刑死の後
獄中で書かれた未完の書、「刑死の前」には、幸徳秋水の刑死に対する冷静ならざる想い、一体自分が刑死されることによってどのような死を遂げるのか、その死に意味が果たしてあるのかを強く考えている。
例えば「死とはなにか」という途方もない問いを立ててもほとんど意味がないことは目に見えている。その問いはあまりに広すぎるし、大雑把すぎる問いは大雑把な答えしか生み出し得ない。誰にだって起こりうる最悪の事態とでも仮に表現するとして、問いを洗練するべく秋水の文章を読んでいこう。
■死に対する恐怖
まず初めに秋水はヘラクレイトスの万物流去論を挙げる。すべての物質の本質において変化はないが、この世界の中において顕現する形である「万物の形体(フォーム)」は「多種多様でほとんど無限にある」(pp.188,189)。そして形体には時空間の概念が備わっている。形成されたものは必ず破壊され、成長するものは必ず衰亡する。こうした働きは科学から見ても「あらゆるものが平等にもつ運命である」(p.189)。これが彼の死に対する基本的スタンスである。死は避けられず、誰にでも平等に、確実にやってくるものであるという事実を再度確認している。
では、そんな死にたいして世の人々はどのように捉えているのか。世の人々は死を対立する考えによって捉えている。すなわち死は恐怖の対象だが、そんな死を避けられるとも思っていないようだ。6つの例示を行いながら、秋水は人々の死に対する恐怖を次のようにまとめている。
その個々人のもつ迷信、貪欲、愚痴、妄執、愛着の念を取りさるのが難しい性質や境遇などのうちに、死を恐怖する原因があるのである。(p.192)
死を恐怖する原因が人の性質や境遇にあるのだとすれば、それらが変化することによってもはや死が恐怖の対象ではなくなる場合もある。あるいは死に猛進してゆく場合もある。
■死に対する意味付け
死はかつてよりいたましいものとされてきたが、それは生者の立場に立った解釈であり、死者の立場に立てば、「何のいたみも悲しみも、あるべきはずはない」(p.192)。死者にとって死とは単なる安眠休息だが、生者が死に対して何万年も悲哀を繰り返した結果、「だれもが漠然と、死は悲しまなければならない、恐れなければならないものとして、怪しまないようになったのである」(p.193)。
秋水はさらに生物学的な視点を取り入れ、人間の死に対峙する態度を分析してゆく。その際挙げられる対立概念が「自己保存の本能」と「種保存の本能」である(p.193)。自己保存の本能とは自身の死を避け、死に抵抗しようとする本能であり、種保存の本能とはたとえ死に向かおうとも行われる恋愛や生殖への本能を指す。秋水は死に対する人々の反応として、自己保存の本能を利己主義、種保存の本能を博愛とまとめている(p.193)。
利己主義と博愛は本来相容れない、矛盾した対立軸として捉えられがちだ。が、この矛盾は本来の性質とは異なっており、「ただ周囲の環境によって余儀なくされたか、または育まれたもの」(p.194)と秋水は分析する(※1)。むしろ利己主義と博愛は一致させることで繁栄を享受することが出来るというのだ。
なぜ利己主義と博愛が一致させられるのか。なぜならば利己主義であるところの自己保存の本能は、博愛であるところの種保存の本能の基礎かつ準備であるからだ。自己保存の本能が万全になされていれば、種保存の本能も同様になされる。逆に種保存の本能を終えてしまえば、自己保存の本能も無用の長物となる。
死自体は問題というよりもむしろこれら2つの本能に必要不可欠な、「問題はまったく何時、いかにして死ぬか」、すなわち死に至るまでの人生に関する内容にある。「どんな人生を享受し、どんな人生を送ったかにある」(p.195)。
さて、ここで一旦秋水の文章から離れてみよう。というのも筆者は上記引用最後の部分、利己主義と博愛の一致に対して秋水がベキ論にも近い語り口で議論してゆくところに違和感を覚えたからである。そもそも「本来」利己主義と博愛が一致しているというのはおかしくないだろうか。本当に自己保存の本能は種保存の本能の基礎なのだろうか。種保存が終わってしまえば自己保存は不要なのだろうか。例えば老人の生は利己主義と博愛の統合によってどのように捉えうるのだろうか。
大体「豊富な生殖はつねに健全な生活から生ずる」(p.194)っていうのもおかしい。貧しくとも大家族、富裕だが一人っ子は世界にゴマンとある現象だ。貧富によって生殖が健全かどうかを測るのも問題ではあるのだが、それはもとより健全という言葉がかなり曖昧なのは否めない。何を持ってして健全といえるのか、かなりの謎である。
曖昧な言葉を持ち出してまで必死になって秋水は言葉に取り組んだ、その訳は?当然自身の死刑を受け入れるべく、自身の死がどのような意味を持つこととなるのか見極めようとしたというのが考えの筋というものだろう。死者にとって死は単なる安眠休息であるなどと自分で認めているにもかかわらず、秋水自身が死の意味について考えることを辞めることができない。しまいには死に至るまでの人生の内容に意味があるのだと言い始めた。続きを見てみよう。
■死の現状
さて、これまで死の意味について考察をしてきたが、翻って実際具体的に、人々はどのように死んでいるだろうか。見てみると、どれだけ金があっても、生活規律を厳しく持っていても、人々が病気や怪我なく天寿を全うすることはなかなか難しい。多くの人々は「不自然な原因から引き起こされた病気のために、天寿の半ばにさえも達することなく死んでしまうの」(p.197)が現状である。多くの人々が努力の甲斐無く、不自然に、不慮にも死んでいるとするならば、私たちは「病死そのほかの不自然な死を甘受するほかはなく、また甘受するのが良いではないか」(p.198)。そしてそれでもなお、どんな不自然な死であれ、分相応の良い影響を社会に与えられればなお良いし、そのことは難しいことではない。
本当に最低のことが書いてある。天寿を全うすることがほぼ不可能であるからといって死を甘受せよ、甘んじて受け入れろ、死を受け入れろと書いてある。そしてその死を社会へのより良い影響のために捧げろというのだ。
より良い社会のために、人は死にたがるのか?人はより良く死ぬために、いや言い換えよう、死のために生きるのか?
筆者はここに日本における自殺数が多い原因を見る。こうした考えが社会に蔓延しているから自殺が絶えない。自分は害悪であり、自分が死ねば社会はより良くなると思い込んでしまう。本当はそいつの社会に対する影響などごく微量でありほとんど無であるに等しいのに。
いや、ある人にはあるんでしょう。社会に対する影響。高い才能の持ち主とか、コネがあるとか。じゃあ才能がなかったりコネがない人間はより良くは死ねないわけだ。分相応が必ずあって、分相応から飛び出ちまう自分の欲望は抑え付けておかなきゃなんないっていうわけだ。さもなくば節操がなくて社会のためにならんというわけだ。飛び出ちまう部分に可能性は見えんというわけだ。
秋水は死刑が行われる最後の最期まで可能性を見ることはなかった。もうこの文章を書いている時には秋水は死んでいた。生きるのを諦めていた。彼は死を見つめていたのではなく、すでに死に浸っていたのである。そしてより最低なのは、自分と同じように君たちも社会のために死ねと秋水は呼びかけてしまっている。
やむを得ない死がもたらす恐怖が生んだ文章。しかし死はいつだってやむを得んさ。秋水の文章まとめはもういい。自己保存は勝手に行われる時代だ。ぶっ倒れてれば勝手に周りの人間が救急車を呼んじまう。じゃあ博愛は?足りないけれど僕らはそのやり方を忘れちまってる。愛している愛していると言いながら実際には相手を支配するばかりだ。博愛は種保存なんかじゃない。愛したとしても種が保存されないことは何度となくあったろう。死を甘受するのはあまりにも種保存に偏りすぎている。死を甘受してしまえば、「ああ、死んでしまえばいいんだ」という考えに陥らないか?死を甘受するという言葉は死へと人の背中を押していないか?
秋水の考え方では、人は社会において自由に生きることはできない。常に「(今の)社会にいかに貢献できるか」を考えるだけの人間が充満する。人はかつてまでの社会を顧みることもなければ未来に向かってどのような社会がありうるかも考えることを知らない。
いや違う。彼は刑死という来るべき現実を前に直近のことしか考えられなくなってしまっていた。もちろん死に対する人々の恐怖が歴史的に醸成されてきたことも考察の一つに入ってはいるが、出て来る結論が社会に対して良い影響を与えて死んでゆこうというのでは、そうしたいのは山々だがではどうすれば?感がすごい。未完だし、刑死による秋水の焦りの気持ちがよく伝わってくる。もっと秋水のように我々も焦っていい。本来、生物にとって死はもっと身近なはずだ。
秋水の文章を眺めながら、最後に2016年現在の死について考えてみたい。現代において死は意味を持たないわけではない。誰かが亡くなれば、秋水の言うようにその人の死に対してその人がどのように生きたのかを踏まえ、意味付けが行われる。この人はああいうように生きたとか、こういうように生きたと葬式時に語られ、あるいは語られずにその人の死を前に誰かが何かを想う。
秋水の時代よりも人は長生きするようになった。秋水から見れば現代日本は公衆衛生の行き届いた世界だろう。そして秋水の時代よりも人々は死を意識しなくなった。葬式ぐらいしか人は死について考えることはない。キャラクターは情報としてコンピュータに保存されており、削除は容易だ。消えて無くなることは死というよりも削除の方が身近である。
削除の時代において再生するものは何か。当然、音楽である。人はデータのように削除され、再生されるは音楽である。そこに死はなければ黄泉がえりすらありえない。感情は殺され、焦った人間が勝つのは稀だ。
秋水はなぜ自身が死に直面した時に焦ったのか。それは刑死という自身の死が不条理だと感ぜられたからであろう。死すべき時が自身の自然に生きるがままの寿命によるものではなかったからであろう。胸の内では不条理を想い、半狂乱になりながら、それでも胸を張って彼はすべてを運命だと受け止めている。
当時の秋水が当時の社会しか、最終的に受け止められない状況にまで貶められてしまったのであれば、現代の我々は、かつて唱えられた秋水の考えを受け止めようではないか。かつてを受け止め、焦りともども豊かな感情と、思想弾圧という過ちへの冷静な批判を手に入れようではないか。これが秋水に学ぶべき内容だ。
(※1)
「周囲の環境によって余儀なくされ」るのは、上記で引用している、かつてより悲哀を繰り返した結果、死に負のイメージが次第に付与されていった考え(p.193)とも呼応する。人を取り巻く環境が引き続いてゆくことで言葉のイメージやその対立は固着してゆく。
参考文献
幸徳秋水 山田博雄 訳『二十世紀の怪物 帝国主義』光文社古典新訳文庫 (pp.185-216)
文字数:4593