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まとまらなくてもいい平和な世界で。

 

「それがあまりにも鮮烈な体験で、なんだかそいつのことが好きになってしまった。」

(無駄に意識高かった系学生の末路:shi3zの長文日記:http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20161118/1479428217

 

「『それは君が馬鹿だからだよ』とエリは人差し指の先でこめかみを押さえて言った。」

(村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:294)

馬鹿な多崎。

 

「日が暮れたあと、彼にはどんな予定も入っていない。」

(同上:339)

「多崎つくるにはとくに向かうべき場所はない。」

(同上:355)

「腕時計の針は七時前を指していた。空にはまだ明るさが残っていたが、通りに並んだショーウィンドウは人々を誘うように刻々と輝きを増していた。時刻はまだ早く、とりあえずやらなくてはならないことは何もない。家にはまだ戻りたくない。静かな場所で一人きりになりたくない。行こうと思えばどこでも好きなところに行ける。ほとんどどこにでも。でも実際にどこに行けばいいのか、つくるには具体的な場所が思いつけなかった。」

(同上:148,149)

いつだって僕らはどこへゆけばいいのかさっぱりわからない。指標がない。やっぱりそれは馬鹿だからなのだろうか。

―――

「そもそも”しり”というのは”殿(しんがり)”で最後ですから(笑い)、学問的にも陽の当たらぬ場所で、ないがしろにされていましたね。だけど、大事なところですよ。ここが出鱈目にされ、しまりがなくなったら、落ち着いて話もしていられませんよ。」

(隅越幸男『痔の話』:53)

人は痔のことを小馬鹿に、あるいは恥じて語りがちだけれど、医者たちは大真面目に議論して、患っている人にきちんと面と向かおうとする。たとえ患者の苦しみを(まさに)共有してはいなくても、どのような対処をもってすればより良く治るのかを追究していく。つくるよりかは馬鹿ではない。どこへ向かえばいいのか分かっているから。だが医師よりつくるのほうが愛らしくはないか?

「中  高と『女に性欲があるか』という議題を延々ディスカッションしてきた仲間が先に結婚した」

(久保ミツロウ「モテキ 1」:89)

人間に性欲がないはずがないわけで、事実に基づいていないことを話しつづけることはディスカッションと呼ぶのかさっぱり分からないがどうしたって愛らしい。

「『でも、わたくし、毎晩、初めからあなたの御手紙を出しては全部読みましたわ。読みなおさないと眠れなかったもんですから』『じゃ、それを全部破ってしまいましょうか』」

(中河与一「天の夕顔」:16)

手紙を破らないと会おうとは思えない。手紙を破ってしまうことでさらに再び会いたくなる。上の「モテキ 1」の引用も確かに前半部分は愛らしかった。だが、最後で「仲間が先に結婚し」てしまう。その事実は破られた手紙と同様に何かへ切れ目を差し込んでいる。約束のように意味のない話を延々と続けた腐れ縁はきちんと破られたわけだ。こうしてみてみると疑問が湧いてくる。「モテキ」の場合では結婚が縁切りの作用として働いているが、「天の夕顔」の場合では手紙を破り切って捨ててしまうことで逆に彼らの繋がりを強固なものにしている。

これは友情と愛情の違いだ。人の関係が友情であり、かつ愛情であることはありえない。そして友情はいつも愛情に負ける。友情は弱い。こんなにも友情に不全感があるのはなぜなのだろうか。

―――

アジア系ロシア人、ボクシングの世界チャンピオン、ユーリ・アルバチャコフについて

「ユーリは、寡黙で、目を合わせても、ニコリともしなかった。……そのことを言うと、『笑う理由がない』と答えた。……ユーリは、理由もないのに笑う必要がなかったのだ。」

(村上龍『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ』:18)

笑わない人間は多崎同様馬鹿なのだろうか、と書いてしまうとまるで笑わない人間が馬鹿であると主張しているかのように取られそうだが(とはいえ、やっぱり笑わない人間は馬鹿だろう。生きているのだから笑えばいいというのはこの上ない事実である。)ここで言いたいのはそうではなく、つまり笑いとはどこまで戦略的に人とのコミュニケーションにおいて利用することが可能なのかを考えなければならない、ということだ。

ユーリはボクサーであり、笑わないのは常に勝負の世界で生きている。彼は戦略として笑みを浮かべることは相手に弱みを握られることだと悟っている。

「A  ……本当に大切なことは、具体的な他者との関係を具体的に発展させ、開いてゆくことなのです。他者へ向けて自己を、自己へ向けて他者を開き、それぞれの存在を見つめ、ともに発展しあうことです。」

(間章 『この旅には終りはない』:83)

笑いは他者を開いてゆくことが可能だろうか。然り。では笑いによって各々の存在を見つめることは可能だろうか。否。笑いは身体を揺さぶり、真剣に相手を見つめることを妨げる。相手の姿は霞み、全てを把握することは困難となる。というよりもむしろ笑いは把握を否定する。把握する必要など無いのだと一喝する。ただそれぞれが笑いによって開かれ、その開かれたところのそれぞれの身体が身体の上で踊り狂えばいいと宣う、それが笑いである。笑いとはコミュニケーションを拒否する。ユーリの笑わない選択はコミュニケーションを拒否しているかのように見えて、実は相手との対峙により真剣に取り組む、ひたむきな姿を映している。

「私たちが身体の動きそのものについて意識しないで動くとき、身体は既に身についた自然的秩序にはまりこむ、この秩序から離脱するためには、まず自分の身体の動きそのものを意識しなければならない。実はこれこそ舞踊の身体の始まりである。」

(尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク』:150)

翻って単純に笑って笑ってリズムに合わせて身体を揺することだけが踊りではない。むしろそちらのほうが踊りと呼ぶにはふさわしくない。舞踊には型が欠かせず、自分の身体の動きがどのようであるかを常にチェックし続けなければならず、なにもごく自然になされるわけではない。

「L  …私たちはもっともっと私たち自身について学び、知る必要があると思います。すべての過去が現在の延長であるように、私は自分の行った行為に、演奏に完全に醒めてそれを見つめ直す必要があるのです。すべてを偶然にしないためにはそうした作業が必要です。」

(間章 『この旅には終りはない』:78)

即興演奏家も必死になって自分を見つめ、自分が発する音がいかなる音なのかを常に監視ならぬ監聴(かんちょう)し、すべてが馬鹿馬鹿しい偶然の音の連なりでこれは音楽ではないと批判してくる輩に反撃を試みている。彼らだって分かっているはずだ。果たして自分たちがやってきたことは音楽だったのか、疑問に思わない日はないのではないか。なぜならば即興音楽自体が音楽に批判的な音を鳴らすからである。誰の奏でる音楽とも違う音を出すことで別様の音楽が生まれ得ないのかと常に問い続ける音楽ジャンルだからだ。

とはいえ、偶然の要素を完全に捨てきっているわけでもない。「すべてを偶然にしない」だけで、ある程度は偶然であることを認めている。当然、自分自身を見つめた結果であろう。

だが笑いは自分自身を見つめない。決して客観的ではありえない。

「たとえば畑につっ立って風を感じている男は、近代的観客の目には舞踊と見えないだろうが、同じ身体感覚で風を感じている観客には一種の舞踊かもしれない。」

(尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク』:70)

「かもしれない」と書かれている部分には注意が必要である。書かれた内容の様子を見て、一体どれだけの人が、このシーンで立っている人は舞踊していると解釈できるのだろうか。観客は舞踊に関する知識をそこまで持ち得ているのであろうか。舞踊していると思い込んでいるかもしれないこの「舞踊者」は、自分自身しか見えていない。近視眼的に、まるで世界から自分を切り取ったかのようにしか見えていないために、そんな自分を畑に置けば「舞踊かもしれない」と誤解される可能性へ見いだしてしまう。誰かが勝手に幾つかの要素を関係づけ、運命的なものを勝手に感じて、ここはこういうように解釈できる!と発言してしまうかもしれない、という可能性でしかこの作品案は首の皮がつながっていない。

―――

友情の不全感も作品案が首の皮一枚感を出しているのもどちらも確(核)たる証拠が無いためだ。友情に肉体の接触が必要不可欠であるわけではないし、信頼関係は必要だがそれは友情だけにとどまらない。作品案は解釈に主張を委ねすぎていて、一体何を言わんとしてその作品が形作られるのかについて無頓着である。かといってこれは単なる案、例示としての例え話であり、ここから、この案を核として作品が構築されてゆく可能性がある。不全感の中に核は無かったが、実は不全感自体が核であった。

黒人医師のセヨロについて、バーに集まった皆に白人農家の男が報告するシーン。

「みんな  俺の新しい従業員セヨロに乾杯するよ。

患者が来ないから農場の手伝いをしてくれてる。来年耕作を考えてる人にアドバイスがある。ここの土は愚か者の産出力に富む。バカがよく育つぞ。乾杯。」

(映画「アフリカン・ドクター」:44:55ごろ)

馬鹿なのは多崎だけでなく、黒人医師を信頼しない農民もであった。彼ら農民は黒人の持つ医師資格の証明書を信頼しない。どこか怪しげで、何かおかしな振る舞いをするかもしれないと(無意味に)勘ぐっている。誰も目の前の黒人が何をし、何を考えているかなど考えもしない。彼らが初めて黒人を観た(見た)のはサッカーの試合で、であった(出会った)。馬鹿はいつまでも馬鹿ではない。智者からすれば馬鹿はいつまで経っても馬鹿かもしれないが、実は馬鹿は馬鹿なりに成長していたりもする。それは仕方のない事だ。生きるということは知りつづけることだからだ。しかしやっぱり引き続き馬鹿であり、さらにどこか愛らしい。馬鹿は寄り集まって核を作る。投票し、意志と言う名の核として表象する。

―――

「いいわねぇ  私もどこか誰かと旅立ちたいわ こんな遠い所  誰も来ないから」

(久保ミツロウ「モテキ 1」:214)

 

「『フィンランドにいったい何があるんだ?』と上司は尋ねた。

『シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン』とつくるは思いついたことを並べた。」

(村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:235)

ねえ、でも、だからどういうことなの?空白が核となっているようだってことはなんとなくそうかもしれないけれど、だとしてじゃあどこへ向かえばいいの?ただ思いついたことを並べてみたけれど、この文章は取り繕いにもなっていないよ?

まいったなあ・・・。

「どんなにつまらないものであっても自然の光景だけで、確実な快楽が充分に与えられるというのに、なぜ人は劇場や映画館や喫茶店なんぞに気ばらしを求めるのか、しかもほんとうに楽しむことができないのに?」

W. de モラエス『モラエスの日本随想期  徳島の盆踊り』:163,164)

だって当時は日本に住む人がどんどん自然の光景の見方を見失っていたからであり、もはや現代においては自然の見方なんて知らねえ人が人間を演ってるからだ。見方を失って人は馬鹿になった。人それぞれが空白に、中心になった。結局馬鹿みたいに(いや馬鹿ゆえに)中心は多いが、中心が求めるところの外部、中心に対して外からまとわりつく要素が明らかに不足している。よって大きな個体になることはなく、小粒の粒子がギシギシと音を立ててうるさい。

 

「遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。……私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶い、ふるさとわが町の誇りを語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。」(弥生式土器発掘ゆかりの地  建碑のことば:http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/yayoi.html

たとえばこの「建碑のことば」の「私たち」はどのぐらいの人々を囲い込むことに成功するのだろうか。その土地に長年暮らす東京民?歴史好き?果たして街に住む人のどれだけの人がこの「建碑のことば」を意識しているの?

私たちって、誰?

「人間として、この世に生れて来たことの寂しさの中にあって、あの人に逢えたということは、それだけでもわたくしにはありがたく、たとえようのない喜びに思われたのです。」(中河与一「天の夕顔」:92)

違う。違うんだ。私たちっていう言葉は別に私たちがいるから私たちっていう言葉ができたわけではないんだ。どちらかと言えば私たちという言葉が出来ることによって私たちが生れたんだ。人と人の関係が出来上がったんだ。ただ人と人が逢い、「私たち」と叫んだ。これで私たちは出来上がったんだ。私たちが最初からあったわけじゃない。誰か特定の私たちがいるわけじゃない。私たちって叫ぶ瞬間にしか私たちは存在し得ない。

だから私たちが出来るためにはまず喜びが、出逢いの喜びが必要なんだ。出逢って、嬉しくて、「私たち!」って相手も自分も叫ばせ、ハイタッチさせるような何かが必要なんだ。そしてやっぱりそういう叫ばせるような何かであるところの中心に対してまとわりつくような外側にある要素があまりにも不足している。

「演奏者にとって必要なのは、あらゆる本質的なものを自己において統合し融合し、それらの結びついた力強く自由な音楽をやることです。」(間章 『この旅には終りはない』:134)

そう。だからといって欠乏感を醸し出してしまうとそれぞれの中心化がより進み、外側にある中心にまとわりつく要素は各々によってさらに吸い寄せられ、より外側の要素が少なくなってしまう。周りの人々との繋がりは外側の要素の減少によって薄れてしまう。よって如何にして各々の人間が中心化から逃れるか、ということが大きな塊を作る上で重要である。小さい中心が無駄に外側の要素を引きつけていくつもの顆粒をつくっても仕方がない。極力中心とならず、中心に対してまとわりつく外側の要素を出来る限り放出する。あるいは自分でも外側の要素を作ってみるのもいい。とにかく中心は少なければ少ないほど、外側の要素は多くなり、中心として機能してしまう人に要素が集まって、より大きな塊が製造されてゆく。

中心となる人間には並々ならぬ覚悟と才覚が必要である。演奏者然り、芸術家然り、中心となるべき人間には特殊な技芸が必要だ。誰にも真似出来ない、その人だけしかなせない技を以って塊を作り出してゆく。ハッタリではすぐに塊が崩れ、元の砂粒に戻ってしまう。あるいは無駄に小さな塊しかできないので、「私たち!」のハイタッチを引き起こすことができずに、次第に腐りはじめる。自己における統合、融合を行なうだけの技芸があるかどうかが、より大きな塊とならしめる、すなわち「私たち!」のハイタッチを引き起こす中心人物の分かれ目となろう。

「するとデレクは言ったものだ。『本当は自分自身にいらだっているだけなんだ。そして時間はたってゆく』」(同上:212)

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