いわゆるお姫様抱っこ)のだが、すぐ女を落としてしまう。落とされた女はすぐに男に向き直り男と抱きしめ合う。もう一人の男が男女に近づく。もう一人の男を男’とする。男’は抱き合う男女の中でも男の腕を解き、男の肩に乗せられた女の顔を男の目の前に、丁度男と女の唇が重なり合うように設置し、再度男の腕を女の両側に、女を挟むような形でセッティングする。さらに男’は女の腕を男の首に回し置き、女を太ももから持ち上げるようにして男の直角に折れ曲がった腕へ置く。これがワンセット。
何度も繰り返されるのだがどんどんどんどん高速に行われてゆく。何度もこれが繰り返される人間関係が想像されたんだろうか。つまり男が女の気持ちをないがしろにし、それでも女は男に抱きつき、男もそれに応えるように女と抱き合うのだけれど社会や国家は男女にキスさせ、そしてお姫様抱っこを強要する。だがお姫様抱っこをする能力が男にないために女を落としてしまう。しかし女は男を忘れることができない。男をそれでも愛している。故に落とされたとしても再度抱きつく。
よくよく考えれば動作が繰り返されることはダンスにおいて普通のこと、それがダンスだ。人はそれを振り付けと呼んでいたはず。そうだったそうだった。しかしなぜそんなことにも気が付かなかったんだろうか。ピナが監督したダンスは「振り付け」と呼ぶにふさわしくない。振りが付いているのではなく、ダンサーがただ動いている、剥き出しの動きがそこにある。誰かによって決められた動きをしているのではなく、その踊り手がただ動いている。そのように見える。おそらくそれはピナの振り付け指導が抽象的な言葉によって留められているからだろう。愛を表現せよとか、あるいは団員に向かって「あなた達は天使だ」と言ってみたり。そんなこと言われたらもうどうしていいかよく分からない。考えるしかないだろう。もしかしたら厳しい具体的指摘もあったのかもしれないけれど、映画に出てくる証言者達にそうした指摘は明確にはなかったし、あったとしてもどうでもよかったのだろう。
5.
ダンサー達の動作を振り付けとして扱えないように思えてしまうのは、各個人に応じて動作に対する考えがバラバラだからだ。動作がまとまりを持った一つの集合として捉えられれば「振り付け」として見て取ることが出来る。僕らには考えやそれに発露された行動がまとまりを持って欲しいという願望や思い込みがある。というのもまとまりを持った考えは人を納得させるからだけど。
そうやって納得した人々はぎゅうぎゅうに寄せ集まって効率がいいんだとうそぶいてその中にどんな考えの人間がいるか分からないと無駄に怖がって自分たちを最終的に絨毯爆撃する。まあ自殺行為な訳じゃないっすか。世界的な内ゲバ。
いやだから皆さんが撃とうとしてるお相手さんは内にはいなんじゃないですか?全然あなたが考えてることとは、つまり「相手はこう考えている」ってこととは違うことを考えてまっせ?きっと。
①危険分子が内にあって、②その危険分子を管理できないことからくる恐怖によって起こされている内乱。それが第三次世界大戦の現実である。とするならば。しかし危険分子が外にいるのだからほかっておけばいいわけでもない。危険分子はこちらへ向かって影響してくる。市井の人々はまず危険分子だと考えているところの人々の影響をつぶさに、一定の基準を設けて観察する必要がある。考えられたところの影響を発表したのがネトウヨだった。ネトウヨはネトウヨで多くの人々より批判された。その考えの悪質さはよく分かった。ではその他の考えに問題はないのか。果たして我々は危険分子からどのような影響を受けていると考えているのか、きちんと精査しているのか。
もう一度ピナの映画を見てみよう。
つかマジウケたところが一箇所ある。この部分はかなり爆笑必至なのでぜひ見ていただきたい。38:38付近~。ぶら下がるタイプのモノレールのシーン。男が変な耳を付け、右手を上げて座っている(ここはわりとどうでもいい)。次のシーンで女性がドレスを着て乗ってくるのだが、ここからが注目のポイントで、女性はどうも自分の足の動き、ステップに合わせて、子音だけで「ドクショー」「ドクショー」と効果音を付けて歩くのだ。不気味にも髪で顔を隠しながら歩き、自分の持っているクッションを「ドクショー」「ドクショー」いいながら踏んづけたり、クッションの端っこを持って暴力を振るっては「ブフ」「ブフ」と口でやるのである。面白すぎて腹抱えて笑った。明らかにダンサーはこういう女性が、つまり気が強く堂々としすぎていてまるで巨人のように効果音が聞こえてくる女性がいるのだと主張している。
でもどうだろう。そうやって歩き、目的の座席までたどり着いて座り終えた女性は息切れをしており、「フーッ」と深呼吸している。そして顔を隠していた髪をめくり上げ、どこか満足げの顔を見せる。つまり次のように解釈できる。女性にとって上記の滑稽に映る動作は仕事として捉えられているのではないか。しなければならない、そしてすることによって周りの人々に満足を与える行動だと女性は自分自身の行動を捉えているのではないか。そして確かに女性自身の考えとはずれているものの、あるいはその場にいたとしても、観客にとってその女性の行動は意味ある、人に充実をもたらす行動であった。しかし観客にならなければ意味はない。しらっとその有様を見てしまうと笑えもせず、変な人だ(下手をすれば危険分子だ)、で終わってしまう。場が無いと人は観客になれない。訓練しないとなかなか普段の生活の中で観客になることは難しい。何か変なことをしている人がいるなーっと思っても、まずは観察してみることだ。面白かったら笑えばいい。そして風を切るように去る。これが観客への訓練の初手である。
6.
私たちが行なっている第三次世界大戦は、しかし私たちから生まれているのである。宇宙人が勝手に引き起こしているわけではない。この現実もまた私たちに依る。私たちを蝕むものは私たちが生んでいる。
もちろん生み出しているからといって直接的に全ての暴力が一人ひとりに関係しているわけではない。が、どこまでも続く恨みや暴力の連鎖を断ち切るのは一人ひとりの責任だし、断ち切るためには言葉で考え続けなければならない(※1)。ある事柄にどんな意味があったのかを冷静に考えるためには言葉がどれだけあっても足りないぐらい言葉が必要だ。断然考えは無駄なんかじゃない。
様々な事柄は交差する。それによって生まれる風を受け、私たちは再度自身を見つめ返す機会が与えられている。
※1
立ち去るためには言葉が必要だ。それは言い訳にもなりうるが、仕方がないのだ。人は去る以外に死ぬしかない。死ぬか、去るか。そして去るためには、関係を断ち切るためには言葉が、理由が必要なのである。
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